第21話

 つくしに貰った言葉のおかげで後ろばかり見ないで、前を向くことを決めた。

 けれど、僕に何が出来るのだろう。好きな人の隣にいるに相応しい人間になるために、何をすれば良いのだろうか。


 今はまだ分からない。ただ、何事もすぐ諦めずに頑張ろうと思う。



 そう、例えば今のこの状況だって頑張れば切り抜けるはずだ。


「真ちゃん。昨日のこと、説明してくれるかしら」


 校舎裏で綾瀬に壁ドンされて、至近距離で僕の顔を見据えている。

 その真珠のように光を反射する黒い瞳が、綺麗に輝いている。僕はどうしてか、逃げ出すことが出来ない。


「な、何のことだっけ……?」


「とぼけても無駄よ。キス、したんでしょう? 私以外の誰かと」


「き、キキキ、キスなんてしてないわ! そもそも、あれはつくしがいきなり……」


 綾瀬の問いを慌てて否定する。しかし綾瀬は僕の弁解を全く聞き入れないどころか、余計機嫌が悪くなった。


 ギシ……。

 僕の両足の隙間に、綾瀬の片足が差し込まれる。既に近かった僕らの距離が、更に近付く。

 互いの鼻息が頬に当たるほど間近に詰め寄られて、僕は反射的に瞳を閉じた。



「ん……!?」


 唇に柔らかい感触。昨日つくしにキスをされた時と同じだ。まさか、綾瀬まで僕にキスを!?


 恐る恐る瞳を開けると、目の前には綾瀬の視線があった。まるで僕が目を開けるのを待っていましたと言わんばかりに、ふふっと鼻から笑いが零れるのが聞こえた。

 そして、口の中にぬるりと生温かい感触が広がる。


「ん、むんんんんっ!?」


「ふふ……んっ……」


 口の中を生き物が這っているような、不思議な感覚。しかし不快感はなく、それどころか僕の思考が奪われるかのような、奇妙な快感があった。

 頭が朦朧とする中、口の中の物は僕の舌と絡み合う。息も吐かせない妙技に為す術もなく弄ばれる。


「ぷは……。キスは二回目でも、ディープキスは私が初めてでしょう?」


 ふふふ、と小悪魔のような笑みを浮かべながら綾瀬は唇を離す。


 僕と綾瀬との間に透明な糸が引いていた。唾液の糸は光を反射してキラキラと光り、それが僕にはとても蠱惑的に見えた。

 綾瀬も僕も、キスしている間に呼吸が出来なかったからか、鼻息が荒い。失われた酸素を求めて深く呼吸をする。

 次第に冷静になるにつれて、今起きた事の重大さに震える。


「お、おま、お前……なんてことを……!!」


「あら、怒らせちゃったかしら。でもまんざらでもなさそうな顔してたけど」


「だ、誰が! 大体、付き合ってもいないやつにいきなりディ……キスするなよ!」


「へぇ、じゃあ昨日キスした相手とは付き合ってるの? 確かバレー部の……下地さんって言ったわよね」


「いや、つくしとは別に付き合ってないし……。というか、告白されたけど断ったし……」


「告白されたんだ」


「あっ」


 失言だった。何も告白の件まで言わなくて良かったはずだ。あまりの出来事が続いて完全に脳が混乱している。

 綾瀬は大きな瞳を細くし、まじまじと僕を見た。

 何かを考えているような顔つきに、僕は取調を受けている容疑者のような気持ちになる。

 いや、もちろん警察に捕まった経験など無いのだが。だがこれは間違いなく、それほどの緊張感のある顔だ。



「まあいいわ。私も真ちゃんとは友達からやり直すって言ったばかりだもの。真ちゃんの恋愛事情に口を挟む権利はないわ」


「ほっ……」


「でも、付き合ってもいない相手とキスしたなら、私が責められる謂われも無いわよね♪」


「いや、でもそれは……!」


「嫌だった?」


「嫌、では……ない……です」


 純粋な子供のような表情で聞いてくる綾瀬を前に、つい本音を言ってしまった。

 綾瀬のキスは何というか、凄く上手だった。つくしのような感情の動きに突き動かされた故の突発的なキスも凄かったが、綾瀬のキスは僕の意識を奪ってしまうのではないかと思える程だ。


 とは言っても、やっぱりいきなりキスされたことを許すわけではない。本人の意志を確認せずにキスするなど、暴力と同じだ。暴力とは正反対に心地よい気持ちになったが、それは置いておこう。


「綾瀬……君がいくらキスが上手いからって、もう勝手にキスしようとしないでくれよ!」


「うん、今度は真ちゃんに許可を取ってキスするわね」


「違う、そうじゃない……。そういうのは、ちゃんと恋人同士でだな……」


「あら? おかしいわね。真ちゃんは付き合ってもいない相手とキスする人でしょう? それも二人も」


「違っ……」


 否定しようとしたが、否定できなかった。つくしと綾瀬、二日連続で二人からキスされた。

 それは両方とも相手からされたのだから、ほとんど事故みたいなものだけど、僕が二人を相手にキスしたという事実は消えない。


 中々いないんじゃないだろうか。付き合っていない相手、しかも同性を相手に二日連続で違う相手にキスするやつなんて。

 何てことだ。これでは僕が遊び人みたいではないか。勉強も部活もやっていないから、遊んでいることは否定出来ないが。


 その事実を認めてしまうのが何だか癪で、僕はその場を立ち去った。


 綾瀬は僕を追ってくるでもなく、ただ僕の背中を見ているだけであった。



 ◆◆◆◆◆



「おい奥路。……おーい、聞いてるか~?」


「んぇ?」


 休み時間に教室で平川に話しかけられた。今日も授業に集中できずに呆けていた僕は、平川の声で正気に戻る。

「奥路……お前最近変じゃねぇか? 昨日も授業に出ないわ戻ってきてもぼーっとしてるわだったしよぉ」


「それは……。なぁ平川、複数の女にキスするやつってどう思う?」


「はぁ? ドラマの話? そんなのただのゲス野郎じゃん」


「だよなぁ……」


「?」


 まぁ僕は野郎ではないのだけれど、端から見たら最低なやつだと思う。

 というか、あの二人は思いつきでキスしてくるなよ。発情期の猫か、と今更ながらにツッコみたくなる。

 でも過ぎたことにグチグチ言うのもなんだし、今は前を向くとしよう。


 そんな僕の前向きな決意を余所に平川は怪訝な顔をしていた。



「お前もしかしてキスしたんか」


「全然!? そんなことするわけ無いけどぉ!?」


「なんだそのわっかりやすい反応! え、っていうかガチで? お前誰かとキスしたのかよ」


「ばか声がでかいって! というかキスしたとか言ってないし!」



「えーー!? 奥路さん、キスしたのーー? 誰と? ねぇ誰と?」


「付き合ってる人とかいたんだー超意外じゃーん」


「それマジ? 奥路さん彼氏とか作らなそうなのに」


 ああ……。もう手遅れだ……。

 僕がキスしたという噂は瞬く間に教室中に広まってしまった。

 平川はあちゃあと声を漏らしやっちまったという顔をしているし、綾瀬は唇に指をあてて微笑んでいるし、もうめちゃくちゃだ。


 というか奧野さん彼氏作らなそうってどういう意味だろう。

 僕の外見がそんなに女らしくないと言いたいのか。確かに街中でたまに女の子から「お兄さん」と呼び間違えられるが。



「ねぇねぇ、カレシってどんな人~?」


「カッコいい系? それとも可愛い系? 年下? 年上?」


「どういう状況でキスしたのか聞かせてー。キスした後どうなったの? やっぱり……」



「と、とにかく僕に彼氏とかいないってば~!!!!」

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