平和を願うキャンバス
笠原たすき
第1話 絵描きの少年
フェリコ・ラーキーは、絵の具で汚れた上着の袖を手首まで引き寄せると、もう一方の手を突っ込んだ。手がかじかんでしまっては、思うような線を引くことができない。
このマーケットの隅で絵を売り始めてから、初めての冬が近づいている。これからのことを、真剣に考えないといけない。
そこへ、ひとりの老人が近づいてくる。老人は、フェリコの周りに並べられた絵を眺めると、感心した様子で言った。
「素晴らしい! 風景画も人物画も、実にあたたかみと優しさにあふれておる」
「ありがとうございます」
「今描いているものはなんだね」
そう言って、老人はフェリコの手元を覗き込んだ。
「先日見た光景を描きました。少女が落とした玉ねぎを、一人の女性が拾い、渡してやる様子です」
「これまた素晴らしい! なんと慈愛に満ちた絵だろう! この若さでこれほどのものが描けるとは。きみ、いくつだね」
「12です」
「こりゃあ将来、立派な画家になるぞ」
老人は、そう言った後で、フェリコの背後の壁に目をやった。
「――こんな時代じゃ、なければな」
壁には“兵士募集”の貼り紙が幾枚も掲げられていた。
◆
画家である父は、フェリコによく絵の技術を教えてくれた。母も芸術を愛する人で、フェリコの絵をたいそう褒めてくれた。フェリコも、将来は父のような画家になると信じて疑わなかった。
そんな父と母は、去年の冬に流行り病で亡くなった。それからフェリコは、父が遺した画材と絵の技術を頼りに、自ら絵を描いて売り始めた。
戦争が始まったのは、その後のことだった。フェリコの暮らす国オセアノと隣国モントは、小国同士、昔は仲が良かったという。しかし、フェリコが物心ついた頃にはもうその影はなかった。
フェリコは相手が先にこちらを攻撃してきたと聞かされていた。しかし、こちらが先に相手の領土に攻め入ったのだと言っている人もいた。
どちらにせよ、フェリコにとっては関係のないことだった。問題はどうやって今日を生きていくかだ。この町はまだ国境から遠いため戦火をまぬがれているが、戦争によって暮らしはどんどん貧しくなる。みな絵を買って楽しむ余裕などなくなっている。
それでも、なんとしても食い扶持を稼がなければならない。フェリコにはその理由があるのだから。
◆
町はずれにある小さな小屋が、フェリコの今の住まいだ。両親の死後、生まれ育った家からは追い出され、代わりにお情けでここがあてがわれた。
フェリコは、その小屋の戸を力いっぱい押し開ける。
「おかえり、おにいちゃん!」
そこには、かわいらしい笑顔があった。フェリコは荷物を両手から手放すと、
「ただいまーーーサチーーーーー! 淋しくなかったーーー?」
妹に思い切り抱きついた。
「さみしかったーーー。でもだいじょうぶ! サチもお絵描きしてたから!」
サチも元気いっぱいに答える。
「どれどれ、見せてごらん?」
「これーーー! おにいちゃんの絵!」
サチはそう言って、得意気に画用紙を差し出す。フェリコはそれを受け取ると、
「うわーーーーー! すごいぞ! さっすがサチ! まだ5歳なのにこんなに上手な絵が描けるなんて! 今から将来が楽しみだ!」
単純な線と丸が組み合わさったような絵を、それは仰々しく褒めちぎった。
「そんなサチに、今日はいいものがあるよ!」
そして、荷物の中から、包み紙で大事そうに覆われたものを取り出し、中身をサチに見せる。
「パンだーーーーー!」
サチはそれを見ると、目をキラキラさせて声を上げた。
「今日は絵が売れたんだ。だから特別」
「わぁい! はんぶんこして食べよっ」
「ああ、お兄ちゃんは、八百屋のおじさんに分けてもらったお芋があるから大丈夫。サチが全部食べて」
「いいの……?」
「いいんだよ。さあ、早速食事にしよう」
サチはこくりと頷くと、奥にあるテーブルに向かった。そして、椅子に座る前に振り返る。
「おにいちゃん、サチのことすごいって言ってくれたけどね」
「うん?」
「おにいちゃんのほうが、もっとすごいと思うよ! サチね、おにいちゃんの絵をみてると、なんだかにこにこってしてくるの。サチ、おにいちゃんのやさしい絵、だいすきだよ」
「サチ……」
フェリコは、胸がつまる思いだった。
「ありがとう」
ひとつしかない窓がガタガタと音を立てた。外には秋の風が吹きすさび、冷たいすきま風が潜り込む。
暖炉もない、ぼろぼろの小さな小屋。ここで冬を越せるだろうか。仮に自分は大丈夫だったとしても、まだ小さな妹は耐えられるだろうか。
そんなことを思いながら、つかの間の小さな幸せを抱きしめるのだった。
◆
「じゃあ、行ってくるね。毛布被って、あったかくしてるんだぞ」
フェリコがいつものようにマーケットに出かけて行ったある日のこと。
エストラ・ブルポーは、難しい顔をしてマーケットを歩いていた。
「まったく、長官も無理を言うわ。あれっぽっちの予算で、国民の戦意高揚を図れなんて……」
すると、ある貧しそうな少年の姿が目に留まった。真剣な表情で、キャンバスに向かっている。その周囲には、彼が描いたと思しき絵が、いくつか並べられていた。それらの絵は、芸術の分からないエストラにとってさえ、価値のあるものに見えた。
「――――……」
エストラは顎に手を当て、じっとその姿を見つめるのだった。
<続>
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