第5話 位相のトランジション

 私は勇気を振り絞って、パスタを一気に飲みました。

 麺が長くて一度には飲みきれませんが、この状態でもどうにか呼吸はできます。


 喉にチクリとした刺激がありました。

 これがノドゴシというものでしょうか?

 このお店のノドゴシというのは、私のイメージとは少し違うようです。


 それにしても、このパスタは刺激が強すぎないでしょうか。

 おそらくあの赤い部分が香辛料か何かで、それが粘膜を刺激しているのだと思いますが、ピリピリするというより、チクチクします。


 食道に送り込んだパスタは、まだ口から皿へと伸びていて、さすがに長すぎるので私は麺を噛み切ろうとあごに力を込めました。

 しかしながら、なかなか噛み切れません。

 弾力が強いというよりは、麺の組織というか、繊維が丈夫なようです。


 皆さんはどのようにして麺を食しているのかと、参考のために顔を上げて拝見させていただきます。

 右斜め前方の方を参考にしましょうか。


 おや、普通に噛み切れているではないですか。


 そもそも、右斜め前方の方はすごい吸引力で一気に飲んでしまうので、噛み切るという行為など、ほとんど必要なさそうに見えます。


「うっ」


 さすがに苦しいです。

 むせそうになり、どうにかこらえます。

 のどというか、食道というか、私の体内における麺からの刺激が強すぎます。


 私はせきの代わりにパチクリと何度かまばたきしました。


「んむぅっ⁉」


 右斜め前方の皿の上、変です。

 さっきまで赤いまだら模様のだいだい色のパスタが乗っていたはずですが、何か黒くて細いものに変わっているではありませんか。

 それも、少しちぢれている気がします。


 私はふと視線を自分の皿の上に落としました。


「んんんんっ⁉」


 これは……、髪の毛ではないですか!


 なんということでしょう。


 しかも、このウェーブには見覚えがあります。

 私が店員さんの方に視線をやると、店員さんは深々と九十度のお辞儀をします。

 そこから垂れる髪は、まさに私の皿の上のものと同一です。


 といいますか、いま現在、皿の上の髪の毛が皿から私の口内へ、そして食道の奥へとつながっている状態です。


 私は慌ててそれを引き抜こうと、フォークを投げ捨て、自身の口内から伸びる髪を引っつかみました。

 そして、それを思い切り引っ張ります。


「うぐぅうっ‼」


 何かが引っかかりました。

 喉の奥にとてつもない激痛が走りました。


 何が……いったい何がひっかかったというのでしょう。


 痛みに体が反応して涙が出てきました。

 視界がにじむので目をしばたたかせます。

 すると、再び目の前の光景に変化が訪れました。


「――ッ⁉」


 皿の上の髪の毛には、カッターの刃が万国旗ばんこくきのように一定間隔で無数に結ばれているではありませんか。

 それが私の口内へ、そして食道へ。


 なんなのでしょう、これは!


 思わず店員さんをにらみつけると、店員さんは私の目を見る間もなく、深々と九十度に腰を折って頭を下げます。


 なぜ私にこんな仕打ちをするのですか、と思いながら、右斜め前方の客を見ます。


 なんと、右斜め前方の客の品もカッター付きの髪の毛ではないですか。

 しかも、それをフォークで巻き取り、口の中に押し込み、スルスルと飲んでいきます。


「ノドゴシ! 素晴らしいノドゴシ!」


 まさか、カッターの刃からの刺激がノドゴシだというのですか? それを堪能しているというのですか?


「ノドゴシ最高! このノドゴシが最高! 最高のノドゴシ!」


「ノドゴシ! ノドゴシ!」


「ノドゴシィイイイイッ!」


 左斜め前方からも、向かい側からも、後方からも、ノドゴシを堪能たんのうする感嘆の声が響きます。


「…………」


 私は絶句してしまいました。


 この状況で恐怖や怒りといったマイナスの感情に染まっているのは私だけということですか。


 そうですか……。




 郷に入っては郷に従え、と言います。




 冗談じゃありません!


 こんなもの、食べられるわけがありません!


 私は覚悟を決めて、口から出ている髪の毛を思いっきり引き抜きます。


「ああ……あ……あ……」


 痛いです。


 それはもう、滅茶苦茶に、痛いです。


 体内を激痛が駆け巡っています。


 たまりません!


 痛いです。


 私は怒りで沸騰しています。


 私は血と唾液でベチョベチョになったカッター付き髪の毛を皿の上に叩きつけました。


「はぁ……」


 痛みをこらえながら、一度深呼吸して店員さんを睨みつけます。


 すると、店員さんは九十度のお辞儀をしましたが、私のこの所業のせいか、さすがに店員さんの動作にも変化がありました。


 店員さんはお辞儀をしたまま、顔を上げて私の顔をじっと見てきました。

 カッぴらいたその大きなまなこで。

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