3. 井の中のかわずでいいのに
3
昼下がりのスーパーには主婦が多い。若い母親が子供におかしコーナーへ引っ張っていかれ、歳を召した女性がタイムセールのカートを見ている。
ヨルさんのメモ通りに食品をカゴに放り込んでいく。切り分ける前の食パンにりんご、チーズにケチャップと店で使うものから鍋のもとまで。なま物はないが白菜や肉は冷蔵庫にあった。夕食は鍋だろうか。
買い終えてスーパーを出ると、電車の音がする。駅の構内のスーパーマーケットだった。もう昼も終わる。
東口から出ようとしたときのことだ。
「……あれは」
駅前広場に、忘れもしない顔があった。
間違いない。細い黒絹のような大和撫子の先輩。
彼女は駅の中に入っていく。追いかけることもできる。
だが実際のところ、俺に頓着はない。
まあいいかと思った。……思ったのだが、ヨルさんの笑顔と言葉を思い出す。
「ステーキは、食べたい」
……それに、全く興味がないわけじゃなかった。春風は胸に心地よかったから。
だが話しかけるのは難しい。なんというか……気が進まない。
話して嫌われないかとも思う。俺は人と話すと、まあまあ嫌われる。
そしてどうにも恥ずかしいのだった。俺は話しかけるのを諦めて、行き先を見守ることにする。
彼女は構内を歩いていく。パン屋の菓子パンに目を奪われたり、壁のポスターを横目で見たり。たたずまいは折り目正しいながらも、彼女の道ゆきは楽しそうだ。たっぷり時間を掛けてきっぷ売り場に辿り着く。
彼女はきっぷを買い、改札へ向かった。何円の区間のきっぷを買ったのか俺にはわからない。
「これじゃ追いかけようがないな……」
がっかりしたが、追いかけられなくなってホッとする気持ちの方が大きい。悪いことをしてる気分だった。
彼女の背中が黒髪を左右にフリフリ振りながら去っていく。ここまでだ……と思ったところで、彼女が横目で俺に気づいた。
先輩は首を傾げて、あっと手を打つ。まずい、気付かれた!
今の俺は紛れもないストーカーに見えるだろう。そしてタチが悪いことに、本当にそうなのだった。
通報される……と考えたのだが、彼女の反応は意外なものだった。
濡羽色の髪の先輩はにこりと笑って、ちょんときっぷを指でつまみ俺に見せつけた。330円区間だ。
それだけして、駅の奥に去っていく。……誘われているのか?
15時32分、2番ホームから特急新宿行きが──、とアナウンスされる。ここまできたら俺に選択肢はなく、急いで切符売り場に向かった。
○
ガタンゴトン、と列車のタイヤのレールの段差を渡る音が、車体の内側からくぐもって聞こえる。
ロングシートの座席は暖房でポカポカ温かく、肌寒い日陰の席に心地いい。一方で先輩は日向の下の、俺の対面の席に座っていた。
妙なこの距離感……どうするんだ。
列車のロングシートで対面、というのはものすごく微妙だ。他に乗客がいるから話しかけるのは周りに迷惑な距離だが、かといって無視するのも違う。
「……」
俺は目を逸らしているのだが、彼女はにこにこしながら俺を見つめてくる。
俺が気まずそうにするたび心なし嬉しそうにするのだ。反応を楽しまれている。
それはまあよかったが、そんな風にされると変な勘違いをしてしまいそうだった。
意を決して、やり返すべく俺が睨め返す。そのことに気づいた先輩は頬をそっと染め、反応に迷ったあと指をいじいじさせて恥じらった。
その反応が一番困る……! 話したことは一度もないが、厄介な相手に惚れたのかもしれない。
俺は抵抗を諦めて、先輩越しに空を見ることにした。もうすぐ夕暮れだ……。
空のメテオは、少し地平に近づいただろうか。
京王線が俺たちを終着の新宿駅まで運び、ようやく先輩が席を立った。俺は先輩が降りるのを待っていたわけだから、ここが先輩の目的地だ。
あれだけ俺をガン見していた先輩は、いざ席を立つと俺に目もくれず歩き出す。慌てて追いかける。
乗り換えの気はないようで、彼女は改札を出て構内を歩き出す。新宿駅の構内は複雑で、右へ左へ人波に揉まれて進むうちに先輩を見失ってしまった。
先輩の人波の間を抜ける技術は見事なものだった。まっすぐぴんと姿勢良く歩いているだけなのに、周りのほうから彼女を避けてゆくようですらあったのだ。
対して俺はあちらにぶつかりこちらにぶつかり、大きな柱に鼻をぶつけた。
鼻をさすりながらようやく駅を出たが、彼女が歩いて行った方向すらもうわからない。
仕方がないのでとりあえず走ってみることにした。
……そのまま、一時間が経った。
あてもなく走り回り、そろそろ帰ろうかな……と考え始める。電車の中の出来事だけでも夕食はステーキだ。
「ニイちゃん何周もここら回って、色街は初めてかい。ウチの店はそういう人よく来るから、嬢も慣れてるぜ?」
「い、いえ……大丈夫です」
狭い道のキャッチをお断りする。
気がつけば駅を東に少し行って歌舞伎町の奥まったところにいた。こんな治安の場所に先輩がいるわけがないというのに、俺は何を考えているのか。
すっかり夕焼けに染まった街を見て、はー……と気力が抜けていく。
都心ってものは知っていたが、本当にこんなに高い建物ばっかりだと思わなかった。
ここではたくさんの人が早足で歩いていって、みんながそれぞれ違うものを見ていた。俺もその一人のはずだったが、あんまりその実感がない。
「……でさぁ、その友達がさぁ──」
「マジ? めっちゃいいヤツじゃんか──」
長身で身だしなみがしっかりしたホストにエスコートされて、街の奥に消えていく丁寧に化粧した女性。
「……ありがとーございましたぁ!」
「またくるね〜」
大胆な格好をした水商売の女性に元気よく見送られる、香水の匂いがする冴えないスーツの男性。
誰もが一生懸命自分のために、相手のための顔をしているように見えた。こんな世界で一生懸命なんて無駄なことだが、一生懸命な人が俺はすごいと思う。
今までこういう街に良いイメージはなかったが、それだけではないのかもしれない。
「はい、好きですっ」
「お、いいねえ。ウチらのところに寄ってかない? イッパイあるよ、美味しいお菓子!」
「いいですね、でもわたし──」
通りの奥から女性を勧誘する声が聞こえてくる。……お菓子で女性を勧誘するヤツなんているのか。
つい目が引き寄せられる。
「ちょっと、用事があって……わたし、ここで! 失礼します!」
「ちょっと待てえい嬢ちゃん!」
サンカクの黒サングラスの男がガシ! と女性の腕を掴む。
身体を半身引いたが逃げきれなかったその女性は、うちの高校の制服を着ていた。目がぱっちりしていて、きれいな黒髪で……。彼女は間違いなく先輩だった。……先輩!?
なんと勧誘に連れて行かれそうだったのは探していた先輩その人。俺は焦る。いくつもの疑問が俺の頭をよぎってパニックだったが、まずは彼女を助けなければ!
俺は二人の元に駆け寄った。
「やめてください、嫌がってます」
掴む手と掴まれた手の両方を掴んで、無理やり引き離す。
「あァ? テメェどこのもんだァ……」
「聖蹟桜ヶ丘です」
「あっ、きみは……! こんにちは!」
「こんにちは……って言ってる場合じゃないでしょう!」
この街にいいイメージはなく、それは偏見だったが、実際によくないところもある。
男が両手をゴキゴキと鳴らしてこちらに来るのを睨みながら、その“よくない”ところを肌で感じていた。
「フザけてんじゃねえぞ! 一発殴らせろ!」
「……野蛮ですよ」
「うっせぇ!」
男の振りかぶった手が、気がつけば俺の目前に迫っていた。
「え」
拳が頬に触れた。危険を感じた瞬間にはもう遅く、男の手がまっすぐ振り抜かれる。
「オラァ!」
「──っ」
血の味がして視界が回った。殴られた。俺は殴られたのだった。
帰りたかったが、先輩を守るのならそうはいかない。倒れたい気持ちを踏ん張って、まだ持っていたレジ袋を置き、次の拳が迫っていた。手で顔を守る。
一撃、一撃、さらなる殴打。男は蹴りを繰り出すようになった。
「守るだけじゃ勝てねェぞ!」
「……っ」
「待ってください!」
男は熱くなっていた。先輩の静止も聞いていない。
何度も何度も受け続けていると腕の感覚がなくなってくる。殴られ続けて、僅差で先に折れたのは男だった。
「ぜー……はー……っ、お前っ、なかなか……やるじゃねェの……。見上げたぜ、テメェのオトコ……」
「……っ」
サングラス男が膝に手を着き、肩で息をする。俺も似たようなものだった。何度も蹴られて膝を着きそうな足でなんとか踏ん張る。
先に膝を着いたのは男だった。終わった……。カラスがカア、カアと鳴く夕暮れの中、膝を着こうとしたところを……後ろから首根っこを掴まれる。
「うぐっ……」
「逃げますね! いいですかっ!?」
「わかりましたっ……から、手っ、離して……!」
シャツで首が締まって息が……!
ぱん、ぱん、と先輩の手をはたいて、ようやく離してくれた。おっとと……とよろめきつつ、逃げる彼女に追いすがる。
「嬢ちゃん! アンタには見込みがあるッ! 一生のお願いだーッ! 俺と共に歌舞伎町の頂点(テッペン)を目指してくれェーッ!!」
「お断りです!」
なんなんだ、この街!
夕日を背に手を伸ばす男を横目にその場から走り去る。俺には新宿の街がまったくわからなくなった。
○
ガタンゴトン、と列車のタイヤのレールの段差を渡る音が、車体の内側からくぐもって聞こえた。乗っているのは同じ京王線のはずだったが、なんだか音が遠くに聞こえる。
それは窓の外の景色が変わって夕方でも夜の入り口に差し掛かってきたからか、それとも先輩が、言葉を交わせる真横の席に座っているからだろうか。
「っ痛ぅ……」
先輩が俺の頬に貼ったばんそうこうのゴミをポーチにしまった。
「いけませんよ、あんなに危ないことをしては。怪我まで……」
「先に殴ってきたのは向こうです」
「そうじゃなくて、やり返さないとやられるじゃないですか」
「……」
見かけより好戦的だ。
先輩は消毒液とハンカチを片付けた。丁寧にハンカチを畳む仕草すら優美である。
「やったら、向こうを傷つけます」
「きみが傷ついてはいけません」
「……君じゃなくて、ツナです」
「あっ、わたしシーラと申します。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします。俺が向こうを殴らなかったのには理由があります」
「なんですか?」
シーラさんはそっぽを向いて、聞いてはあげますみたいなポーズを取った。拗ねている。
……もしかして、俺が強情だから? だとしたらお節介な人だし、そのお節介は結構なことだ。俺に意見を曲げる気はない。
「自分が傷つくより、相手が傷つくほうがよくないでしょう」
「それはとてもえらいことですね。ですけど……」
「……ですけど?」
「ツナが傷ついて、悲しむ人はいるのではないですか」
「……いませんよ」
頭にまず、ヨルさんの顔が浮かぶ。
俺は半ば意地のようにいないと言った。こう言うしかなかった。その考え方は俺の心臓に根付いていて、他のやり方などわからないからだ。
「憐みますか?」
「いいえ、わたしたち友達になりましょう」
「……え?」
シーラさんは真顔でそんなことを言った。見るからに真剣だ。
「恥ずかしくないんですか、そういうこと言って」
「……少しだけ」
そう言ってはにかんだ。……ズルである。
その隙に手を握られた。
「ありがとうございます、助けてくれて。ふふっ、言い忘れてました」
「……どういたしまして。シーラさん、どうしてあんなに危ないところにいたんですか」
「シーラって呼んでください」
「シーラ」
「そうですそうです。わたし、ツナを探してたんです」
「俺?」
「そうです」
それでは筋が通らないだろう。
「シーラは俺に気づくより先にきっぷを買っていました。俺に関係なく新宿に用事があったはずです」
「バレましたね」
「考えて喋ってください」
「あっ、いじわるな言い方!」
「思ったことですから」
「ツナを探していたのは本当ですよ。だけどその前に新宿で用事をしてきたのも、言うとおりです」
「何をしてきたんですか?」
「……秘密でございます」
思わせぶりにこちらを流し見て、しーっとした。シーラが唇にあてた人差し指の影が西日で長く伸びる。
「まあいい……と思ったけど、そういうふうに隠し立てられると気になります。教えてください」
「いけません。女の子の秘密ゆえ」
ぐいっと仕立てのいい顔が近づいて、人差し指が今度は俺の唇を塞ごうと迫る。澄んだ眼の長い眉毛、もっちりした肌。髪の内側からする柑橘系の匂い、薄い化粧。すらっとした人差し指……。
よくない。というかさっきから距離が近い。俺はとっさに座席を後ずさった。
「ツナはどうしてわたしのこと追いかけてきたのですか? 朝もわたしのこと見てました」
「う……」
痛いところを突かれた。
「……何かお隠しですね?」
「それは……」
恋しました……とは、ちょっと、言えない。ヨルさんに言うのとは何もかもわけが違う。
「……俺の負けです」
「秘密?」
「……秘密です」
白旗をあげた。
「ふふっ、やりました」
「く……」
「でも、わたしがツナを探してた理由はないしょじゃないです」
「……」
「気になりますか?」
「……」
「すねないでください」
「……聞きたいです。拗ねてはいません」
「本当に聞きたいですか?」
「……」
「聞きたいですかー?」
「……聞きたいですよ! 気になってます」
正面から顔をぐいぐい近づけられると、俺は自分の弱さを感じる。
大人しくシーラの言葉を聞くことにした。
「勇者を探してたんです」
「勇者?」
「はい。勇気のある人を」
「どうして」
先輩は窓から空を見る。
そして、視線でしめしたのだ。天のメテオを。
「あの隕石を壊すためです」
「…………はあ?」
「世界をまっすぐな目で見る勇気の持ち主を探していました。……ツナ、謹んで申し上げます。一緒にメテオを止めてください」
できっこない。否定の言葉ばかりが頭に浮かぶ。
そんな俺を前にしても、彼女の大きな瞳は真剣に俺の目を見つめてくる。過大評価だ。
「仲間になってくれませんか?」
「……俺に、何ができると──」
「──世界を救うんです」
「……」
「わたしと、君で」
シーラの覚悟を持って問われていた。
これから薄暮を迎える空の鋭角な西日が先輩だけを照らしている。
否定は簡単だ。軽い言葉を唾にまじえて飲み込む。そうすると、覚悟のない俺は返す言葉を持っていなかった。
○
駅で先輩と別れて、ハナニラまでの夜の道を歩いていく。思考の暗がりに吸い込まれそうだ。
『その気になったら、明後日の水曜日の放課後に地学準備室へ来てください』
『……明日じゃないんですか。メテオが落っこちるまで、もう一週間もありませんが』
『はい、どうしても外せない……その、リハがあって』
リハとはなんなのか。メテオを壊すよりも大事なことなのか。そも巨大なメテオを壊す手段なんかあるのか。そう問うより先に、シーラは去っていった。
ハナニラに着く。店内はまだ明るく、お客さんがちらほらといる。
「ただいま」
「おかえり、ツナ」
新宿まで一緒に旅したレジ袋を手渡して、カウンターの裏口から二階へ上がる。
アイスとかなくてよかったな……と思いつつ、暗がりの自室で学ランのボタンを外していく。カーテンを閉めていない部屋の窓から夜空が見える。もうすぐ満ちる月光が差している。
ついため息が出る。学ランの前を開いたまま、白いベッドに転がった。
俺にその気はなかった。
シーラに協力するつもりはなかった。俺の思考をめぐるのはずっと彼女と彼女の言葉。シーラの言葉は、なぜだか心に刺さって残り続けている。
めんどくさい、と思った。どうせ大変なのだから。
俺が行かなければシーラとの関係はそこで終わりだ。
悲しいだろうか。いや、悲しくはない。どうせ世界ごと終わるのだから。
そう思った。信じるように思い込んだ。うつろな否定で肩肘を張る、そのことを頭では当然理解していた。
わかっている。もしメテオを止めたら、
月明かりを浴びるピアスが俺の左耳で振れた。俺の心の揺らぐように。
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