1. 一瞬の風が春を運んできたんだ
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この街には、メテオが降ってくる。
──四月三日、聖蹟桜ヶ丘の街は春を迎えていた。
歩道脇の青い芝を春の風が撫でて去り、霞んだ空へ抜けていく。その空が見たくて、俺は歩いて丘の上を目指していた。ゆうひの丘という名前の大きな丘だ。
幅広の二車線道路の歩道が長い下り坂だ。
途中で住宅街に向かって左に曲がり、年季がいったコンクリートの階段を降りる。今度は登り坂だった。細い垂れ目のおばあさんが下ってくる。
「おはよう」
「おはようございます」
けっこうなお年のようだが、背筋がしゃなりと伸びていた。
俺はここを登る。急坂だ。三歩目からつらく、足下の用水路の網を見ながら一歩ずつ歩いて行った。
聖蹟桜ヶ丘は、坂だらけの街だ。
坂がすべすべしたコンクリートの階段に変わった。しかも、一段ごとの段差がかなり大きい。体力がないわけではないが、もう肩で息をしている。
なんとか登り切ったところで、すぐ側の白いフェンスの向こうから「ワンっ!」と耳元で声がした。
「うわっ!」
犬だ。全然気づいていなかった……。
背中を見せないようにそろりと後ずさって、登り坂の方を見る。
地面が土に変わった。丘に着いたのだ。丘の背に沿い丸太を横たえた道が、てっぺんまで続いている。
「はー……はぁ……」
緩く長い坂が続く。『マジでキツい』という言葉が頭に浮かんだ。
息もからがら到着した。石で舗装された頂上広場にはベンチや水飲み場、東屋がある。
これだけ辛いと頂上に着いたときの達成感はたいていすごいものだが、俺はそうではなかった。
風が吹いて芝に波を立てて降りて行く。そして空へ向かうのだ。登ってる間に朝靄が晴れて快晴だった。
鮮やかな青空の遠くに、岩石の塊……“メテオ”が浮かんでいる。
「……」
メテオはゆっくりゆっくり地球へ近づき続け、ついに7日後、その通り道と地球の公転軌道が重なる。
つまり、衝突する。この聖蹟桜ヶ丘に落っこちる。
この遠さから見てもメテオは巨大で、狙いは正確に見えた。坂だらけのこの街と人々をこなごなにしてしまうだろう。
そうなれば、さっきのような坂をわずらわしいと思うこともなくなる。
孤独だ、と思った。世界中の誰もがそうであるように、俺はこの世界で一人きりだ。
それを単純な事実として認識した。切ないとか、悲しいとか、そういうものが俺にはない。
この街のいちばん高いところから目でメテオを見て、実感を持っておきたかった。だから来たのだ。
「おーい、ツナ! そろそろ入学式だよ!」
「いま行きます」
坂の下から俺を呼ぶ声がした。
俺の保護者をしてくれているヨルさんだ。穏やかな顔立ちの喫茶店のマスターなのだが、その店も閉めて今朝は車で俺の送迎をしてくれる。
高校の入学式に出ないわけには行かないから、俺はゆうひの丘を下り始める。
○
何をするのも無駄だ。
部活に入っても疲れるだけ。人付きあいもそれなりでいい。
いつか人生は終わるのだから。
俺個人の信念だ。他人を否定するわけじゃないが、そういうことを滅びかけの世界が肯定していた。そこには早いか遅いかの違いしかない。
……どうしてそんなことを考えるのかといえば、入学式が暇なのだった。
体育館の壇上で、時候から始まる挨拶を知らない校長が読み上げる。入学のお祝いを知らない迎賓が読み上げる。
きっと彼らは本心で祝っている。いい学校生活になりますようにと祈っていた。その気持ちには悪いと思うものの、知らない人の話はどうしても面白くない。
俺は一年一組の前のほうのパイプ椅子に行儀よく座っていた。目つきはさぞひねていることだろう。
入学式の終盤には尻が痛くなっていた。
「──三年生からの退場になります」
退場の言葉が輝いて聞こえた。
ようやく終わり。肩の力を抜いて硬い背もたれに伸びた。
指示されて立ち上がり、退場するときも緩んだまま目の前を歩く二年四組の後ろを着いていく。俺たち一年と同じ制服が、全然違って見える。背に馴染んでいた。
そのまま肌寒い体育館を出て外廊下の日差しに差し掛かる。暖かな日向に前髪を撫でる風が吹き付けた。
その先に、桜だ。校舎側にまだつぼみの桜が一本萌え立つ。
ぼうっと横目で見ながら廊下を行く。その俺の目の前に、黒髪が立ちはだかった。彼女は立ち止まって桜を見ている。女子生徒だ。
何をしてるんだろうかと疑問が浮かんで、後ろから彼女を見やる。
黒髪。長い髪が濡れがらすのように黒く艶やかだった。
彼女の背筋はすっと伸びやかで、身長は俺と比べて顔一つ小さいのに、その立ち姿に不思議と目が引かれた。
だから俺も立ち止まる。立ち止まる俺たちの後ろを他の生徒が通り過ぎていく。
彼女は二年生だろう。制服が馴染んでいる。
だけど彼女以外の二年生ともまた違う。彼女にはてらいがない。
シュッとした顎、くっきり通った鼻筋。横顔を見た。
頬はふんわり色づいて、慎まやかな唇の口角が桜の予感に触れて嬉しそうに上がる。
身につけた制服が違って見えるのは、大きな水色の瞳が宿す魔力のせいかもしれない。すぐそばにいるはずが、届かないほど遠くの宝石を見ているようだった。
そのぱっちり開いた瞳には春への期待を満たし、桜のつぼみを眺めている。
手を伸ばしたくなる俺を、彼女がちらと振り向いた。彼女は自分を見つめる俺を見て少し首を傾げたものの、にこりと体の動きで笑って見せた。
可憐な仕草が俺を貫く。彼女は立ち尽くす俺を振り返らず去って行く。髪を左右に揺らしながら端正な歩みで遠ざかる彼女の立ち振る舞いは大和撫子のようだった。
立ち呆けた俺をみんなが追い抜いていく。だがそんなことは気にも留まらず、俺は風が運んでくる淡い春の匂いを嗅いだ。
心がこの感情の正体をささやく。桜のつぼみが開く頃に、隕石の天槌が落ちるこの街で、俺は大和撫子の先輩へ恋をしたのだ。
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