てふてふのお戯れ

あん彩句

てふてふのお戯れ


 大きなタワーのある部屋が彼らの職場である。


 そこにはふかふかのソファが並び、空気は常に清々しく、床は常に清潔に保たれている。適切な室温と湿度、食事もおやつも食べ放題。好みに合わせた寝心地のいい休憩場所も確保されている。全てが彼らのために準備されているのだ。


 そしてこの場所には、圧倒的な存在で君臨する者がいた。今日もお気に入りのハンギングチェアーに鎮座する。

 彼の名前は、アゲハ。この場所で不動の人気を誇る理由は、その名の由来にもなったアゲハ蝶のように美しい容姿と——まあ、その、なんだ……俗にいう、ツンデレである。



 今朝も下働きの者がやって来た。彼らは皆、同じ格好をしている。青いキャップを被り、青と赤のバイカラーのシャツを着て、腰に黒いエプロンを巻く。きちんと挨拶して回る礼儀正しい連中だ。

 そして彼らもやはり、アゲハを別格と判断しているようだった。


「アゲハ様、今日も尊いわー」


 そう言われてもアゲハは反応しない。ただそこへ丸くなっている。耳さえピクリと動かさないのは流石だ。頭を撫でられ、腹を撫でられたところで動じない。さながら銅像、怒らない代わりに喜びもしない。


 けれど、ごく稀に尻尾をぴんと立ててからぱたりと振る。関係者は全員が知っている『俺はご機嫌だ』のサイン。しかし、下働きの者たちは騙せても、仲間たちは騙せなかった——アゲハがそれをやる時は、決まって同じ下働きの者がいる。


 少し背が高く、アゲハと同じ黒髪の女。束ねてもその艶がわかるほどに美しい髪の持ち主で、アゲハを見ても微笑むだけで特別に撫でてやろうなどとは微塵も思っていないようだった。ネームプレートには名前が書かれているがもちろん彼らには読めない。下働きの連中は彼女を『ささちゃん』と呼んでいる。



(今日は『ささちゃん』がいるのかぁ)


 タワーの中ほどに寝そべってそう呟いたのは、ベンガルのアロー。首に巻いた緑色のバンダナは、〈甘えんぼ〉の印。誰にでも擦り寄り、撫でてくれとせがむ。膝から膝へハシゴすることも多々あるほどだ。


(いいじゃないの、アゲハ様が一日中ご機嫌ということよ)


 タワーにぴょんと飛び乗ってそう言ったのは、シャム猫のミア。〈注意して触ってね〉という目印である黄色のバンダナは、気分屋な性格であるが故。

 そこへもう一匹、ミックスのトラ猫、茶々がやって来た。緑色のバンダナを首に巻いている。長い尻尾をくねらせてミアに擦り寄った。


(見てよ、長老が動かないよ。まだ夜だと思ってるのかもしれないよ)


 その視線の先にはミアと同じ黄色いバンダナを着けたブリティッシュショートヘアの神。年寄りでもなんでもなく、あまりにも太りすぎてどっしりと鏡餅のように木の棚の上のクッションにいる。撫でられても薄目を開けるだけなので、その見た目から仲間内で長老と呼ばれているのだ。



 アゲハはというと、赤いバンダナを首に巻いている。〈触ることができない〉目印で、撫でたい時はブラシでと注意書きされていた。それなのにアゲハが人気なのは、反応がなくつまらないと立ち去ろうとすると急に頭を起こし、少しだけ首を傾げる——それが人間には「もう行っちゃうの?」と甘えて見えるらしい。

 きゅんとしたところへ、尻尾の先だけをふるふると動かす。そして前脚に顔を乗せ、ゆっくりと目を閉じるのだ。


 ただでさえ黒猫は人気が高い。さらに金色の目を持っているのだから人間が集まってくる。アゲハがお高く成長した理由も納得である。



 軽い朝食を済ませ、下働きの連中がブラッシングしながらみんなを見て回る。それが一通り終わり各々が自由に過ごしていると、下働きの者が着ている服とは違う服を着た者たちが姿を見せる。

 洋服どころか性別年齢も様々。でも一番多いのは女だ。若くて事あるごとに甲高く歓喜の声を上げる者が多いが、その反面、膝に彼らを乗せてじっくりと撫でていく者もいる。


 しかし、今日はやけに目につく連中がいた。男2人、女2人のグループだ。その中の1人の女は猫が苦手らしい。いや、動物が苦手なのだろう。


「大丈夫だって。撫でてやれよ、ほら。緑のバンダナは人懐こいって書いてあるし」


 短髪の日焼けした男に腕を引かれ、そう宥められたところで腰が引けたままだ。へっぴり腰の女は部屋中を見回し、そこにいる猫の数をざっと数えて顔を引き攣らせた。細身の黒いパンツにオーバーサイズのセーターを着て、革のバッグを抱えているせいか強盗にでも遭っているようだ。


「何が怖いの? こんなかわいいのに。肉球とかたまんないよねぇ」


 別の女が言えば、別の男は既にマンチカンのしゃけを抱えていた。長毛種ですんとした気品に溢れて見えるが、着けているバンダナは緑。いつまででも遊び続けられる強靭なスタミナを蓄えている強者だ。


「私に構わず遊んできていいよ」


 怯えた女がそう言って、自分の腕を掴んでいた男の背中を押した。


「あっちに座ってるから」


 そう言って示したのは、入り口のドアの反対側にある真っ赤なロングソファだ。誰も寄り付いていないから安全だと思ったのだろうけれど、そのソファの背の上を走り往復するのは彼らのお気に入りだ。案の定、女はそそくさとそこを退かなければいけなくなった。

 足元をかすめていく猫たちに怯えながら、今度は入り口横の二人がけのベンチシートへ腰を下ろす——賢明だ。入り口にはほのかに香る程度だがハーブの匂いのする芳香剤が置いてある。



「あんた、バカなの?」


 入り口の反対側の壁で、床にしゃがんだ男に向かってそう言ったのはもう一人の女だった。しゃがんだ男は「えっ」と驚いた顔をして口の悪い女を見上げている。しゃがんだ男は、最初に動物嫌いの女の腕を引いていた男だった。もう一人の男と一緒に、口の悪い女がしゃがんでいる男をこれでもかと見下して言う。


「なに猫に夢中になってんのよ。違うでしょ、あんたの目的はあっち!」


 茶色にした髪をかき上げて女が顎で示した先には、自分の隣にやって来て丸くなった三毛猫のだんごに怯え、ベンチの上でできるだけ離れていようと体を奇妙な姿勢で壁に貼り付けた女だかいた。

 そんなに嫌なら入らなければいいものを、その女なりの気遣いだったのだろう。おそらくここは、その女にとって地獄でしかない。



(なーるほど。あの女とあの男をくっつけたいのね、この女)


 ミアはそう言ってふるふると尻尾を横に振った。


「タケってば!」


 そう呼ばれたのはしゃがんだ男だ。床に寝転がったラガマフィンのムーの腹を撫でるのに夢中だった。ふくよかなので触り心地が抜群だと定評がある。


「いいから触ってみろよ、さおり。すげーもふもふ」


 誘われて、眉間に皺を寄せながらも『さおり』がふわりとしたロングスカートをたくし上げてしゃがみ、ムーの腹を撫でた。とたんに目を垂らして歓喜の声をあげる。


「やっばーい! もふもふ、あったかい、幸せー!」


「いや、お前らさ——」


「コウジも触れよ、ほら!」


 その毒蛾は『コウジ』をもがっぽりと飲みこんだ。つり目だった『コウジ』もだらしなく頬を緩ませて天国へご招待されている。恐るべし、ムーの腹。



(僕も遊んでよーぅ)


 いつの間にか茶々が『さおり』の足元へ擦り寄っていた。『コウジ』の腕の中で、ムーと茶々を敵対視したしゃけが悪態をついている。


(おまえらどっか行けよ!)


(やーだね、しゃけはずっと抱っこされてろ。僕はそんな窮屈なの嫌だもん!)


(しゃけも茶々も黙ってくれ。俺は今眠いんだ……あーあ、誰かおやつくれないかなぁ。ちょっと小腹が減ったのに)



 そんな様子をタワーの上から眺めていたアローは呆れて前脚の中へ顔をうずめた。もう少しすればさらに賑やかになることを知っているので、今のうちに休憩しておこうといったところだ。

 小さな子供が来ればおちおち寝てもいられない。子供にせがまれた大人は、容赦なくつついて昼寝の邪魔をするのだ。けれど、今日はまた少し違った。子供の前にミアの声に邪魔された。


(まあ!)


 アローが片目を開けると、ミアが毛を逆立てて尻尾を太くして飛び上がっているところだった。いったいなんなんだと起き上がると、アローの目にもしっかり捉えることができた、その驚きの現場を。



 アゲハが動物嫌いの女の膝上にいた。女は両手を上げて顔を強ばらせ、いったいどうしたものかと固まっている。連れはみんなムーの腹に夢中なままだ。アゲハは目を閉じて素知らぬ顔で丸くなっている。尻尾を時折ふわっと揺らし、『ご機嫌だ』しかも『最高に居心地が良い』と完璧に寛いでいる。


 それに食いついたのは、『やまと』と呼ばれる下働きの男だった。新参者で、『アラさん』という親玉の女にいつも叱られている情けないやつだ。



「うっわー、君すごいね。アゲハって全然まったく懐かないんだよ」


 そう言って、その女の足元に跪いた。『やまと』が交尾の伏線を張っている。こいつはいつでも簡単にそれを張るので『アラさん』に叱られる。猫よりも女への気遣いが細やかすぎて問題を起こすのだ。


「どこから来たの? 近く?」


 ほうら、仕事にはまるで関係のない会話をはじめた。しかしそれを咎める者はいなかった。『アラさん』はまだ顔を見せなかったし、『ささちゃん』は呼ばれて部屋の外へ行ってしまった。あと『やまと』を制御できるのは『しゅう』だけだ。でもあれは来ないとわかっている。人間は縁組すると旅に出る。居心地のいい場所を求める旅と違って戻っては来るが、まだ数日先のはずだ。『アラさん』がこぼしていた。


「仕事がふえるわ……」


 そんな『アラさん』の心中などお構いなしで、『やまと』は動物嫌いの女に食いついていた。こいつは肉食獣の末裔かもしれない。猫たちが朧になってしまった狩の仕方を知っている。いや、狩りではないか、子孫を残すための強欲だ。



「あー、あの旅館ね。温泉がいいんでしょ? 俺って地元だから入ったことはないなけど、でももっと面白い場所に案内できるよ。観光地とはちょっと違ったとこ。アゲハを仕留めちゃった記念に一緒に行く? 誰と来てんの? お友達?」


(馬鹿ねぇ、『やまと』は。アゲハ様の毛が逆立ってるのに気がつかないのかしら)


 気の毒がるというより、面白がるようにミアが言った。


(アゲハ様のことだもの、何かしたいことがあるのよ)


 ミアがそう言った矢先、『タケ』がやって来て慣れた手つきでアゲハを抱き上げた。そして動物嫌いの女の横へ腰掛けた。


「ごめんな、しのは猫が苦手でさ」


 さっきまでムーの腹で目を溶かしていたやつとは大違いだった。ぎろりと『やまと』を睨んだ『タケ』は、アゲハを膝の上へ置いてゆっくりと背を撫で、そして耳の後ろを掻いている。


「なんでこいつ赤いバンダナなんですかね、おにーさん。こんな懐いてるのに」


「いや、その……珍しいよ、こんなおとなしいアゲハは」


 そう言って、『やまと』は手を伸ばした。その刹那、アゲハが鼻に皺を寄せ、シャッと右前脚で『やまと』の手を掻いた。『やまと』が情けなく悲鳴を上げる——その声を聞きつけて、『ささちゃん』がやって来た。瞬時にその状況を察した『ささちゃん』はさすがだ。



「お怪我はありませんでしたか?」


 動物嫌いの『しの』にそう声をかけながら、『ささちゃん』は『タケ』からアゲハを受け取った。妙に大人しく『ささちゃん』に抱かれるアゲハは、その腕の中で身じろいで『ささちゃん』の胸のあたりに顔を埋めた。


「申し訳ありませんでした。よろしければこれ、他の猫ちゃんにあげてみてください。あそこにいる『ムー』や、あの棚の上の『神』の大好物のおやつですから、よろこびます」


 そう言って『ささちゃん』が差し出した細長いパウチは、確かにムーや神のお気に入りのマグロたっぷりのおやつだった。それを受け取った『タケ』はさりげなく手を握り、「すげーかわいいからやってみろよ。一緒にいてやるし」と『しの』を誘った。アゲハを膝の上に乗せたことで自信をつけたのか、『しの』も満更ではない。



 アゲハはまだ『ささちゃん』に抱かれたまま、「だめでしょ、爪出しちゃ」とお叱りを受けていた。それから「おやつ食べる? ご機嫌直してね」と背を撫でられていた。極楽至極、アゲハは髭を垂らして目を細めている。ゴロゴロと喉を鳴らす音も聞こえてきそうだ。



(そういえば)


 ミアが毛づくろいをしながら思い出したように言った。丁寧に前足の肉球を湿らせ、顔を舐めていく。


(一昨日だったかしら、『やまと』が『ささちゃん』にしつこく言い寄っていたわね。本当に『やまと』は交尾のことばかり考えているんですもの! アゲハ様が引っ掻くのも当然よ)


 『しの』と一緒に長老こと神へおやつをやる『タケ』を横目に、アローはミアの毛づくろいに舌を貸すべくそばへ寄る。おやつをめざとく見つけたムーが起き上がり、容姿に似合わない俊敏さで神の上へ覆い被さった。おやつを横取りするつもりだ。

 驚いた『しの』がおやつを落としそうになったが、『タケ』が猫並みの敏捷さでそれを回避する——にこやかに笑い合う二人を眺めて、アローもミアも、動物嫌いの『しの』がわざわざこの場所へ足を踏み入れた理由を知る。



 アローがミアの額を舐めてやる。ミアは首の角度を変えながらうっとりと目を閉じ、そこへ寝転がった。


「わー、かわいい! 仲良しだね」


「写真撮ろ。かっわいいー!」


 女たちがやって来て、ミアとアローにスマホを向けた。アローが急に毛づくろいを止めるので、ミアが目を開ける。アローが尻尾をピンとまっすぐに立て、女たちの方へとのんびり歩いた。


「おいでおいで! かわいいー! アローくんていうの?」



 片方の女の腕に抱かれて甘えるアローを呆れ顔で見やり、ミアはまた毛づくろいを再開した。


 アゲハがいつものハンギングチェアの上に寝そべり、『ささちゃん』のブラッシングを受けている。そこへ小さな子供たちが集まってなにやら盛り上がっている様子だ——アゲハの耳が油断なくそれを聞いているところを見ると、やはり存分に持て囃されているのだろう。


 神は『しの』から、ムーは神の背の上で『タケ』からおやつをもらってご満悦だ。『さおり』と『コウジ』は並んでソファへ座り、それぞれ茶々とだんごを膝に乗せていたが、『コウジ』はうつらうつらと船を漕いでいた。膝の上のだんごが暖かくて心地いいのだろう。『さおり』がそれを見て笑っていた。


 部屋を横切って、疾風の如くしゃけが入り口に駆け寄った。程なくドアを開けたのは、『アラさん』だった。しゃけのスタミナが尽きるまで遊んでくれる唯一の人間だ。『アラさん』はしゃけを抱えると、ぐるりと部屋を見回した——そして、ハンギングチェアに近づいて行く。


「アゲハ、何かしでかしたな?」


 毛づくろいをはじめていたアゲハは、『ささちゃん』が立ってしまってもそれどころではない様子だ。たとえ圧倒的な存在でも『アラさん』には敵わない。なんせ、親玉だからな。




[ てふてふのお戯れ 完 ]


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