第20話

 キス――それは愛情表現の一つで、特に唇同士をふれあわせる場合は意中の相手へ送る愛の証だ。


 六限目の授業を聞き流しながら、僕は自分の唇をそっとなぞる。

 つくしに唇を奪われたことを思い出す。今でもあの熱く柔らかい感触が残っているようだ。



 結局、つくしからの告白に返事をすることはなかった。屋上から出ていくつくしを追いかけたが、彼女の姿は既に見えなくなっていた。

 さすが運動部、足の速さで僕が追いつけるはずがなかった。

 五限目の授業が終わるまで時間を潰し、チャイムが鳴るといそいそと教室に戻ってきた。



「――この時世界では初めての元老院制を取り入れたのであり……」


 告白された。後輩に好きだと言われた。しかも僕と同じ、女子から。

 どうしたらいいのだろう、と僕は思い悩む。誰かに好きと言われるのは、素直に嬉しい。だが、それとこれとは話が別だ。

 突然の出来事過ぎて、思考がまとまらない。


 そもそも、いきなりキスしてくるとか何考えているんだあいつは!

 普通、そういうのはもっと手順を踏んでからだろう……!

 それに相手の気持ちも確かめずにキスしたのも問題ではなかろうか。


 ……何だか思い出したらイライラしてきたぞ。授業が終わったらつくしに説教してやろう。




「そういえばこの前、の天ぷらが――」


「ええ、キス~? そんなの好きなんだ~?」



「っ!?」


 き、キスだと。いや、落ち着け僕。今のは聞き間違いだ。

 授業が終わり、帰りの支度をしている中、クラスメイトの些細な会話から偶然きすというワードが聞こえただけのことだ。

 普段なら気にしない言葉なのに、何故か敏感に聞き取ってしまう。だがそれは、僕が変に意識しているだけのこと。


 それにしても、鱚の天ぷらなんておじさんくさい趣味をしているな。どうせなら、もうちょっと待ったら旬の季節になって美味しいのに。

 など失礼なことを思いながら、クラスメイトの会話を聞き流す。



「――ねぇ、奇数きすうの場合ってここの式って……」



「――マジあり得なーい! 空き巣あきすなんて超不用心じゃん!」



「――エキス・・配合っていっても、エナジードリンクって効くと思いますか」



 ……何故だ。何故みんな今日に限ってキスというワードの含まれた言葉を口にするのだ。


 キス、キス、キス、キス! どいつもこいつもそんなに口づけが好きか!


 そもそも、女子高生が出す話題としてどうなのだというものもちらほら聞こえるし、ひょっとしてみんなわざとやっているのではないか? と疑いの目を持ってしまう。

 しかし、誰も僕のことなど気にしていないようだ。僕が一人で焦っているだけらしい。


 ……いやいや、そうじゃない。キスを連想してしまうのは僕のせいだ。今の僕はつくしの行動が原因で、完全に頭の中がピンク色だ。

 思春期の男子学生か! と思わず自分にツッコみを入れたくなるくらい、自分で自分がダメダメになっていることを感じ取る。



「――ごめーん。英語の宿題ってテキ・・ストの何ページ目だっけー」



 またキスと言った!?

 いや分かってる。僕の気のせいということは理解している。だが、どうしても口づけのキスをイメージしてしまう。


 これはまずい。周りの会話のせいで、キスという言葉にゲシュタルト崩壊してしまいそうになる。

 一刻も早く、元凶であるつくしの元へ行って文句の一つでも言わないと、僕の頭がパンクしてしまう。



 ――僕は鞄を持ち、席を立とうとした。そこに、綾瀬が寄ってきて……


「真ちゃん、ホッチキス・・貸してちょうだい?」


「だからキスなんてしてないっつーの!!!!」


「え、キス? …………まさか、誰かとしたの……?」


 あ、やばい。綾瀬の目が笑っていない。

 あまりにもキスという言葉を意識しすぎてしまったせいか、ついキスのことを否定してしまったが、これではまるで自分からキスの話を振っているみたいではないか。


 というか、今のひと言で察するって、綾瀬の勘が鋭すぎないか? もはやエスパーではないのかと疑うレベルなのだが……。


 僕は自分の犯したミスを後悔する。綾瀬の目からは光が消え失せて、その黒い瞳は全てを飲み込むブラックホールのように暗い色をしていた。

 彼女の視線に悪い意味で吸い込まれそうになった僕は、全身のアラートを全開にしてその場を退却。全速力で廊下へ出た後、二階の廊下を陸上部もかくやという早さで駆け抜けたのだった。


「真ちゃん! どういうこと、誰かとキスしたの!? ねえ、誰なのその子は! 真ちゃーん!!」



「はぁ……はぁ……。綾瀬は追ってきてないな……」


 流石の綾瀬でも、突然逃走を図った相手を捕らえることは出来ないようだ。よくあの綾瀬から逃げ出せたものだと、今だけは全力で自分を褒めてやりたい気分だ。

 それにしても、一年生のいる三階までこんなに早く辿り着くとは。間違いなく今日が僕の人生の中で、一番早く走った日だろうな。


「僕がこんなことしなくちゃいけないのも、全部つくしのせいだ。あいつめ、見つけ次第説教してやる」


 教室から出てくる一年生の波をかき分け、つくしの姿を探す。帰りのホームルームが終わった直後のため、複数のクラスから生徒たちが出てくる。

 そのせいで中々つくしを見つけ出すことが出来ない。つくしは身長もそんなに高くないため、こうも人が多い中で見つけるのは至難の業だろう。


「こんなことなら、どこのクラスか聞いておくべきだったなぁ……」


「誰か探してるんスか?」


 後ろから声がした。おそらく親切な一年生だろう。つくしを探しているからそちらへ顔を向けられないため、僕は声だけで対応する。


「ああ。下地つくしっていう子なんだけど。ちょっとその子に言いたいことがあって……」


「へぇ、なんスか? 告白の返事くれるんスか?」


「告白って――つくしじゃないか!」


 後ろを振り向くと、探していた本人がいた。つくしはバッグを背負っていることから、これから部活に行くところだったのだろう。

 通学鞄が見当たらないが、まさか置き勉しているのか。勉強道具を全て学校に置いて帰るのは流石にやり過ぎだろうと思う。宿題とかどうしているのだろう。

 一年の内から勉強をサボっているようでは、二年になったらあっという間について行けなくなるぞ。勉強の基本は自学自習。予習復習を普段からしていれば、テスト前に無駄に勉強せずに済むんだから。

 まぁ、うちの高校に入れている時点でそこまで成績が悪いわけではないはずだから、僕が心配するほどでもないだろう。


「あ、いけね。筆箱、机に忘れてたっス」


「筆箱だけかよ。他の勉強道具は?」


「全部家にあるっスよ」


「それは嘘。流石に教科書やノートくらい学校に持ってくるだろう?」


「ノートは部活のバッグに入れてますよ? 教科書は毎回別のクラスの友達に借りてるっス。通学鞄と部活バッグ両方持つの面倒じゃないっスか」


「何か、色々と凄いな……。無駄を省いてるというか、無駄にこだわってるというか……」


 入学してまだ一ヶ月しか経ってないこの時期に、ずいぶんと割り切っているな……。

 通学鞄は基本的に使わないといけないはずなんだけど、教師に怒られたりしないんだろうか。

 まあ、部活バッグ一つで済むならそっちに纏めた方が効率良いのは確かだ。形式上の校則だし、教師も甘く見てるのかもしれないな。


 つくしは教室に戻って筆箱を取ってくると、部活バッグに無造作にそれを押し込む。

 ちなみにつくしの教室は一年三組だった。僕が一年の頃のクラスと同じだ。ちょっと前まであの教室を使っていたのだと思うと、ずいぶんと懐かしく感じる。まだ二ヶ月しか経っていないというのに。



「ところでセンパイ? 自分に用があるんじゃないんスか?」


「そうだった。お前、さっきはよくもやってくれたな! 人の同意も得ずにあ、あああ、あんなことを!!」


「あんなこと? 自分、センパイに怒られるようなことしましたっけぇ?」


「しただろ! 忘れたとは言わせないぞ!」


「すみません、自分ちょっとわからないっス」


 つくしはとぼけるようにそう言った。

 はて何のことやら? と指を頭に当てて首を傾けているところがまたわざとらしい。


「センパイ。自分、センパイに何をしたんスか? 申し訳ないけど教えて貰えるっスか」


 つくしはうーんと悩む素振りを見せながらこちらの出方をうかがっている。

 良いだろう、しらばっくれるというならこちらから言ってやろう。


「お前はさっき、僕にキ…………ス、しただろう!」


「え? 声が小さくてよく聞こえなかったっス。もう一度言って貰っても良いっスか?」


「だから、キ……スしたじゃないか」


「すみません、もう一回」


 人が恥を忍んで言ってやっているのに、どうして聞き逃すのだこいつは。

 それ程までに耳が遠いのか。うちの祖母の方がまだ耳が良い。それともわざとやっているのか?


「あー!! だからお前が! 僕に! キスしたって言ってるだろう!!!!」


 僕は今度こそつくしに聞こえるように、はっきりと声を出してそう伝える。これで聞き逃すなんてことはないだろう。もし次聞こえないなんてことを言ったなら、今度は耳を引っ張って僕の出せる限りの大声を至近距離で浴びせてやろうじゃないか。



 しかし、つくしは聞こえないふりなどしなかった。

 そこにあるのは、嬉しそうに頷きながらも少し照れくさそうなつくしの顔だった。


「うんうん、真センパイから言って貰えて嬉しいっス! これでお互いに、キスをしたという事実を確認し合えましたね!」


「お、お前……もしかしてサディストか……!?」


「そ、そんなんじゃないっス! ただ真センパイが『あれは事故だったんだろう?』とか言い逃れできないように、センパイの口から言わせたというか……痛たたたたたた!?」


「そんな悪いことを言っちゃう子にはお仕置きをしないとなァ~……」


 悪びれもせずににっかりと笑うつくしの頬をつねりながら、僕はつくしに説教をする。

 お前にキスされたせいで「キス」というワードが入る言葉に過剰に反応してしまったり、幼馴染にキスしたことがバレて凄い睨まれたことなど。



 しばらく頬をつねっているとつくしのやめてくださいという声が聞こえてきたので、手を離してやる。

 痛いなあとぼやきながら頬をさするつくしだが、次の瞬間にはもういつもの朗らかな笑顔に戻っていた。

 こいつの表情筋には形状記憶合金でも含まれているのかもしれない。


「それにしても嬉しいっス。センパイ、そんなに自分のこと意識してくれたんスね」


「ち、違う! この際だから言っておくが、僕はお前を恋愛対象には見れない……。せっかく告白してくれたのは嬉しいけど、付き合うとかは出来ないよ。……ごめん」


 僕の言葉を聞いてつくしは少し悲しそうな顔をした。そんな表情を見たら、少し申し訳ないなと思った。

 だが、僕がつくしと付き合おうと思えないのは事実だし、こういうことは先延ばしにするだけ状況が悪化するのだ。

 ここで言っておくのが本人のためにもいいだろう。



「真センパイ、一つだけ聞いていいっスか」


 つくしが落ち着いた声でそう言った。

 てっきり告白を断ったらもっと大きな声で騒ぐか、何でっスかーと駄々をこねてくるものと思っていた。


 予想外のつくしの落ち着きぶりに、僕は思わず唾を飲む。


「自分と付き合えないのは、自分が好きじゃないからっスか? それとも……女同士だからっスか?」


「え……」


 その質問は僕にとって、核心を突くような問いだった。


 つくしの質問は、一ヶ月前のあのことを思い出す。


 綾瀬に告白されたこと、それを振ったこと。僕は何故綾瀬を振った。

 好きじゃないから? 違う、僕は彼女にコンプレックスを抱いているが、心の底では彼女が好きだと気付いている。

 女同士だから? そうだ、と思った。だが、小さい頃に同級生から「女同士で気持ち悪い」と言われたのがトラウマになっているだけで、それが僕の本心なのか定かではない。


 では、僕は何故綾瀬を振った。何故つくしを振った。


 結局それは、僕のどこを起因とした感情なのか。



「……たぶん、女同士だから」


「――そうっスか」


「……だと思ってたんだ」


 つくしはえ? とこちらを見やる。

 僕は言語化できない気持ちを、何とか言葉に出力してみる。

 綾瀬を、つくしを振ったのは一体何故なんだろうと。



「僕は『女同士』が嫌なんじゃないんだ……。たぶん『女同士』で気持ち悪いと周りに思われるのが、怖い」


「でもそれは当人同士が……」


「違う。僕がどう思われようと、どうでもいいんだけどね。相手の子が、周りから変な目で見られることが怖いんだ。僕と付き合うせいで相手の評判を落とすのが、たぶん耐えられないんだ」


「真センパイ……」


「『あの人が奥路なんかと付き合うなんて』、『奥路が好きなんてあの人もおかしいんだわ』。そう言われるのが……どうしようもなく怖い。だからごめん、つくしとはやっぱり付き合えない」


 今分かった。僕は周りの目がどうしようもなく怖いんだ。

 それは僕に向けられた目ではなく、綾瀬に。そしてつくしに向けられるであろう視線に、僕は怯えている。



 しばらく下を向いていると、つくしは僕の手を握って宣言した。


「変われば良いじゃないっスか!」


「え?」


「自分なんかが……とか、相手に迷惑……とか思うんなら変わりましょうよ! 真センパイと付き合うっていうのが最高のステータスになれるくらい、凄くなりましょうよ!」


「僕が……。いや、無理だよ」


「無理じゃない!!」


 つくしが唾を吐く勢いで声を出す。既に生徒がいなくなった一年三組の教室の前で、つくしは大声を張って言う。



「自分が真センパイに惚れたのは、バレーがめっちゃかっこよかったからっス。不器用なのに凄く優しかったからっス。この人、何か凄いなって思えたからっス! センパイはかっこよくなれます! 自分が気付いていないだけなんスよ!」


「つくし……」


「だから、怖いんなら逃げないでください! 自分を、嫌いになるならいいいっス。でも、自分に真センパイを嫌いにさせないでください!」


 誰かに好かれることは凄く嬉しい。だけどその期待に答えられるかが不安だった。

 僕にそれだけの力がないと思っていたから。だけど、それは最初から僕の中にあったのかもしれない。

 僕が気付いていないだけで、僕には好きになって貰える何かがあるのかもしれない。


 今まではそんなことを考えるのも愚かしいと思っていた。だけど、少しだけ信じたくなった。


 僕なんかがと思うのは、今日で終わらせるべきなのかもしれない。



「ありがとうつくし。僕、変わりたいんだ。僕が誇れる自分に」


「はい! 振られちゃったけど、自分も応援するっス!」



 まさかキスからこんな話になるとは予想もしていなかったが、こうして僕は弱い自分を崩そうと誓ったのだった。

 新しい自分に会える可能性を信じて。

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