第11話
「どういうことか教えてくれる?」
僕は今、露骨に不機嫌な顔で凄む白月さんに壁際まで追い込まれている。英会話の授業が終わった後、白月さんの激高を買うのを恐れた僕は、卑怯ながらトイレで時間を潰して次の授業ギリギリになって教室に戻った。当然教師や他の子たちがいる前で僕に何か出来るはずもなく、その時は窮地を脱したと安堵しきっていた。
だが次の休み時間になると、にこやかに笑う白月さんに呼び出された。逃げようにも逃げられず、結果こうして所謂「壁ドン」をされているような状況に陥ってしまった。もっとも、全くドキドキしないシチュエーションであるが。いや、心臓の鼓動が早くなるという意味ではドキドキするとも言えるか。
だがこの状況はどう考えてもホラーだ。ラブロマンスならばここで甘い言葉を囁かれるのであろうが、僕が受けるのは呪詛のごとき怨嗟である。物語の登場人物に憧れたことはあるが、これでは悲惨な目に遭う被害者の役ではないか。そのような役目は断固拒否したい。だが僕に拒否権はなく、既に白月さんの毒牙にかかる数秒前だ。諦めるしかないだろう。
「あの、白月さん……。聞いていいかな……」
「何よ、質問してるのは私の方なんだけど」
「そ、そうだよね。ただ一つ確認しておきたくて。えっと、怒ってるのは英語の授業の方? それとも綾瀬と話してた方かな?」
「どっちもよ!!」
「だよね」
やはりと言うべきか白月さんは唾を飛ばしそうなほどの怒号を僕に浴びせる。ここは素直に謝っておくしかあるまい。もっとも、海外ドラマの台詞を真似たものの字幕ではニュアンスが変わっていて本来の意味を知らなかった、という僕の言い分を聞いてくれるのかは分からないが。
「……と言いたいところだけど」
「ん?」
白月さんが言い淀む。彼女は少し悔しそうな顔をして僕から離れる。圧迫感から開放され、緊張が和らいだ。落ち着こうと深呼吸をしたが、こんなにも空気がおいしいと感じたのは初めてかも知れない。
「私、あんたは英語で会話なんて出来ないだろうって思ってたのよ。私が何て言ってるか分からず、慌てふためく様を想像してたのにあんなにあっさり返されて……。あまつさえスラングまで交えて……!」
「そのスラングだけど、海外ドラマで知っただけで正しい意味とか知らなかったって言うか……」
「どうでもいいわよそんなこと。ただ私が悔しかったの、それだけ……」
「つまり、僕が割と英会話出来たことに驚いたってこと……?」
白月さんは肯定も否定もせず、ただ押し黙ってしまう。それはつまり、認めているも同然だった。
意外だ。白月さんのことだから会話の内容に怒ったのだと思っていた。いや、白月さんを語る程見知った仲でも無いのだが。ただ綾瀬に近付く僕を排除しようとしているため、僕自身のことなどどうでもいいのだろうと思っていた。
嫌いなはずの相手を、一部とは言え認めるような子だとは。気に入らない相手のことなら、その全てが気に入らないタイプの子では無いようだ。そう思うと、午前中に芽生えたばかりの苦手意識が僅かばかり和らいだ。
「白月さん。改めて言うけど、僕は別に綾瀬に近付こうとしてるわけじゃないよ。それだけは分かって欲しい」
「…………じゃあ本当に昨日のことは」
「だからデートじゃないって。少なくとも僕はそう思ってる」
「ふん、だったら別にいいわ。ただ! もしあんたが姫乃様に近付こうとしたら、その時は容赦しないからね!」
「それなら心配ないよ」
だって、僕と綾瀬の距離はゼロからやり直すことになったのだから。昔は文字通り互いの距離はゼロだったけれど、今僕らの間に心のベクトルは働いていない。ただの友達からやり直そうと言う綾瀬と、それに応じようと心がける僕。それでようやくゼロになったばかり。
白月さんが心配するよりも全然、僕らの距離は近くない。近付こうと動き始めてもいない。互いの向き合う方向を、逆方向から正しい方向に動かしただけ。むしろ白月さんの方がアドバンテージがあるくらいだ。
「マイナスからゼロに戻るのって、ゼロから進むより大変だから」
「何だか知らないけど、あんたが分かってるのならそれでいいわ。私も誰かを追い詰めるのって苦手だからこれっきりにしてね」
絶対嘘だ。白月さんが僕を追い詰める時、とても生き生きとした雰囲気を纏っていた。あれが苦手な事をする子の態度だろうか。むしろ得意分野に含まれているはずだ。もしそうじゃないのならば、今すぐ履歴書を持ってきて欲しい。僕が白月さんの趣味欄に「趣味:脅迫」と追記してあげたい。
白月さんはふぅと息をつき、教室へ戻ろうと後ろを向く――その後ろ姿が、僕の脳にとある幻想を見せた。
いつか、どこかで見た遠い風景。丹念に編み込まれた長い髪をたなびかせる幼い少女の姿。しかし、その幻想に手を伸ばそうにも、既に記憶の彼方へと霧散していた。
最後に、白月さんに問いかける。
「ねぇ、僕たちってどこかで会ったことある?」
「さぁ、知らないわよそんなの」
彼女はこちらに振り向かず、手の動きだけで「どうでもいい」と言いたげな感情の表現をする。僕が見た幻想はただのデジャビュか。以前見たドラマか何かを、自分の記憶と勘違いしただけかもしれない。きっとそうなのだろう。現に白月さんも心当たりが無いようだ。
「気のせいだな、うん」
僕は白月さんの後を追い、自分の教室へと戻っていった。
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