空のかけら

上松 煌(うえまつ あきら)

空のかけら

 「ねえ?」

彼女が振り返った。

「これって、空のかけらみたい。ものすごく高いところから来るから、冬だとこんなに冷えちゃうけど。ほんとはふっわふわで優しいのよ。天気のいい日は綿飴みたいに甘くて、でも、やっぱりしまいに地面に落ちちゃう」

彼も空を見上げる。

「うん、まぁ、おまえっぽく言うと、ものすごぉ~く高いところから来るから、途中でセシウムさんやプルトくんまみれ、だな」

「も~、リアル過ぎ。せっかくメルヘンしてるのに。駿輝(しゅんき)は芸大目指してるのに、ほんっと夢がないんだから」

彼女の手を彼が握る。

「あ~、冷てえ。寒くね?」

「ぜんぜん。去年も歩いたよね。こんな白い夕方。付き合ったばっかりだった」

「腹へってさぁ、コンビニでおでん買ったじゃん。由宇香(ゆうか)は卵とジャガイモと大根とチクワブ買ってさ、おれが好きだからってチクワブくれた。おれはウインナ巻き3つとハンペンと卵買ったんだ」

「すっごい記憶力。駿は変な所にアタマいいよね」

2人は笑いながら、傘をぶつけあった。


 住宅街の道は少し回り込みながら緑地に向かっている。

黄昏時は音がしんしんとくぐもって、優しいだれかにそっと耳をふさがれている気がする。

 「もう少し歩こ? わたし、いっつも思うんだけど、こういう日にメリー・ゴーランドに乗りたいなって」

「西武遊園地なら、近いぜ」

「ううん、そうじゃなくて。夢っていうか、真っ白で馬車とかはなくて、羽の生えた天空を行く馬と、角が生えて空も海も自由な馬。わたしは羽の馬に乗って、あなたは角の馬なの。回転ごとに近づいて」

「ぶっちゅ~」

「もぉ~っ、駿のバカ。ちっともロマンティックになれない」

「ってか、オニャニョコの夢がメリー・ゴーランドなら、♂の夢はぶっちゅ~から先。由宇香もこれから、おれ以外の男と付き合うかもだけど、やたら寝たがるバカには気をつけろ。♂はな、♀が大切になればなるほど手が出せなくなる。なぜかはわからんけど、とにかくそ~なる。これは覚えとけ」

彼の手に力がこもったのがわかった。

見上げると、空のかけらが後からあとからやってくる。

グレーの空からさらに灰色に、目の前を過ぎるとキラめく結晶に変わって舞いおりる。


 彼女は思う。

(わたしにとっては駿輝は特別だよ。でも、駿にとってわたしは? 今の手の強さは? わたしも特別なの?)

足取りが重くなる。

彼ははっきり「由宇香もこれから、おれ以外の男と付き合うかもだけど」と言ったのだ。

特別なら、そんなことは言わない。

些細なことだけど、さっきの言葉がきっと本音なのだ。

「どした?」

「ううん、あそこに東屋あるから座ろ」

緑地は手前に広場があって、屋根つきのベンチが見えている。

「いいけど、ケツ冷えるぞ~」

手を振りほどいて走ると、彼もついてくる。

でも、途中から競争になって、彼女は軽く抜かれた。

「駿輝は子供みたい。全力で走ったでしょ?」

息を白くはずませて抗議する。

「あ? んなワケね~だろ。軽く流しただけ。♂と♀の筋力の違いだよ。瞬発力は♂。持久力は♀だな。男は競馬ウマで女は乗馬のウマ。特質がちがう。だけど、ちがうからいいんだ」

「うん、男女が同じじゃ、つまんないもんね」

返事しながら、すぐ隣に座った横顔をあらためて盗み見る。

堅い骨格と強い筋肉を包む、浅黒くてちょっと硬直した皮膚は、やっぱり女性とはかけ離れている。


「なに見てる?」

いきなり聞かれてちょっととぎまぎする。

「べつに。でも、駿は何考えてるのかなって…」

「おれ? おれは昔を思い出してた。ガキのころ、家族で超絶大事にしてた猫さんが、あかんぼ生んだんだ。1ヵ月くらいたって、もう、ころっころにかわいくなったころ、雪が降ったんだ。こんなふうに真っ白にさ。そうしたら、子猫たち、その風景見て、もう、すっげえ感動してる。わかるんだよ。はじめて雪見てさ、何だろう、危険はないのかな? 景色が変わっちゃって怖い、でも不思議、触ってみたい、みたいな気持の流れが、キラッキラに見開いた眼や、ピンとしたひげ、食い入るような視線からさ」

「わぁ、かわいい。猫ちゃんって、気持ちのこまやかさが人間以上なんだって。獣医さんが言ってた。人間より、頭いいって」

「世界中で神だった動物だからな」

「そう、神様を忘れちゃって崇めなくなってから、人間はダメになったよね」

「ネコと和解せよ」

「あははっ、わたしもその画像、ネットで見つけて笑えたけど、ホントにそうだなって」

「うん、まんまだよ」

彼も笑った。

「このごろ気づいたんだけど、…おれさ、なんかおまえといる時、口数多くね?」

「えっ? 付き合い始めたころに比べて?」

「うん」

「え~? 覚えてないなぁ。駿の最初の印象は、プライド高くて威張りんぼ。この人、亭主関白になりそうって…」

「ひっでぇ…。それでなんで付き合った?」

「う~ん、一緒にいて楽しかったからかな。気が合うっていうか…それに意外と思いやりがあっていい人だった」

「ふ~ん」

2人はそれで黙った。

舞い落ちる綿毛の塊が大きさと重さを増してきた。

かすかなパサッという音がささやくようだ。

「じゃ、駿はわたしのこと、どう思ったの?」

「あ?…う~ん、まぁ、なんつうか、かわいいなって。あと、変わってる、かな。さっきみたいにメルヘンしてるとことか」

「やだぁ、ちょっとロマンティックしただけじゃん。だって、こんな白い日って1年に何日もないもん」

「わかる。非日常って、やっぱハイになるよな」

彼はわざわざ東屋の庇を抜けて、外に立った。

「こ~やって、空に顔向けて立つじゃん。そうすると、体が無限に空に昇ってく。永久に登り続けて、おれは神にな…ああっ、襟ん中入った。やっぱ、冷てえっ。顔もびっちょびちょだワ」

「うふふ、駿輝もメルヘン失敗だね」


 彼女が両手で、大事に大切に彼の手を包みこむ。

「濡れちゃって、すっごく冷たいよ」

「え? あっ。ちょっ、い、いい。放っとけよっ」

彼が乱暴に彼女の手を抜けた。

「ええっ? …どうしたの? 急に」

「だ、大丈夫だから、放っとけってこと。…帰るぞっ」

さっさと立ち上がる背中を見ながら、彼女は思う。

(わたしはやっぱり、特別じゃないんだね。駿の心もすっごく冷たいよ)

サクサクという足音がしばらく続いた。

彼はイライラと歩を進め、彼女は重い気持ちで後を追う。

「ぼくら7月生まれの子供たちは」

「えっ?」

いきなりの言葉に彼女はとまどう。

「ぼくら7月生まれの子供たちは

 白いジャスミンの花の香りが好きだ

 ぼくら重たい夢にふけりながら

 花の咲いた庭をゆく」

彼女が遠慮がちに言う。

「…どうしたの? 駿輝は変だよ? でも、それヘルマン・ヘッセの詩だよね」

「高橋健二訳な。あ~っ、おれ、やっぱ口数多すぎっ」

彼が急に向きなおったので傘がちょっと強くぶつかった。

「こんなにしゃべってんのに言えねえぇ~。由宇香、おまえ、7月生まれだよな。おれ、この詩が好きってことっ」

「え…??」

よけいイミフだ。

彼女は返事に困って、白い風景の中に立ちすくむ。

「ああ~、ムカつくっ」

「駿、なに怒ってんの? あたし、なにかした?」

「してねえよっ、してねえから、も~~ぉっ」

手を振り回して、いつもの曲がり角を通り越して行く。

「どこ行くの? ここ、曲らなきゃ」

「うっせぇっ。いいから、おまえは帰れ」

(いっしょに帰って。わたし、駿輝といっしょに帰りたいよ)

心が彼を呼びとめる。

空のかけらの中を、堅い背中が遠ざかった。


 幾人もに踏みつけられて、汚れて乱れた白い道を一人でたどる。

ショリショリと優しい音を立てながら、車が轍を刻んでいく。

重くわだかまる心に、足取りが弱く遅くなる。

(駿輝はなんで急に怒ったの? 大好きだったのはわたしだけ? わたしの一人芝居? だったら、この1年間はなんだったの?)

来年には別々の大学に、きっと進学する。

道はそれぞれに分かれ、環境も交友も過ごす時間もちがってくる。

陽性で活動的な彼は、持ち前の思いやりと優しさで、新しい人間関係を作っていくのだろう。

(さびしいよ…)

地面に落ちて取り残されたまま、泥に汚れて行く空のかけら。

どんなに空に帰りたくても、もう、もどることはないのだ。

人の心や時間も、それに似ているのかも。

道の先に見えるコンビニの灯りが、なんだか悲しく懐かしい。

 


 「おいっ、由宇香ぁ」

自分を呼ぶ声にちょっとビクッとする。

いつもの聞きなれた声色に、ほんの少し異質なものが混じる気がする。

ちょっと他人行儀な…。

「腹へってね? おでん買ったワ」

先回りして待っていたらしい。

「遅かったじゃん。サイフ、ピンチでさ、チクワブと卵だけ」

もう、いつもの彼の声だ。

自分と同じものを彼女にも差し出す。

店舗の陰の、パンの板重を積み重ねた場所には屋根がある。

2人でそこに入ると、もう、他の視線は気にならない。

理由はわからないのに胸がキューンと詰まる気がして、目頭がツーンと痛い。

「あっ、アツッ、チクワブすっごく熱いよ」

「え~? 泣くほど熱かった? バッカ、がっつくからだよ」

彼の声に泣き笑いになる。

それで心がほぐれるのがわかる。

(今なら聞けそう。今なら言えそう)

「駿輝、ねえ、さっきなんで怒ったの? …わたし…あなたが…とても大…事…」

言い終わらないのに、やっぱり言葉が消えてしまう。

「さっき? あ、ああ。ん~、なんっつうか電撃だよ。電撃。下半身もろ」

彼の返事は変にハイだ。

「え?」

「おまえの手、やわらかくてあったかくてさ。ズッキューッ。ドゴォ~ン。あ、あんまりマジで考えんなよ」

「……」

「わっかんねえだろ~な。ま、いい。それに、おれはおまえに怒ってなんかいない。ってか、自分だよ。おれにすっげえムカついてる」

言葉を切って、少しためらう。

「遠回りしてくれる? ちょっとでいいんだ」


 表通りよりずっと細い道は、足跡が少なくて優しい白さが続いている。

空のかけらはもう、傘はいらないくらい小止みになっていた。

彼がおもむろに彼女の手を取る。

2人の肩はいつもより隙間があって、しばらくは黙って歩いて行く。

「あのさ、その…おれが大事ってホント? さっき、ちょっと言った…」

彼がそっとささやく。

くぐもっていたのに聞こえていたのだ。

「あ、…うん」

「本気?」

彼女の目線は自然に地面に落ちる。

物思いにふけるような表情が、かえって真実を紡ぎだす。

「うん、本気の本気。わたし、ほんとに…駿輝が」

「待て。その先はおれに言わせて。告るのはやっぱ♂だろ」

彼の言葉にさざ波のように震える。

夢のかなう瞬間(とき)のように。

「おれ、やっと確信したんだ。由宇香がだれよりも好きだって。来年にはガッコがバラバラになるけど、関係ない。これからも、ずっとおまえと生きて行きたい」

(駿、わたしも。わたしも同じ気持ち)

心はすぐに返事をしてるのに、言葉は足踏みする。

「嫌?」

「ううん…」

正面を向いて歩いたまま、彼は腕をぎゅーっとからめて体を寄せてくる。

「じゃ、由宇香も言って」

「あ、え、えっとぉ。あ、あの…わたしも駿輝が好き。いつまでも一緒に生きて行きたいです」

なぜか敬語になる。

彼がため息をついて、腕がゆるむのがわかる。

いきなり抱きすくめられ、唇をおでこに感じた。

「由宇香、ありがとン」


 「おれ、さ。思うんだ。大学卒業したら、由宇香と結婚する。そして子供を授かるんだ。子作りじゃない。授かる。ガキを自分の所有物みたいに思うバカ親ほど虐待とかするんだ」

「賛成。そういう親にはなりたくないもの。授かろうね。で、猫ちゃんも飼うの。はじめて雪を見せたら、1人と1匹、どんなだろう?」

「あはは、いいな。絶対、おれたちも感動するよ」

さっきより、明るさを増したみたいな白い道。

いつの間にか緑地の前まで戻っている。

ちょっと奥のほうには、誰も踏んでいない真っ白なフィールド。

「お、きれ~じゃん。おまえは東屋にいろ」

いきなりダッシュで走って行く。

目標物を起点に、サクサク足跡をつけて振り返った。

「曲ってるかぁ?」

ベンチの上に立つと、白い地面にけっこう大きなゆがんだカタチ。

「うん、曲ってるぅ。でも、ハートに見える、見える」

「由宇香にやる」

両手でカタチをすくい上げるしぐさをして、「ふっ」と、吹き飛ばす。

「あっ、ああ。重~い。駿輝のハート」

ヨロヨロ受け止めるフリに彼は爆笑する。

「おお~、いいボケ。おれたち、きっとお似合いだな」

まるで気をつかっているように誰も通らない道。

空のかけらがくれた白い一日は、静かに夜の帳を下ろし始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空のかけら 上松 煌(うえまつ あきら) @akira4256

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る