薄暮まで

1. ミルクチョコが結局一番うまかった


 まどろみのはざまで揺れ動く。俺は暗がりに落ちていく。

 温もりに包まれていた。

 これはなんだろう。揺らめき、ごおおと音を立て、魂に染み込んだ。

 目を開けば、それは火だったり、溶岩の海だったり、分厚く黒い雲でもあった。魂を包み込むそういうものに、魂はなぜだかひどく安堵した。


「ツナ、ツナ、朝ですよっ」

「ううん……」


 まどろみのはざまで揺れ動く。眩さに引かれていく。

 温もりに包まれていた。

 これはなんだろう。いい匂いで、どきどきして、俺は癒えていく。

 火は魂を癒したが、俺自身は疲弊していたことに気づいた。一方でこれは優しくて、触れてみると、柔らかっ……。


「もう、ツナ。あんまり寝ぼけてちゃだめですよ」

「……しーら」


 薄目を開けると、朝の部屋でシーラが俺のことを覗き込んでいた。これは……どういう状況だ。

 俺はベッドで寝ていた。窓の外が明るい。

 制服のシーラが身支度を終えていて──ああ、そうだ。一緒に寝たんだ。


「起きますよ……」


 朝6時のサトウ亭。昨日はここに泊めてもらったのだった。

 この部屋の窓の角度からはメテオが見えなかったが、一般的に地球はあと四日で滅ぶとされている。

 一ヶ月前からそういうことを言われ続けて、日付を数えるのはもう慣れたものだ。それでも慣れるはしない、死の恐怖には。

 俺は今日までの三日間で、あの天槌に抗うことを決めた。だが今は……。


「ねむ……」

「おはようございます。ツナって、見かけより朝弱いんですねえ」

「おはようございます……。うるさ……」


 この人はどうしてこんなにハキハキしているんだ。寝ぼけ眼を擦る手を引かれて洗面所へ。顔を洗う。


「水が垂れてますよ、ツナ」

「どうも……」


 甲斐甲斐しく先輩に顔を拭かれる。そこらでようやく俺の目も覚めてきた。


「……夢か、これは」

「ほっぺたつねりますか?」

「いえ……」


 こういう時間を幸せというのだろう……。

 だが実感としてはよくわかっていない。おかしなことに俺がどれだけ嬉しがっても、または苦しんでも心がついていかないのだった。


「目が覚めました」

「着替えたら一緒に一階に行きましょう。サトウさんが朝ごはんを作ってくれていました」

「はい」


 脱衣所で制服に着替えて一階のリビングへ。

 テーブルの上に朝食が置かれていた。シチュー、食パンにサラダ。家庭的な料理と洗練された食器の間がサトウさんらしさだと思う。


「おはよう。よく眠れたかい。」

「ええ、まあ。おはようございます」


 シーラがソファに着くのに倣って隣に座る。

 そのうちサトウさんが盆にお茶を乗せて戻ってくる。俺に黒い茶器、シーラには白いものをあてがって、昨日と同じ対面のソファに着席した。


「せーの。」


 サトウさんの掛け声で手を合わせる。


「いただきます。」

「いただきますっ」

「いただきます」


 朝食のホワイトシチューは優しい味だった。

 二口目でシチューに潜んでいた鶏肉を見つける。なんだか得した気分だ。肉汁と一緒にシチューの味がしみ出てくる。

 横目でシーラを見ると、シチューにパンを浸していた。なるほど、そうやって食べるのか……!

 サトウさんはサラダから食べていた。大豆とコーンが入ったサラダだ。


「昨日の晩にも思ったんですが、サトウさんって料理するんですね」

「しないタイプに見える?」

「はい。カリスマっぽいっていうか」

「普通に生きてる人間だからね。」

「ああ……」

「わかります!」


 シーラにはピンとくる話だったらしい。食い気味だ。


「どういうことですか?」

「料理は楽しいですから。やりたくなります」

「……本当にわかってますか?」

「もちろんっ」


 俺にはわからない何かがあるようだった。

 それより聞くべきことがある。


「昨晩、話の人は来ましたか。ウィルさんとかいう」

「音沙汰なかった。」

「……」

「そうでしたか……」


 朝食を食べ終わる。箸を置く。お茶が喉を通る。


「サトウさん、その人のことを教えてください」

「名前はウィル。生まれは日本だけどアメリカ人の両親を持ってて、くすんだ金髪だね。ひげが生えてて、背が高く、いつも和服、着流しを着てる。そして……。」

「そして?」

「刀を身につけてる。」

「刀ですか?」

「うん。あと、手から火を吹き出す。」

「……」


 シーラと顔を見合わせる。ウィルさんとやら、ずいぶん特徴が濃い人だ。


「ツナ、もしかして今からウィルさんを探すつもりなのですか?」

「そりゃあそうでしょう」

「気持ちはわかります。でも、学校に──」

「シーラ、あと四日です。四日以内に俺たちはメテオを止める手段を見つけて、準備を済ませ、実行しないとダメなんですよ」

「だけど、学校は大事です。新しい日が来たら、わたしたちはいつも通りにならなければいけません」

「甘いですよ。できたらいいけど、難しいことだと思います」

「そう……かもしれませんけど」


 シーラが俯く。……言いすぎたかもしれない。

 否定したかったわけではないのだ。仲違いをしたいわけではない。ここは、折れるところか。


「いや……すみません。行きましょうか、学校」

「……! いいんでしょうか!」

「シーラが言ったんでしょう。ほら、早く食べてください」

「はいっ」


 全員食べ終えて、ごちそうさまとまた斉唱した。荷物をまとめて俺たちはサトウさんの豪邸を出る。


「気をつけて。」

「はいっ。大変お世話になりました」

「お世話になりました」

「いいのさ。吉報を待っているよ。」


 サトウさんに手を振り、一時の別れを果たす。ウィルさんを探すとなればサトウさんにまた頼ることになるだろう。

 シーラの隣で、いつもより早い時間の街を眺めながら歩く。ぱらぱらと咲き始めた桜の木の下を、新聞配達帰りのバイクの青年が走り去っていく。

 ヘルメットで顔は隠れていたが、背姿を見るに大学生だろうか。

 道が駅に近づくにつれて、朝の街に人がまばらに増えてくる。みんな駅へ向かって歩く。そんな人と人の間で、逆側へ向かう男とすれ違った。よく見えなかったが、着流しを着ていたのは間違いない。シーラも気づいたようだ、揃って振り向く。

 ……刀を帯びている。ということは、手から火を出しもするはずだ。


「待ってください」

「……」


 男は俺の言葉を気に掛けず遠ざかる。より大きな声で呼び掛けた。


「待ってください!」

「……オレか」


 男が振り返る。こんなところで会えるとは思わなかった。


「その、間違っていたら申し訳ないのですが、あなたはもしかしてウィル様でしょうか?」

「ああ……そうだが、何か」

「わたし、シーラと申します」

「ツナです」

「わたしたち、聞きたいことがあってウィル様を探していたのです」

「……」


 彼はサトウさんが言う通りの人だった。シーラより顔一つ大きい俺より少し高い身長にくすんだブロンドヘアに、同じ色の無精髭。

 髪はボサボサで、死んだ魚のように暗い目の光。その目線が値踏みするように俺たち二人を行き来する。その目が俺に留まる。


「誰だ、お前」

「ツナです」

「そういうことを聞いてんじゃねえよ、わかってるぞ。お前、火を帯びているだろう」

「火を……?」


 火。火を帯びる……?


「なんのことですか?」

「とぼけるなよ。お前らに話すことなぞない」

「……勘違いしてませんか。話を──」

「うるせえよ」


 話を聞いてほしい。そう伝えようとした時だ。


「え──」


 ウィルさんの姿が、まばたきの内に俺たちの前から掻き消えた。あたりを見回す。

 着流しの後ろ姿が、遠くで屋根伝いに跳び去っていく。サトウさんの屋敷の方角。


「……ええと、シーラ」

「は、はい」

「逃げられました」

「逃げられちゃいましたね。……ひとまず、学校に行きましょう」

「そうですね。お昼休みに部室集合でどうでしょう」

「そうしましょうか」


 ……人は飛べるのか。下駄を履いて。

 彼に向かって振り上げたこの言葉、どうしよう。そんな俺を他所に、桜の枝に止まっていたウグイスがチチチ、と鳴いた。


 ○


 キョーキョー、とどこかにとまったウグイスが鳴いた。

 どこにいるのか、四階廊下の窓から見渡す。音の向きからして運動場の桜の木の枝だろうか。

 陽はすっかり高く昼休み。地学準備室に入ると、先輩はもう席について昼食をとっていた。


「ツナ、こんにちは。授業お疲れさまです」

「こんにちは、先輩。弁当ですか」

「はい、さっき買ってきて……。ツナ、もしかしてお昼ないのですか?」

「ええ、まあ……」

「では一緒に食べましょう。割り箸は部室に置いてるものがあります」

「いいんですか?」

「もちろん、遠慮しないでください」


 シーラが割り箸を取りに席を立つ。俺はシーラの隣の椅子に着いた。

 この部屋は今日も風が気持ちいい。メテオは昨日より確実に地球へ近づいたはずだが、メテオ部の部室からは見えなかった。だがそれくらいでいいのかもしれない。


「どうぞっ」

「ありがとうございます」


 シーラから木の棒……ええと、割り箸とやらをもらった。それはいいのだが……。


「シーラ、これどうやって使うんですか」

「割り箸のことですか?」

「はい。使ったことなくて」


 シーラに割り箸を渡すと、ぱきっと線に沿って棒が割られた。ああ、それで割り箸……。


「どうぞ」

「すみません、ありがとうございます」

「いえいえっ」


 焼き鮭の端を押し切って、冷えた白米に乗せて食べる。塩が効いててうまい。


「ウィルさん、サトウさんのところへ行ったのでしょうか?」

「そうだと思います。サトウさんもそろそろ来るみたいなこと言ってましたし。だけど問題は、そこではなくて……取り合ってくれますかね、ウィルさん」

「そうですねえ。どうして怒り気味だったんでしょう?」

「……変なことを言われました」

「変なこと?」

「火を帯びているな、って」


 俺がそれを知らなかった、向こうからしたらとぼけたように見えたのがカンに障ったのか。

 いや、それ以前に、話しかけて認識されたときからもう敵視されていたようだった。


「火……と言うと、ウィルさんは火を吹き出すそうですよね」

「言っていましたね」

「ツナは何か心当たりありますか?」

「特には……いや」


 ……ないわけじゃない。が、手がかりになるようなものでもない。


「変な夢を見ました」

「変な夢?」

「はい。俺は溶岩の上にいて、真っ黒な雲が太陽の光を遮って……赤い溶岩の光が立ち上ってて、世界が火に包まれているみたいだな、と」

「溶岩と雲、ですか」

「はい。火があると俺は安心したんですが、同時にすごく疲れてて……」


 ……本当にそうか?

 あそこにいたのは、本当に俺か?


「なるほど……」

「すいません、手がかりにはならないと思うんですが」

「そう、なんですかね」


 だとしたら一応の合点はいく。


「ですから、まずはそれを伝えましょう」

「だけど、ウィルさんは話すことすら嫌がってるみたいでしたよ」

「それなら、菓子折りを持って行きましょう」

「菓子折り?」

「はいっ。そこまでする人を無下に扱う人は、あんまりいないですから」


 ……なるほど。菓子折なんかでと思ったが、そう聞くと上手な手段に思える。

 二人で弁当を食べ終え、声を合わせてごちそうさまをする。


「捨ててきます」

「すみません、ありがとうございます」


 席を立って、ゴミ箱……扉の横にあった。


「あとは礼儀ですねっ」

「はあ、礼儀。大事でしょうけど」

「笑止! 人間関係は礼に始まり礼に終わります。ツナ、練習しませんかっ!」


 笑止て。


「いいですけど、どうやって?」

「ツナ、ここに立ってください」

「ここですね」


 窓際。シーラが指示した通りに立つ。

 向かい合う。それからシーラは、にこ! と音が聞こえてきそうなほど満面の笑みを浮かべた。


「シーラと申します! よろしくお願いしますっ!」


 ぺこり。


「はいっ、どうぞ!」

「ツナです。よろしくお願いします」

「もっと元気に! どうぞっ」

「……ツナです! よろしくお願いします!」


 俺は何が嬉しくてこんなことをしているんだろう。

 ……いけない、ポジティブ。ポジティブだ。


「よろしいです。では次!」

「これ、結構続きます?」

「まだまだ序の口です」

「……すみません、俺、次体育なんで行きますね」

「そうなんですね……」


 俺のポジティブは長続きしなかった。

 逃げようとすると、シーラの顔が曇る。


「体育なら、行かないとですよねっ」


 悲しそう。つくづく気持ちが前に出る人だ。

 俺はこの顔のシーラを置いて行くのか。


「ではまた放課後に、靴箱で!」

「……いや、まあ」


 時間あるし。


「もうちょっとだけ教えてください」

「! はいっ」


 チチチ、とウグイスが鳴く。それが合図だったように風が吹いて、気持ちよかったから、シーラの言う通り学校に来てよかったな。


 ○


 行けー! とか止めろー! とか、俺に降りかかるクラスメイトの叫び声。ぱたたた、とウグイスがびっくりして逃げていく。

 対峙は一瞬だ。面倒だからライトサイドに来ないでほしい、とか思いつつ、一定の間合いで後退する。注視するのは相手の目より、足元でドリブルされる白黒のボールだ。

 左右の自陣を攻められる分にはいい。中央のゴール前の相手プレイヤーにボールが渡るのがまずいのだ。

 ──今だ。相手がクロスパスを出そうと蹴り足を引いた。その隙に割り込んで、アウトサイドキックでボールを蹴り飛ばした。ボールはフィールドの外へ飛び出す、スローインだ。

 ぴぴー、とホイッスルの音、試合終了だ。


「ないすぅーっ!」

「サッカー選手なれるって!」


 五時間目の体育の授業はサッカー。一試合十五分で二戦やって、一試合目は1-0で俺たちの勝ち。

 終わった、けどあと一試合残っている……。面倒くさい。

 そんな俺にキャプテンが近づいてくる。彼はサッカー部。さっきの試合も俺たちの指揮を取っていて、聖ノ木高校サッカー部の期待の星と目されている。この試合でたまたま俺がうまいことやったから声を掛けにきたのだろう。

 面倒くさい……のだが、あまりそうも思えないわけが俺にはあった。


「やあ、ツナ! うまいじゃないか!」

「や……たまたま」

「はっはっ、そうか! サッカー部に来てほしいぞ!」


 バシバシ! と背を叩かれる。面倒くさい……面倒くさいのだが、邪険にはできない。

 俺は見てしまったのだ。この……ええと、筋肉男子Aが着替えるところを。

 更衣室で着替えるのだからそこまでは当たり前だ。恥ずかしがることではない。筋肉男子Aも恥ずかしがるタイプではない、だが彼は早着替えをしていた。そして、履いていたのだ。


「次の試合も頼むぞう!」


 彼のパンツの、キティちゃんの柄を。


「ああ、うん……頑張ろうな」


 だからこう、返事がへにょへにょしてしまう。あんまりそういう態度を取らないほうが楽なのだが……。


「だけど俺は見ていたぞ! ツナ、お前、カイトのドリブルの足元をよく見ていた! おそらく中央に出すパスか、ドリブルで中に入るタイミング、それを見ていたのだろう! 未経験にもかかわらず、対峙の瞬間にそこまで意識が巡るとは末恐ろしいものだ!」

「……おう」

「どうかい、サッカー部!」

「いや、いいかな……」

「頼む、今のうちには君のような才覚が必要なんだ! トップの俺に、ライトバックの君!」

「ああ……うん。まあ……いいかな」 


 はっきり断るべきなのだ。入部はできないということ。

 だが負い目がある。俺は彼の隠したがっている秘密を、キティちゃんのパンツを知ってしまった。

 そんな彼……彼を落胆させる言葉を吐くのを俺の良心が咎めた。


「そうか……だけど、俺は諦めないぞ!」

「おう……」

「また君を誘うよ、何度でも!」

「……ほら、次の試合始めるって」

「ああ、ありがとう、教えてくれて!」

「……うん」


 彼が一番前、中央のフォワードの位置へ戻っていく。よくない、よくないことなのだが、その尻につい目が行く。

 キティちゃんのパンツ、履いてるんだよな……。

 ……それで、生きているんだな。

 不意に思ったことだった。なんでかわからないが、彼は昨日の晩、風呂に入るときキティちゃんのパンツを選んだのだ。

 そこには彼なりの行動基準があったはずだ。そういうふうに、ずっと選んで生きている。

 もうすぐメテオが落ちるのに。彼はどんな理由があって、今日、生きているのか。

 ウグイスがいた。チチチ、と空を見て鳴いたその真意を聞き取ることはできない。

 あの鳥も悲しんでいるのだろうか。


 六時間目に入っても、いつも通り生きる人々のことが頭の片隅に残っていた。

 授業は物理だ。老いた男性教師がチョークで黒板にテーマを書く。


「等速直線運動の話をします」


 実は、メテオを見えているのが俺だけとか。

 だから人々はいつも通り暮らす。そもそも気づいていないのだ。

 ……そんなわけがない。

 授業を他所に考えが巡る。


「……そして、一度勢いづいた物体はそのままの速度で進みます」


 気づいていないのではない。見ていないのだ。

 正確にはメテオを見て、見ぬ振りをしている。だから無反応に徹することができる。

 そうだ、誰もがメテオの前で等速直線運動をしている。


「でも、ボールはそのうち止まりますよ?」

「そうですね。それは、他に力が加わるからです」


 だけど、ずっと無反応のままではいられない。メテオの前で全ての人類は当事者になる。

 みんなが死ぬことを意識した瞬間……いや、もっと些細なきっかけで、転がっていたボールはすぐ止まる。人々を襲うのはどうしようもない絶望だ。


「ツナくん、聞いていますか?」


 救う方法は、みんなに加わる力を取り払うこと。みんなに加わる力、どうしようもない絶望……それはメテオ。

 どうすれば、止まるんだ。どうすれば──。


「ツナくん?」

「……あの隕石も、力を加えれば止まるっていうのか? そんなわけ……」


 カツン、と落ちたチョークが割れた。割れたチョークの片方がコロコロと転がっていく。

 その音で我に帰った。目の前に老教師がいる。

 ああ、注意されていたのか。


「あ……すみません。ぼーっとしてました」

「……」


 老教師は何も言わない。どうしたんだ?

 彼は俯き、目に暗がりをたたえる。

 クラスメイトたちがなんとも言えない雰囲気で俺を見つめる。


「ほ、ほら! 続きを、先生!」


 筋肉男子Aが何か言うが、教室の空気は変わらない。

 転がっていた片割れのチョークは減速し始めた。もう少しで止まるだろう。

 窓から見える桜の木の枝に留まったウグイスが小首を傾げる。


 ○


 放課後。空はまだ明るいが、夕方の気配が香り始めていた。チチチ、とウグイスの鳴きごえがする。

 俺は賑やかに昇降口から出ていく生徒たちをじっと見ていた。バスケ部。テニス部。帰宅部……違う。シーラ、もう行ってしまったかな。

 そんなはずはないけど……探しに行くか? ううん……。

 トントン、と肩を叩かれた。


「うわっ」

「お待たせしました。びっくりしましたか?」

「だ……だって、二年の靴箱は逆でしょう」

「靴だけ持って逆の方から出てきました。待ってるツナが見えたので」

「いや、なんで?」

「ツナもびっくりするのかな、と思いまして」

「驚きましたけど……」

「えへへ……」


 なんで嬉しそうなんだよ。いいけど。


「行きましょう、もう」

「ふふ、そうですね。行きましょうっ」


 他の帰宅部や校舎の周りを走りに出る運動部に混じってぞろぞろ校門を出る。

 咲き始めた桜の木を揺らすそよ風。まだやや冷たく、俺にはこれぐらいが気持ちいい。 

 住宅街の緩やかな登り坂。すいすい登るシーラに着いていく。健脚。

 シーラがちら、と俺を見る。ペースが遅れていないか見られたのか、と思ったのだが、そのまま顔を見つめられる。


「なんですか?」

「ツナはおしゃれさんですよね」

「どこを見て思ったんですか、そんなこと」

「ピアスです」

「あー……」


 耳を見られていたのか。

 そういえばピアス、付けていた。自分自身の視界には入らないせいでつい忘れるのだ。


「おしゃれではないですよ」

「そうなんですか?」

「はい。これ、取りたくても取れなくて」

「ええっ!? それ大丈夫なんですか……?」

「困ることはないです。校則も緩いし」

「へ〜……。きれいな宝石ですねえ」


 おしゃれと言えば、シーラの私服を見たことがない。どんな服を着るのだろう……。

 話しているうちバス停に到着した。人がいなかったのでベンチに座る。


「普段はどんな格好なんですか?」

「学ランです」

「ええっ、休みの日もですか。好きなんですか?」

「好きとかじゃないですね。生まれた時から学ランだったんで」

「ちゃんと洗濯はしてくださいね」


 バカみたいな話である。バスが向こうの角を曲がって停車した。

 排気音と共に開いたドアから乗車する。先輩はICカードをタッチし、俺は整理券を取った。後部座席の二人掛けに座る。


「suica使わないんですか?」

「作るの、面倒で……」

「では一緒に作りに行きましょうっ。券売機で作るのも楽ですよ」

「んー……メテオ止まったら考えます。長く使わないのに作るの、もったいないですし」

「大丈夫ですっ、ぜったい止まりますから」


 相変わらずポジティブである。バスにはどこかへ行くおじいさんやスーパー帰りの主婦が乗っていた。迷惑にならないように、小声で会話する。


「おしゃれしないんですか?」

「する理由がわからないです」

「えーっ! それならお洋服も買いに行きましょうっ」

「面倒くさいです。誰が得するんですか」

「わたしが得します」

「なんで」

「ツナのおしゃれ、見たいですからっ」


 それって、どういう……。尋ねるか迷っているうちにシーラが話を進める。


「身長があって体格もいいですし、女の子に好かれる顔立ちですから、きちっとしたらきっとモテモテですよ?」

「……ま、そうですよね」

「ふふ、思ったより自信満々なんですね」

「……ん?」


 思ったことがつい口から出た。わかっていたことだが、両思いなわけないよな……と思った、のだが……。

 ……俺がモテるのは当然、みたいに受け取られたか?


「いや、違いますよ」

「ツナ、もしかしてすでにモテモテだったりして……」

「違いますって」

「わたし、ちょっと切ないかもしれません。心のどこかで純真無垢で不器用な後輩くんだと思っていたのかも……。女遊びに明け暮れていたなんてっ」


 ヨヨヨ、と口に手を当てて目を伏せる。待ってほしい、本当に。

 ……けど、純真無垢で不器用だと思われていたのもどうなんだろう。俺、そんなふうに見えるだろうか……というか。


「……いや、俺が女遊びしてたかなんてシーラにわかるわけがないでしょう。してないです。ふざけないでください」

「えへへ、バレましたか」

「今日、そういうの多いですよ」

「ツナともっと仲良くなろうと思いまして」

「手口が男子小学生です」


 この人がそれをしてくるところにタチの悪さがある。


『次は聖蹟桜ヶ丘駅ー、聖蹟桜ヶ丘駅ー』


 先輩が黄色い“止まります”ボタンを押した。


「ふふっ、そろそろバスが着きそうです」

「楽しそうですね」

「楽しいですっ」


 悪びれもしない。いっそ見ていて清々しい。


「ツナと話しているとなんだか楽しいです」

「……よかったですよ」


 ズルいものだ。俺以外のヤツにも、先輩はこういうことを言うのだろうか。

 想像して嫌な気分になった。


『聖蹟桜ヶ丘駅ー、聖蹟桜ヶ丘駅ー。バスが完全に停車するまでは席に着いてお待ちください』


 バスは駅前の賑やかな中を徐行して進み、アナウンスのあと高架下のバスターミナルの一角に止まった。真上から電車の通過音がする。


「降りましょう」

「はい」


 先輩に続いて俺も席を立つ。ここからウィルさんがいると思しきサトウ邸へ行くわけだが、俺たちにはその前にやっておくことがあった。


「今から何するか、忘れていませんよね?」

「それを言うなら俺の方です。菓子折りを買いに行くんでしょう?」

「正解! わたし、喜ばれるお菓子に心当たりがあります。美味しいチョコを買いに行きましょうっ」


 シーラに引かれて、バスターミナル直結の駅ビルに入る。A、B、C館とあって多様な店が揃う。


 聖蹟桜ヶ丘はまあまあの田舎だが、映画以外の用事ならだいたい駅前で事が済むという点で住み良い田舎だ……とテレビでやっていた。


「美味しいチョコって、ゴディバとかあるんですか?」

「ゴディバも美味しいですよね。ここに入っているのはリンツのお店です」

「リンツ」

「食べたことありませんか?」

「ないです。名前も初耳です。俺、そういうのてんで知らなくて」

「上質な丸い大きなチョコの中に、いろんな味のチョコソースが入ってるんです」

「ほう」

「たくさんの味を袋に詰めるんです。本当にいろんな味があるんですが、わたしのおすすめは外側のチョコとのギャップが楽しいストロベリーです!」

「そうですか」

「気になります?」

「めちゃくちゃ気になります」

「やったあ! わたしたちで食べるぶんも買いましょうねっ」


 食料品売り場、服のブランド、服のブランド……服屋が多い。どうぞー、と言う店員を横目にリンツへ向かう。


「……ツナ、大変なことに気がつきました」

「なんですか?」

「ウィルさん、甘いものは大丈夫でしょうか……?」

「……あー」


 シーラの言う通り。甘いお菓子が苦手な人も人の中にはいるに決まっている。


「どうします?」

「……別のものも買いましょう」

「え。俺、あんまり手持ちないんですけど……」

「安心してください。お題はわたしが出しますから」

「いや、流石にそれは悪いです。買うなら俺も出しますよ」

「いえいえ、それこそ悪いというものです」

「何言ってるんですか」


 言い合いをしているうちリンツに到着する。先輩にうながされるままカラフルなチョコのマイアソートを作成し、ついでにウィルさんに渡すギフト用の箱をカゴに入れる。

 レジへ、というところでシーラの目がレジ脇の棚に留まる。そのチョコは店内でも一際異彩を放っていた。


「ツナ、このチョコは……」

「熊、ですかね」


 熊チョコだった。包み紙で覆われた木彫りの熊の形のチョコ。シーラの小さい顔と同じぐらいの大きさを誇る。

 シーラはやや躊躇したが、それをカゴにインした。買うのかよ。

 改めてレジへ。かなり値が張る……が、半分なら足りる。

 だがシーラがそれを許さなかった。彼女はなぜか自分の財力に並々ならぬ自信を持っていて、「まあまあまあ」と俺を押し除け全額払ってしまったのだ。

 俺がぐちぐち行ってもシーラは金を受け取ろうとしない。だがそれは悪い。いくら彼女が自分の財力に並々ならぬ自信を持っていてもそれは申し訳ないものなのだ。

 よって俺は次に向かった土産屋でシーラに見つからないようにささっと会計を済ませる作戦を敢行した。シーラは「もうっ」と頬を膨らませていたが。

 買ったのは塩っ辛いあられだった。それで買い物は済み、紙袋を一袋ずつ持って俺たちは駅ビルを出る。

 日が落ち夕方の匂いがし始めた。空が橙色に染まるまでにはサトウ邸に着くだろう。

 駅ビルに入った頃と比べて駅前の通行人が増えた。学校帰りの人、仕事帰りの人、遊びに行く人もいるかもしれない。その少し上を微風が通って桜をまた揺らす。

 桜の木の枝に止まっていたウグイスが飛び立っていく。彼はどこへ行くのだろう。学校か、仕事か、遊びに行くのか。楽しいならいいなと思う。


「またな」


 俺たちも通行人に混じって街を西に進む。駅前には多かった人が、10分も歩けばずいぶん減った。その分車道が広くなって、多摩川を渡る橋へ向かう速い車ばかりになる。

 大通りを一本外れて住宅街に入る。途中の公園のベンチにサラリーマンが座っていた。

 呆然としていて仕事疲れかと思ったが、彼はベンチの背もたれにぐったり身体を預けて空の一点を見つめていた。隕石を見ているのだ。

 俺は学校での出来事を思い出していた。老教師やクラスメイトがメテオの絶望に触れるところや、転がったチョークが止まるところを。

 みんなを励ましていたキティちゃんのパンツの筋肉男子Aは、どんな気持ちでみんなを励ましていたのだろう。俺にはわからない。

 公園の脇を通り過ぎたぐらいで、シーラにその生徒のことをどう思うか聞いてみた。


「カッコいい人ですねっ」

「……まあ、そうですね。俺もそう思います」

「その人にとってはあの隕石が怖い気持ちより、みんなの笑顔の方が大きかったのではないでしょうか」

「……そうだったのかもしれません」

「それぞれの向き合いかたがあるんです」


 俺たちはあれを止めようとしてて、それは成功するならすごいことだ。そう思っていたが、これも向き合いかたの一つに過ぎないのかもしれない。

 会話が一区切りする。サトウ邸に到着した。

 広い庭を通り、インターホンを押す。「どうぞ」とサトウさんの声と共に玄関扉の自動鍵が開いた。


「お邪魔しますっ」

「お邪魔します……シーラ、これ」

「あっ、靴が」


 ウィルさんはここにいる。間違いない。

 玄関にはサトウさんの靴の他に、見知らぬ下駄が脱いであったのだ。


「……シーラ」

「はい」

「……計画通りに行きますよ」

「やる気満々ですねっ」

「一応はやると決めましたから。……俺も、メテオとそういう向き合い方をしたい」


 恐怖はまだ心を蝕む。それでも進もうと思える。

 俺は一人じゃないからだ。

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