第4話
「はぁ……言ってしまった……」
夜、私は風呂で溜息をついていた。
幼馴染の綾瀬姫乃に告白されたが断り、さらには自分たちは友達ですらないと告げた。たとえ幼馴染であろうと、あんなことを言われれば姫乃も僕を軽蔑するだろう。でも構わない、僕は綾瀬を突き放すことが目的なのだから。
だが、今更になって後悔の気持ちが湧いてきた。何もああまで言わなくても良かったのではないか。そんな考えが頭の中に浮かんでは、いや彼女にはあれくらい言わないと僕を嫌いにならないだろうと思い直す。夕方からずっとそれの繰り返しだ。
暗鬱な気分になるせいか体まで重く感じてしまう。湯船に肩まで浸かり、体の芯から温まって寝れば暗い思考も少しはマシになるだろうか。
マシに、なれるのだろうか。何年も何年も、綾瀬に対する後ろめたさを感じてきた。完璧すぎる彼女に比べて凡人の僕、彼女の横にいるには相応しくない。だから自分から離れた。その結果がこれだ。一晩寝ただけで吹っ切ることが出来るか。そんな軽い想いなのか。
「わからない……。これからどうしたらいいのか……」
結局、風呂から上がった後も思考のループは止まらなかった。ベッドの上で膝を抱えたまま一晩中考え込んでいた。僕の選んだ選択肢は正しかったのか。この先に何が起こるのか。綾瀬はどうしているのだろうか、と。
気付けば夜が明けていた。いつも起きるより早いが、今から寝るわけにも行かずリビングへ降りる。台所には慣れた手つきで朝食の準備をする父がいた。母は昨日の夜から夜勤だから、こうして父が私の分も朝食を作ってくれているのだ。
「やあ、おはよう真」
「おはよう……父さん」
「なんだ、顔色悪いぞ。具合がよくないのかい?」
「ん、何でも無いよ。ただ、ちょっと寝付けなくて」
「大丈夫かい。今日は学校休んだらどうだい。無理して学校に行っても体調を崩したら大変だ」
「平気だってば。本当にどうってことないから気にしないで。それより、昨日の会議どうだったの」
昨日は確か会議があるとかで早めに出社していたはずだ。父が帰ってきた時、私は自分の部屋にいたから会議がどうなったのか知らない。当日までに資料が出来てないと言っていたほどだから、さぞ大変だったのではないだろうか。
「ははは。父さんの心配をするなんて十年早いぞ真。ちゃんと上手くいったよ、今日は早く帰って来れそうだ」
「そうなんだ、お疲れ様父さん」
「ああ、ありがとう」
そんな親子のたわいない話をして、父の作った朝食を口にする。うん、やっぱり父が作った味噌汁は母のものに比べて塩辛い。男の人はこういう味の方が好きなのだろうか。それに比べて卵焼きはずいぶんと甘い。僕は卵焼きは甘い方が好きだ。父の作る料理の中でも卵焼きは母が作ったものより大好きだ。母に言うと怒るから言わないが。
「そろそろ時間だ、父さん仕事に行ってくるよ」
「うん、気をつけてね」
「真もな。本当に体は大丈夫なのかい。キツくなったら早退してもいいんだからな」
「わかった。いってらっしゃい」
「ああ、行ってきます。鍵を閉めて出かけるんだよ」
父が出かけた後に食器を片付けて、ニュースを見ながら僕も学校に行く準備をする。昨日は早く出たけど、今日はいつも通りの時間に家を出る。通学路は相変わらず桜が咲いていた。ピンクに染まった花弁はとても綺麗だ。
「ちょっと前まで葉も全部落ちてたのに」
ほんの二ヶ月前には寂しい姿を見せていた木々が、今では満開の花を咲かせている。その力強さには励まされる。だけど、今こうしている間にも桜の花びらは散っていく。桜吹雪はとても壮麗な光景だが、その犠牲として桜の花弁が減っていく。いつまでも美しさを保てない。栄枯盛衰は世の常なのだと僕に感じさせる。
僕と姫乃の関係も同じじゃないだろうか。昔は仲が良かったけれど、今はもうその緣が切れようとしている。美しかった思い出は記憶に残り、二人が離れていく現実が訪れようとしている。
「どうせ散ってしまうのなら、最初から蕾なんてつけなかったらよかったのに」
手のひらに舞ってきた桜の花びらを見つめて、そう呟いた。
「悲しい考え方をするのね。私は桜、とっても好きよ」
背後から僕の考えを否定する声が届く。ああ――なんで彼女がここにいるのだろう。こんなに離れたがっているのに、どうして近づいてくるのだろう。
太陽が降りてくれば生命は焼き尽くされる、逃げようとしても無理なのだ。彼女という光は僕には眩しすぎる。距離を保たなければ僕というちっぽけな人間は蒸発してしまう。
それにも関わらず、綾瀬姫乃は僕の前に現れた。いつもと変わらぬ完璧な優等生の顔ではなく、汗をかき、額に髪を張り付かせた姿で。
「おはよう真ちゃん。家から出るところを見たから走って追いかけて来ちゃった」
「……どうして」
それは純粋な疑問だった。
「どうして僕に会いに来たんだよ。昨日あんなことを言った相手に、どうしてそう平気な顔で話しかけることが出来るんだよ」
「決まってるじゃない」
息を切らしながら、綾瀬は断定する。
決まっている? 何が? 自分に酷い態度を振る舞う相手にぐいぐいと接する理由なんて、この世にあるのか?
分からない……少なくとも僕は自分に冷たい態度を取る相手と仲良くなろうなんて思えない。だがしかし、綾瀬はそれが当たり前であるかのように言う。まるで世界の真理だとでも言わんばかりの、自信に満ちた顔はもはや僕の理解を超えていた。
しかし続く綾瀬の言葉は僕が想像する複雑怪奇な理由などではなく、単純で明快なたった一言の言葉であった。
「好きだからよ」
「……………………は?」
「真ちゃんに振られたって、私があなたを想う気持ちは変わらないわ」
「……僕と綾瀬は友達未満の関係なんだぞ」
「それは、否定出来ないかもしれない。私の想いが変わらなくても、真ちゃんの想いは変わっていたのね」
「ああ。少なくとも僕は…………昔のように、綾瀬と付き合いたいなんて思っていないよ」
綾瀬が自身の気持ちを再表明したように、僕もまた自分の気持ちを改めて彼女に伝える。もっとも、本心を隠した表向きの気持ちだが。それでも僕の思っていることであるのは事実だ。
「桜が散るように、君に対する気持ちも枯れて消えたんだ」
手のひらの花びらは風に運ばれてどこかへ飛んでいく。かつてそこにあったものが、消えてなくなるように。綾瀬のことが好きだったという純粋な気持ちも、今では嫉妬心や後ろめたさといった気持ちへ変異してしまった。
綾瀬は飛んでいった花びらを見送った後、桜の木に視線を移した。そして、再び僕の方を向いて言う。
「そうかもしれない。それでも私は桜が好きよ。だって、桜が散ってしまってもまた次の春には満開になるもの」
「……………………」
「いつまでも変わらずにはいられないかもしれない。私と真ちゃんの関係も、昔と変わったのかもしれない。それならまた変わればいいのよ。今の友達未満の関係から、もう一回!」
気付けば綾瀬は僕の目の前まで来ていた。そして両手で僕の手を握り、その水晶のような透き通った瞳を向けて言うのだ。
「私たち、やり直しましょう!」
桜が散り始めた春のある日、僕は幼馴染によりを戻そうと迫られたのだった。
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