第3話
昼休みが終わり校舎からチャイムが響く。生徒たちはぞろぞろと教室へ戻り始めた。早く戻らなければ午後の授業が始まってしまう。今から走って行けば教師がやってくる前に教室にたどり着くだろう。
「……って、午後の授業体育じゃん。ならみんな着替え終わってグラウンドに行ってるかもなぁ。どうせ間に合わないし、サボっちゃおうかな……」
涙に濡れた頬を拭い、窓ガラスに目を向ける。そこには目を真っ赤に腫らした、情けない自分の姿が写っていた。
「自分で振っておいて泣きじゃくるなんて、本当ダサい……何やってんだろう僕……」
呆れすぎて溜息も出ない、もはや乾いた笑いすら漏らしてしまう。自業自得だ、心の中で静かにそう呟いた。
五限目の終わりを告げるチャイムの音が聞こえ、流石に次の授業は出なければいけないと思い、教室に戻ることにした。廊下を移動している間にトイレに向かい鏡の中をチェックする。
よし、目の腫れも引いた。誰にも僕が泣いていたことはバレないだろう。
ほぅと息を吐いて教室へと戻る。クラスメイトたちは六限目の授業の準備をしている最中で、僕が戻ってきたことに気付いた何人かがどうしたのと訝しげな顔で聞いてきた。ちょっと具合が悪くて、と説明すると大丈夫? と心配そうにしてくれた。
「よぉ奥路、ついに本当の不良になっちゃったか」
友達の平川がからかい交じりに肘を当ててくる。落ち込んでいる時に平川のような明るい子と話すのはテンションの寒暖差であやうく風邪を引いてしまいそうだ。
「だから不良じゃ……いやサボったからちょっとは不良かもね」
「大丈夫か~? 体育の香坂先生怒ってたぞ~」
「後で謝りに行く。とりあえず六限目は受けなきゃね」
「……大丈夫か?」
あくまで明るい表情のまま、平川は僕のことを案じてくれた。昼休み前に綾瀬に会いに行くことを彼女に話していたからだろう、そこで何かあったのだと察しているみたいだ。
「何でも無い。昼飯のことは悪かった、明日は一緒に食べよう」
「ま、奥路が何でも無いっていうなら深くは聞かないけどよ」
僕の言葉を聞いて平川も追求せずにいてくれた。平川は一見軽いやつに見えるけど、意外にも細やかな気遣いは出来る女だ。知り合ったのは高校に入学してからだけど、まるで昔からの友達のような距離感で接することが出来るのもひとえに彼女の性格のおかげだろう。
間もなく教師が教室に入ってきて、平川との会話は打ち切られた。授業が始まる前にひと言「ありがとう」と伝えると、平川はにかっと笑い自分の席に戻っていった。
授業中、教師が眠たくなるうんちくを述べている隙にこっそり斜め前の席に視線を移すと、綾瀬はいつもと変わらない態度で授業を聞いていた。午前中に見られた上の空の彼女は幻だったのだろうかと疑ってしまうほど、完璧な優等生の姿がそこにはあった。
放課後、平川が部活に行くのを見送った後、机の中に詰め込んだ教科書を雑にバッグに入れて帰宅の準備をする。教室の中に既に人の気配は無く、残っているのは僕だけだ。今日は色々あったし、今日は寄り道でもしようかなと考えながら教室を出る。
「真ちゃん」
「っ!」
控えめに僕を呼ぶ声、それは間違いなく綾瀬姫乃のものだった。振り返ると、申し訳なさそうな顔をした綾瀬が両手で上品に鞄を持った状態で立っていた。もしかすると僕を待っていたのかも知れない。いや、そうに違いない。既に他のクラスの生徒も部活へ行くか帰宅をしている。このフロアに残っているのは僕だけしかいない。
僕はいたって平静に、目の前にいる綾瀬に声をかける。
「っどうかしたの」
噛んでしまった。頭の中では冷静でいようとしたのに、肉体というものは心の思うままに動いてはくれないらしい。喉が震えているし、掌にはうっすらと汗がにじんでいる。どうやら僕は綾瀬を前にして緊張してしまっているらしい。
人前で緊張することなどほとんどない僕だが、ここまで心が張り詰めた状態になるのは初めてのことだった。授業中、問題を当てられた子が言葉に詰まっている様子を見て「何がそんなに怖いんだか」と思っていたものだが、今にしてその子の気持ちがわかってしまうとは。
僕の心中を察したのか、綾瀬は口をきゅっと結び、開口一番にこう言った。
「ごめんなさい!」
「え……」
「体育を休んだのって私のせいでしょう? 真ちゃんが授業に出ないのなんて初めてのことだもの。きっと私が告白したから、驚いてしまったのよね……」
綾瀬が謝ってきたのは、正直意外だった。
彼女は人に好意を振りまくのを良しとし、周りもまた彼女に好意を振りまかれるのを良しとする。そういうこともあって、彼女は人に嫌われることがない。目立つのも好かれるのも彼女にとっては当然であり、嫉妬する人間などいない。誰も自分と綾瀬を同じ尺度で測らないのだ。彼女の好意を避けるなんて僕くらいのものだろう。
だから、綾瀬が自分の好意を相手に向けることに対して謝罪をするなど思いもしなかった。いや、相手を不快にさせたから謝ることはあっても、それが自分の好意が原因だったなど決して思わないだろうと予想していた。
だからだろうか、僕は呆気にとられてしまい、彼女の言葉を否定することが出来なかった。必然的に沈黙は肯定の意味を示すこととなり、その結果綾瀬は沈痛な面持ちに変じるのだった。
「いきなりだったことは謝るわ。本当にごめんなさい」
「い、いや……綾瀬が謝ることじゃ……。ぼ、僕もいきなり逃げたりしたし……」
「……………………」
「でも、結婚とか付き合うとか、今まで全然そんな雰囲気無かったし……」
そうだ。昔ならともかく、今の僕と綾瀬には距離がある。綾瀬はともかく、僕からは彼女に向けた矢印など伸びていなかったはずだ。小さい頃が磁石のS極とN極だったとしたら、今の僕たちは同じ極同士。くっつけようとしても離れてしまう関係なはずだ。
「私は真ちゃんのことが大好き。だから告白したのだけれど、真ちゃんにとっては突然だったのね」
「まぁ……だって僕たち、もう親友じゃない」
「……………………」
「友達でも…………ないかもしれない」
最後に綾瀬と二人きりで遊んだのは何年前だろう。覚えているのは、綾瀬と二人でいることが次第に僕の心に負担をかけると思ったこと。少なくとも中学に入ってすぐには、そんなことを感じ始めていたはずだ。
スマホの連絡先も交換しているが、RINEでやり取りするのはそんなに多くない。ほとんど綾瀬からメッセージを送ってくるばかりで、僕から連絡することは少ない。
そんな関係を友達と呼べるのだろうか。
いや――
「僕たちは幼馴染みであっても、友達とは言えない」
そう告げると、綾瀬は「わかった」とだけ言って一人帰って行った。夕暮れが眩しくて顔はよく見えなかったけど、いつものような明るい表情でなかったことだけは確かだ。
綾瀬が校門から出て行くのを見届けて、僕は一人、声を出して泣いた。罪悪感で押しつぶされそうな重圧を、泣き声に変えて、暗くなるまでずっと泣いていた。
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