2. 人の運転する車
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入学式後のホームルームは昼前に終わり、俺はすぐに教室を出る。ヨルさんは車で待ってくれていた。
春日通りの緩い坂道をハスラーがゆっくり下る。春日通りは小高い道で、上から街を見下ろせた。
たくさんの家だ。学校や職陽、買い物へ出かけた家主を待つ家々の屋根の一面一面に、お昼の陽が当たっている。
車中にも陽の光が差し込んでくる。春でも日差しが暑いな、と思いながらぼうっとしていると、ヨルさんに何かあったのかを尋ねられた。彼になら隠すことでもない。
「……ってことがありました。自分にそういうことないと思ってたんですけど」
「いいことじゃないか、恋」
ヨルさんが運転しながらそう言った。
二十代半ばのヨルさんの人柄を二文字で言い表すなら“温和”だ。
四文字で表すなら天然温和。話しかたに顔立ちに立ち姿まで、俺とは真逆で人当たりがいい。
「心が動くっていうのは健康のあかしなのさ。ツナ、感情があまり表に出ないタイプだろう?」
「そうですね」
狭い道が都道41号に合流した。大栗川に架かる二車線の橋を渡り、駅前に差し掛かる。
赤信号でヨルさんがブレーキペダルを踏んだ。
「健康は幸せへの第一歩さ」
「……うーん」
「あんまり興味ないかい? 幸せ」
車は川崎街道を右折して、聖蹟Uロードへ。
広い歩道に飲食店が立ち並ぶ。駅前とはこういうものだ。
その道も曲がり奥まった道に入ったあたりで、わからないなと結論が出る。
「あんまりわかりません」
「わからない?」
「幸せになりたいってよくわからないですし……どうでもいいな、って」
「なるほど。ツナはつくづく無頓着だ」
「何に?」
「楽しいことさ」
「はあ」
車が駐車場に停まる。駐車場からお店までの少しの間を歩く。
「今のところ、自分から何かしてみるつもりはないんだろう?」
「……よくわかりますね」
ヨルさんの言うとおりだった。俺の気持ちは見透かされている。
「だけど、その恋は頑張ってみないかい」
「でも、どうせ終わるんですから」
「そうかもしれないね。けど、きっと楽しいよ」
「楽しくなくてもいいですよ」
「じゃあさ、何か報告をしてくれたらその日の夕食を豪華にするのはどうだい?」
「豪華に?」
「例えばステーキは好きだろう? ほら、どうせ終わるんだから。とびきりいいやつをとびきりの味付けで最後に食べようじゃないか」
俺の頭の中では分厚い肉が鉄板に押し付けられ、ジューシーな汁が染み出る。その横にほかほかの湯気を立てる粒立った白米が現れた。
自分の恋はどうでもいいものの、ご飯だけはおいしいに越したことはないとは思う。
「……ステーキ」
そうは答えたものの、やっぱり面倒な気がしてくる。おいしいものを食べてもどうせ終わってしまうのだから。
やっぱり撤回しよう……と思ったのだが遅かった。隙を見せた。
「決まりだね!」
「……はあ」
1、2分歩いたところで到着する。
駅前通りから一本外れたヨルさんのお店、『純喫茶 ハナニラ』。欧風のレトロな木造建築が特徴的だ。
「おかえり」
「ただいま。ヨルさんも、おかえり」
「ただいま」
一階に店舗機能、二階に住人用の個室がある。俺は居候を初めて一ヶ月経つが、家の実感はまだない。
電気の落ちた店内は普段見ない分レアに映る。ヨルさんがカウンターに入って、ぱちっと電灯を点けた。
俺もカウンターへ。カウンター奥の裏口に入る。
裏口の先には倉庫と水回り、二階への階段。
階段を登ると一本だけ廊下があって、個室が左右に二部屋ずつ並んだ計四部屋。右手前がヨルさんの部屋だ。
そして、左手前が俺の部屋だ。黄土色の丸いドアノブを回して自室に入る。
俺の部屋といっても物はない。目立ったものは備え付けのクローゼット、ベット、小さな棚、テーブルと椅子。スクールバッグを棚に置いて、……脱ぐのが面倒だし学ランは着たままでいいだろう。
昼食を食べに一階へ戻ることにした。部屋を出る時、ドア横の姿見に俺の全身が映りこむ。
身長177センチの男子高校生初心者。目つきが悪い。特徴といえば左耳に掛けているプラチナのピアスぐらいだった。
ピアスに嵌まった黄色に透き通った宝石が陽を浴びて、さっと薄い桃色を帯びる。
裏口から店内に入ると、カウンターでツナさんが接客していた。馴染みの客が一人、勝手知ったる態度でカウンター席に腰掛けている。
「おお、ツナか」
「こんにちは、ズィーさん」
「こんにちは。今日は入学式だったか。相変わらず目つきが悪いの」
「そうですね。うるさいです」
「いいやそれでこそ。でないと人の妙味は浮き出てこん」
老いた口が何か言っている。
彼はZ(ズィー)さん。ひげの長い常連の爺さんである。
よくコーヒーを飲みにくるが、今日はソーセージマフィンを食べていた。老体で毎日のように頻繁に、結構なことだと思う。
「お昼?」
「はい、ヨルさん」
ヨルさんは俺にもソーセージマフィンを出してくれた。
コーヒーはブラックが好きなのだが、今日はちょっと魔がさした。ホットコーヒーにシュガーとミルクを入れてみる。
「ブラックではないのか」
「俺の好み、なんで覚えてるんですか?」
「心変わりでもあったのか?」
「……気分です」
話は終わりだ。俺はソーセージマフィンを熱々で食べたい。
……ブラックにしておけばよかった。
黙々と食べながら、いつも通り二人の世間話を横目に見る。
「聞きましたか? コンサートの話」
「レオンハルトのか! ヴァネッサは儂等のアイドルでのう……」
「フルート奏者の方ですよね。僕もCDで演奏聴きました、好みです」
「偶然じゃの」
「ズィーさんがいつもその人のこと言うからですよ」
「今度レコードを持ってくるからの。プレイヤーはここにあったな」
ボケ老人が。
ツッコもうと思ったが、ソーセージマフィンの方が大切だった。俺の口はいま余裕がない。
「ごちそうさまでした」
「早いね」
「おいしかったです」
「急いてこそよ、若者」
「はいはい……。ヨルさん、夕飯の買い物行ってきます」
ハナニラで居候を始めて以来、スーパーでの買い物は俺の仕事になっていた。ヨルさんからメモを受け取って出発する。
「いつも悪いね」
「いえ。いってきます」
「いってらっしゃい」
「行ってらっしゃい。気をつけてのー」
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