5. 自分に自信がある人の気が知れない、けど


 聖ノ木学園は大学付属の中高一貫校だ。広い敷地に中等部棟、高等部棟、部室棟が立ち並び、体育館にプール、中庭等々その設備の全貌は俺も把握できていない。

 とはいえ普段使うのは移動教室とクラスの教室ぐらいだろう。ようやく帰りのホームルームも終わり、解放されたクラスメイトが教室からこぼれ出していく。俺もその後ろに続いた。

 廊下は放課後の生徒たちで溢れかえっている。スマホを囲んだり、部室へ向かったり、友達と喋ったり。そんな中で俺は一人窓の外を見ながら逆方向へ。上階に向かう。

 彼らはメテオを見ずに何を見ているのだろう?

 彼らが抱いているのは死の絶望ではない。希望でもない。

 つまり何も見ていないのだ。目を背けて感情の堰を閉じている。

 だがそれは責められることじゃない。あの天槌を見て立ちすくんでいた俺とそう変わらない。

 じゃあ俺はどういうつもりでシーラの元に向かっているのだろう。会話の中に希望を見出したのか。

 いいや、そうではない。人間、そう簡単には変わらないし、俺も簡単には変われない。落葉が川の流れに流されていくのと同じだった。そういう流れだったから、なんとなくだ。

 なんとなくなく学校に行って授業を受け、あーあなんて思いつついま目の前に地学準備室の扉がある。

 地学準備室は四階の角部屋だった。放課後の掃除では手が回らない場所だからか、ここらの空気はほこりっぽい。

 扉にはちょうどよいサイズにカットされたダンボールが貼られている。ダンボールのガタガタで字が歪んでいるが、油性ペンで大きく書かれた『メテオ部』。

 ……メテオ部って。二度ノックして扉を開ける。

 部屋の中からふわ、と春の風が抜けていった。新緑の風……。


「……こんにちは、ツナ。今日はよいお天気ですね」

「こんにちは、シーラ」


 窓が空いていた。だから風が吹いていたのだ。

 黒髪の先輩はそこから外を見ていたようだった。


「何を見ていたんですか?」

「春を見ていました」

「春?」

「はい、綺麗ですよっ。せっかくですから、ツナも見ていきませんか?」


 手招かれた。開け放たれた窓から外を見る。


「何が見えますか?」

「そりゃあ春が。それと、街が見えます」

「街?」

「はい。いるでしょう、建物と人が」

「……ふふっ、そうですね。わたしにも見えてました、街」


 先輩が嬉しそうな顔をする。街を見るのは満足したのか、窓際を離れて薬品棚を探り始める。


「お着きになって待っていてください」

「わかりました」


 先輩は薬品棚から筒を取り出した。

 あれは……茶葉。二箱あるダンボールから二リットルの天然水のペットボトルを取り出し、これもどこから持ってきたのか電気ケトルに注いでスイッチをオンした。

 そして紙皿にアソートのお菓子を盛り付ける。丸いチョコ、ポテトチップス、いちごのポッキー。


「どうぞ。お茶はもう少し待ってください」

「いただきます。ずいぶん品揃えがいいですね」

「ふふ、形から入る性分ですゆえ。それで、ツナ……」

「メテオを止めたい、って話でしょう」

「はい。メテオ部に入ってくれませんか」

「……」


 シーラが礼をした。

 答えはまだ出ていない。覚悟もない。どうしてそんな俺に頭を下げるのか、俺にはわからない。


「俺を誘うぐらいです。誰でもいいんじゃないですか?」

「……そうかもしれませんね。だけどツナは、窓から街を見ていました。自分の痛みを省みませんでした。他の誰でもなく、ツナでよかったって、わたし、思ってます」

「……そうですか」


 この人は本気だ。本気で説得しようとしてきている。その姿は輝きに満ちている。


「俺はあんまりそう思わないですけど」

「そういうものです。己を見る人の目はいつも少し歪んでいます。そしてわたしは、人を見る目、すごいんです」

「先輩はすごいですね。俺は自分のことそこまで言えないです」

「えへへ……だけど元はと言えば、ツナがすごいんです」


 彼女の大きな瞳が胸を打った。澄んでいる。

 心揺らぐ。握った拳の爪が手のひらに食い込んだ。

 シーラの言葉は変に心をかき乱すのだった。彼女は俺を指して勇気があると言うが、そんなわけはない。

 進もうとするのは俺にとって怖いことだからだ。何かを置き去りにして、進んで先で何かを手に入れられるとも限らない。

 それだけならそれでいい。進まないことを選択すればいい。だけどそうはできない。そうはできないのは、だって……。

 俺も本当は、シーラみたいに──。

 ……考えることを捨てたかった。思考が導く正しいことは、いつも心を傷つけるから。


「……あの隕石を止めるなんて、できるとは思えません。本気でやって、頑張って頑張って、頑張って、それでもたぶん失敗する」

「ツナ……」

「あーあ、で終わるでしょうね。頑張った時間は無駄になって、俺たちは透明だったのにその瞬間“失敗した人”になって、何にもなれないままそうして死んでいく」

「……」


 言えば言うほど、見える景色がくすんでいく。景色を映す心がくすんでいく。

 だけどしょうがないだろ。お前はそういうやつだ。

 嫌になった。澄んだ彼女の目の前にいたくない。耐えがたい……。


「勇者なんかじゃないですよ。別の人を探してください」

「あっ、待って──!」


 席を立った。静止の声を振り払い、ただ遠ざかりたい一念で大股になってあそこから逃げた。

 これでよかった。俺には何もないから。それだけの気持ちで階段を上がって、扉に手を掛けた。そうしてからこれが屋上の扉だと気づく。

 開かないだろうかと思ったのだが、ドアは錆びた音を立てて開いた。天文部が鍵を開けたのかもしれない。

 屋上の強風が吹き付ける。ここからも、街が見える。空には地学準備室から見えないメテオが見えた。

 絶望の権化。その威容が重々しく腹にたまった。身体から力が抜けていく。そのどうにもならなさが、小さく俺に寄り添う。

 塀にもたれかかる。ああ、いい。これでいいんだ。何をするのだって、この世界では無駄なんだから。


 ○


 しばらくそうしていた。心の暗がりに身を浸していた。何も考えなくていいし、帰ればもうそれきりだ。

 そうだ帰ろう。忘れられるさ、だからもう帰ろう。何かから身を潜めて、だけど見た目はいつも通りに過ごせば良くて、そうすればそのまま……。

 ……そのまま最期を迎えるのだろうか。

 そのとき、屋上の扉が開いた。


「……シーラ」

「探しました、ツナ」


 先輩は肩で息をしていた。俺は地べたに腰掛けて塀にもたれていた。

 彼女は近づいて、俺の前でしゃがんでにっこり笑う。やめてほしい。目を合わせられない。


「怖いですよね」

「……」

「怖いですよ」


 ……。


「ツナが、まっすぐあれを見ているから怖いんです」

「無理に褒めなくても──」

「本気です」


 シーラの手に頬を挟まれる。顔の向きをぐいっと変えられて、なんなんだこの人、真剣な表情のシーラに無理やり目を合わされた。


「本当に人を滅ぼすのがメテオだって、わたしは思っていません」

「何が滅ぼすって言うんです」

「絶望が──人の心の絶望が、みんなの身体まで壊してしまいます」

「……」

「だけど、ツナ」


 にこっとシーラがもう一度微笑む。頬からシーラの手が離れて、その手に手を握られた。優美な所作で、掃き溜めのような俺に。


「だけどツナ、一人じゃないです」

「そんな……」

「二人ならできます。失敗する人になるのだって、世界を救う人になるのだって、二人で一緒です」

「……シーラ」

「だから、わたしの目を見てください」

「……」


 目を見た。


「一緒に信じてください。メテオは止まるって」

「それは……」

「根拠なんてありません。それでもいいから、信じて」


 できっこない。方法なんてない。

 だけど……どうしてか自分でもわからないけど……信じた。


「一緒に生きましょう。わたし、学校が好きです。街が好きです。そこで頑張って生きて、楽しそうにしてる人がいる限り、好きなのです」

「……」

「大丈夫です」

「……なんで、そんなに前向きなんですか」

「命はいつか、終わりますから」

「……ああ」


 そりゃあそうだ。俺も知っている。

 だったらどうして、こんなに心が動くんだ。


「手伝ってくれませんか、ツナ」

「……わかりましたよ」


 心が頭を追い越して、言葉が自然と音になった。

 なんでだろう。なんでだろう、全然わからない。なのに心が、前を向いてもいいのかもしれないと言っている。

 苦しい道になる。だけど苦しい道を進むんじゃない。俺はシーラに引っ張られて、明るい道を苦しみながらも目指すんだ。


「二人、なんですね。シーラ」

「……はいっ」

「じゃあ、情けないのはやめます。……俺を連れて行ってください」

「いいえ、ツナ。並んでいきましょう、二人で」

「……そうですね」


 シーラが空を指さす。晴れた空にベールのような雲がかかっていた。


「あの雲の名前を知っていますか?」

「いえ」

「すじ雲って言います。風が強い日の雲です」

「知りませんでした」

「ツナが知っていないことをわたしは知っていて、わたしができないこともツナならできるでしょう。だから……」

「わかってますよ」


 立ち上がる。


「……二人なら、できます」

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