五章 迷宮の先へ

episode1

 無事に試験を終え、――陣内だけ追試に先日まで四苦八苦していたが――夏休みに入って一週間。

 アパートの住人たちがアルバイトに勤しむ日中、俺はひとり秋山の部屋で暇を持て余しながらゴロゴロと過ごし、夜には陣内の部屋に集合したみんなと酒を飲んだり堺のドライブの餌食になったりと自堕落な日々を送っていた。

 考えることから逃げていたのかもしれない。

 だが、さすがにこの蒸し暑い日々が続くと一週間以上閉め切ったままの部屋のことが気になってくる。部屋中にカビが生えていたらシャレにならない。日中ならば、柊は司書の仕事で家にいないはず。

 俺は重い腰を上げ、昼ごろアパートを出ると月宮館へと向かった。

「……あー、しまったぁ」

 午前中の涼しい時間にアパートを出ればよかった。数メートル歩いただけなのに全身の毛穴から汗が噴き出す。怠けまくった身体に灼熱しゃくねつの太陽の容赦ない陽射しが降り注ぎ、俺はフラフラとよろめきながら壁に手をつくと額から流れ落ちる汗を腕でぬぐった。

 この暑さの中、月宮館まで歩くのか。俺は眩しげに目を細めながら空を見上げ、大きく息をつくと再び歩き始める。

 カフェでウェイターのバイトをする堺や家庭教師のバイトをしている滝川はともかく、秋山や陣内は近くにできた大型ショッピングモールの臨時交通誘導員としてこの地獄の中頑張っているのだ。たかが数キロで引き返すわけにはいかない。

 途中、自販機でジュースを買い、できるだけ日陰を歩きながら俺は月宮館へと急いだ。この先にあるあの角を曲がれば月宮館が見えてくる。俺はこの焦熱地獄しょうねつじごくから逃れるべく歩くスピードを早め、角を曲がると目の前に見える月宮館へと駈け出した。

 部屋についたらまっ先にシャワーを浴びようとエントランスに飛び込むと、白のポロシャツにデニム姿の伊集院が柱に寄りかかりながらじっとオートロックの扉の先にあるエレベーターを見つめていた。

 俺に気づいた伊集院は、「やぁ、久し振り」と寄りかかっていた柱から離れた。俺は足を止め、息を切らしながら伊集院と向き合う。

「この暑いのに走ってきたのかい? 若いねぇ」

 汗だくの俺を呆れるように見ながら言う伊集院に、「な、んでここに」と息を整えながら尋ねた。

 柊ならまだ大学の図書館にいるはずだ。俺のところに来たのだろうか、と思っていると、「ああ。隼人にちょっと、ね」と伊集院は言葉を濁し、「それより、試験どうだった? 部屋にも帰ってないみたいだったから気になってたんだ」と申し訳なさそうに聞いてきた。

「おかげさまで奇跡的に追試を免れることができました」

「……そうか。悪かったね、君に迷惑かけてしまって」

 もう終わったことのように言う伊集院に俺は腹が立ち、「俺、諦めてませんから」と思わず口にした。

 伊集院は静かに瞳を閉じると小さく溜め息をついた。そんな伊集院の態度に俺は唇を噛む。

 足踏み状態の現状でさっきの発言は自分でも軽率だと思うが、俺の気持ちを無視して勝手に終わらせようとする伊集院に文句を言われたくはない。

 それに……柊を受け入れる覚悟は、あの時の俺にはできていたはずだ――

「そんな、簡単なものじゃないんだよ」

 伊集院は静かな口調で言うと、

「……本当は、ここ数日、何度か君を尋ねたんだ。君は居留守を使うような人間じゃないから秋山くんのところに行っているんだと思っていたよ」

 俺は伊集院の言葉に頷いた。

 伊集院はわずかに口角を上げ、「君に覚悟ができたとは思えないけれど。――そう。じゃあ、少し付き合ってもらえるかな?」そう言うと俺に背を向け、外の焦熱地獄の方へと歩いていく。

「あ、でも」

 せめて着替えくらいはさせてほしい。汗でべたつく身体にTシャツが貼り付き、さっきから気持ちが悪くてしょうがなかった。

 伊集院は困った顔で振り返り、「今、部屋に戻らない方がいいよ」とだけ言った。

 嫌な予感がした。ここに着いた時に伊集院が見ていたエレベーター。俺はおそるおそるエレベーターに視線を向ける。

「隼人の部屋に女が来てる。どうやら、君にぞっこんだった赤井という子らしい」

 俺の背中越しに伊集院が言った。

「今日、隼人に無理矢理有給取らせたんだ。話があったから。それで来てみたら、彼女とエントランスで一緒になってね。アイツが呼んだらしい。インターホン越しに赤井と名乗っていたよ、彼女」

 そう言うと、伊集院は中に入っていった赤井という女性の特徴を手短に説明する。

 ――赤井だ。彼女がどうして。

 困惑する俺に、「前に君に言い寄る彼女に柊が手厳しいこと言ったんだったよな。多分、その時に目をつけたんじゃない? 彼女」と伊集院が続けた。

「……だからって」

 俺は目を伏せる。

「行こう」

 伊集院が俺に手を差し伸べた。繊細な指に不釣り合いなほど大きな手のひらが俺に向けられている。伊集院はこの大きな手で、どれだけ多くの患者を救ってきたのだろう。

「……どこへ?」

 助けを求めるように俺は伊集院に尋ねた。

 俺はどこへ行けばいい。行きたいところ、望む場所は、俺を拒絶しているというのに。どこに俺の居場所があるというのか。

「ついてきたら分かるよ」

 伊集院が躊躇ためらう俺の手を取った。「こっちね」とマンションの地下にある駐車場を指差した。ゆるやかなスロープを下りていく伊集院のあとを俺は黙ってついていく。

 初めて足を踏み入れるマンションの駐車場。車を持っていない俺にはまったく無縁の場所で、今までここに入ることも入ろうと思ったこともなかった。

 平日の日中ではあるが薄暗い駐車場には車が数台止まっていた。どれも高級外車ばかりで、親戚の顔が一瞬脳裏に過ぎった。

 そういえば前に実家に来た時、彼らもベンツに乗っていた。車に詳しくないからグレードとかは分からないが、艶やかな漆黒のボディが印象的なその車を見て、高そうだな、と思ったことを思い出す。

 この中の一台が伊集院の車なのか。医者だからそれなりの車にも乗るよな。俺は少し前を歩く伊集院のうしろ姿をチラリと見てから駐車場内にある車を観察し始める。

 伊集院なら、あのシルバーのBMWが似合いそうだ。それとも、その隣に止まっている白のベンツだろうか。黒のアウディは伊集院には渋すぎるし、赤のボルボも伊集院っぽくない気がする。

 赤井のことを頭から消し去りたいために、まるでゲームでもするかのように伊集院の車探しを始める。すると伊集院がデニムのポケットから車のキーを取り出した。その直後、一台の車のライトが点滅する。

 あのシルバーのBMWだった。

「隼人が契約している駐車場に止めてるんだ。だから、無断駐車ではないよ」

 伊集院はクルリと俺の方を向くと器用にうしろ向きに歩きながら、

「今日止めてることは隼人には言ってないけどね」

「……柊さん、車持ってるんですね」

 すぐまた回転して元通り歩き出す伊集院に向かって俺は言った。

 知らなかった。……考えてみれば、月宮館の住人ではない伊集院が駐車場に車を止められる訳がない。駐車場に向かった時点で、どうして気付かなかったのか。いつもバスで大学まで通勤していたとはいえ、あの歳で車を持っていない方がおかしいではないか。フツフツと湧き上がるいくつもの考えを振り払うように俺は首を振った。

 いや、でも、俺だって柊のことを全然知らない訳じゃない。俺は指折り数えるように、柊について知っていることを頭の中に挙げていく。

 映画が好きで、濃いめのコーヒーが好きで、ビールより赤ワインが好きで、煙草はマールボロのメンソールを吸っていて、普段はコンタクトで、飲み過ぎた翌日は眼鏡で、うちの大学の司書で、それに、それに……

「ないよ」

 伊集院が言った。

 いきなりそう断言され、愕然がくぜんとする俺に伊集院は運転席のドアを開けながら、「車、隼人は持ってないよ。持っていたら俺の車止められないだろ? ここは、俺の車を止めるために契約してもらったんだ。駐車場代はアイツ持ちだけど」そう言って笑うと車に乗り込んだ。

「そ、うですか」

 そう答えるのが精一杯だった。伊集院には申し訳ないが、今の俺にはそんな話どうでもよかった。

 泣きそうになるのをこらえるように俺は口元を引き締める。少し遅れて助手席に乗り込む俺に、「どうかした?」と伊集院が尋ねてきた。

「いえ、いい車ですね」

 肌触りのいい革のシートをさすりながら言う俺に伊集院はフッと笑い、「俺に残っているのはコレくらいだ」と言った。そして伊集院はエンジンをスタートさせるとアクセルを踏み込んだ。

 ゆっくりと動き出した車はスロープへと向かう。フロントガラスから太陽の強烈な陽射しが差しこみ、俺は目を細めながら額に手をかざした。

 さっきの焦熱地獄とは打って変わり、座り心地のいい革のシートにエアコンの効いた快適な空間の中に置かれた俺は、窓の外を流れる景色をぼんやりと見つめていた。

 ――どこへ行くのだろう。

 伊集院は、俺をどこへ連れていく気なのか。柊を諦めるよう言ってきた彼は、今度は俺になにを見せようというのか。……柊も、伊集院も、なにを考えているのか、俺には、分からない。

 俺は伊集院の横顔を横目で見ながら、諦めるように窓の外へ視線を投げた。

 考えたって無駄だ。俺にはこの人の表情からなにも読み取ることはできない。この人は、それを隠すのが上手い。――きっと、誰よりも。

 一日の中で一番気温が高くなるこの時間、気怠そうというより死にかけに近い顔で外を歩く人たちを見ていて俺はあることに気がついた。

「すみません、伊集院さん!」

 慌てて謝る俺に、「え、なに?」と伊集院がハンドルをさばきながら聞き返した。

「俺、全身汗だくなのに普通に座っちゃいました」

 しかも、思い切りシートにもたれかかってくつろいでしまった。今更ながらに背筋を伸ばして背中が革のシートに触れないようにしている俺を見て、伊集院はハンドルを叩きながら笑い出した。

「いいよ、いいよ、そんなこと。急に謝るからなにかと思った。もう少しかかるから、くつろいでていいよ」

「え、でも」

「汗くらい構わないよ。昔、酔っぱらった隼人に吐かれた時に比べれば。……あれは泣けた」

 ハンドルを器用にさばきながら渋い顔をする伊集院に、「え、この中でですか?」と思わず聞き返すと、伊集院は俺に顔を向けて大きく頷いた。

「あ、いえ、前向いて下さい。危ないですから」

「酷いだろ? それに比べれば汗なんて可愛いもんさ。しかもアイツ、記憶がぶっ飛んでてその時のこと覚えてもないんだぞ」

「それは……ヒドイですね」

「だろ? アイツが深酒する時は必ず」

 伊集院はそこまで言うと言葉を止め、そのまま口を閉ざした。今のは明らかに口を滑らせたという感じだった。俺は気になって尋ねようと口を開きかけたが、すぐに思い直す。尋ねてもなにも答えてくれない気がした。前にも同じようなことがあった。きっと、また同じ。

 ……俺には言えないことなのか。ここのところ、柊が眼鏡をずっとかけているのは俺が原因だとでもいうのか。

 俺が悪いのか。

 すべて――。

 俺は伊集院によって再び出口の見えない迷宮に落とされた。

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