episode2
「着いたよ」
そう言って伊集院は、あるオフィスビルの契約駐車場に車を止めた。
「……ここって」
――そのビルには『伊集院メンタルクリニック』という文字があった。
「医者は医者でも、俺は精神科医なんだ」
運転席のドアを静かに閉めながら伊集院が言った。
「心の病気を診るのが俺の仕事だ」
「心の……」
「中に入ろう。今日は休みだから誰もいない」
伊集院とともにビルの中へと入り、エレベーターに乗り込んだ。俺は伊集院が二階のボタンを押すのを見つめながら、どうして彼がここに俺を連れてきたのかを考えていた。
すぐにエレベーターは二階に着き、伊集院に
グレーの絨毯が敷かれた廊下の先には、内側から淡いブルーのカーテンが引かれた扉が見えた。あの中に俺を連れていって伊集院はどうするつもりなのか――
「君に、話したいことがあるんだ」
俺はハッとして振り返ると、能面のような表情の伊集院が俺を
「隼人のことだ」
「……柊、さんの?」
心臓がドクンと強く脈を打つ。
「そう。……それを聞けば隼人のすべてが分かる」
伊集院のその言葉に、俺は心を奪われた。
知りたい。
――柊のすべてが。
「聞かせてください」
熱に浮かされたように俺はそう答えていた。
「じゃあ、行こう」
歩き出す伊集院のあとを、まるでハーメルンの笛吹きに出てくるネズミのように俺はフラフラとついていった。電源の落ちている自動ドアを伊集院が開け、部屋に一歩足を踏み入れると、壁一面淡いブルーの壁紙が貼られ、薄いグレーの座り心地の良さそうなオットマンがいくつか置かれていた。
清潔感のある落ちついた雰囲気の室内は待合室というよりはサロンといった感じで、最初に廊下で感じた抵抗感などは一切なくなっていた。
「壁紙、どうして白ではなくブルーなのか分かるかい?」
突然、伊集院が聞いてきた。静かに壁を見つめている彼に俺は「いいえ」と短く答える。
「ここに来る人の中には、真っ白な壁を怖がる人もいるんだ」
伊集院は壁をひと撫ですると俺を見た。
「分からないだろ? 白い壁が怖いなんて。でもね、汚れのない真っ白な壁に囲まれた部屋にいるだけで息ができなくなるほど苦しくなる人もいる。消えてしまいたい、と思う人もいるんだよ」
伊集院の言葉がなにを意味するのか、どうして俺にそんな話をするのか、震えがくるほどの恐怖が俺を襲う。
「……それは、柊さんのことですか?」
声を
俺は近くにあったオットマンに崩れ落ち、震える指先を握りしめる。
静まり返る室内。
一人になった途端、不安が
伊集院が話そうとしていることは、柊にとって誰にも聞かれたくないことではないのか。それを俺が聞いてもいいのだろうか。――柊に断りもなく。
伊集院は守秘義務である患者の、柊のことを俺に話そうとしている。それは……許されないことだ。
俺は組んだ手を額に押し当て、目を
伊集院はなにか勘違いをしていないか。俺が柊を救えるとでも思っているのだろうか。もしそうだとしたら……それは間違いだ。確かに、俺は伊集院に柊のことを諦めてはいないと言った。もちろん俺だって柊を助けたい。けれど――
「俺は……」
柊に嫌われている。
俺は立ち上がると伊集院の消えていった奥の部屋を見つめた。今ならまだ引き返せる。このままなにも聞かずに帰ったほうがいいんじゃないか。
――これ以上、柊に嫌われたくない。
俺はオットマンに再び腰を下ろした。そして足の上に肘をつき、顔を両手で覆うと大きく息をついた。
なにも言わずに立ち去ろうかとも考えたが、そんなことをすれば柊だけでなく伊集院にまで嫌われてしまう。たとえ失望させてしまうとしても、ちゃんと伊集院に今の俺の本心を言わなければ。
俺は目を閉じ、伊集院が奥から戻ってくるのを待った。
時計の針が進む音がやけに大きく聞こえる。その音が、じっと座っていられないほど俺の心を乱し、思わず叫び声を上げてしまいそうな
俺は胸を押さえながら、息を整えるように何度も深呼吸をする。額に浮いた脂汗を手のひらで拭い、顔を上げるとカチャカチャと漆器が触れ合う音が聞こえてきた。
奥から、ティーカップをふたつのせたトレーを持って伊集院が戻ってきた。
「あ、の……」
俺が立ち上がると、「帰るの?」と伊集院がまるで分かっていたことのように言った。
「……す、みません」
「いいよ。このハーブティ飲んだら家まで送ろう」
伊集院が俺の前にティーカップを置いた。
俺はティーカップを見つめながら、「さっきはあんなこと言ったけど……どうしたらいいのか、まだ分からないんです」と正直に答えた。
「それは、隼人も同じだ」
伊集院はティーカップを口元に運びながら、
「アイツはこれまでずっと、心を閉ざしてきたから」
俺はどう答えていいのか分からず、ティーカップを手に取った。ハーブティは初めて飲む。ひと口含むと、口の中にハーブの苦みが広がる。何種類かのハーブがブレンドされているのだろうか。クセはあるが、嫌いではない。
飲んでいくうちにだんだんと心が落ち着き、頭の中がスッキリとしていく。
「俺は柊さんの力になりたいです。でも……これ以上、嫌われたくないんです。……傷つきたく、ないんです」
両手の中にあるティーカップに目を落としながら俺は言った。勝手なことを言っているのは分かっているが、すべてを吐き出してしまいたかった。
「隼人は君を嫌ってなんていないよ」
「でも……」
俺は救いを求めるように伊集院を見つめた。伊集院は穏やかな笑みを浮かべ、「本当だ」と言ってくれた。俺が表情を緩めると伊集院は目を伏せ、「だから、アイツは酒に逃げた」とボソリと言うとそのまま口を閉ざし、静かにティーカップをテーブルに置いた。
それはどういう意味なのか。
俺が声をかけようとした時、「俺、もともとは外科志望だったんだ。アメリカの大学に留学することも決まっていた」と伊集院が突然の告白を始めた。
「でもアイツを独りにするわけにはいかなかったから。俺には、独り苦しむアイツを放って置くことはできなかった。だから、この仕事を選んだ。――前にアイツを諦めるように君に言っただろ? あれは君というより、隼人を傷つけたくなかったからなんだ。君には無理だと思ったから。アイツを受け入れることができるとは思えなかった。今でもそう思ってる。――だから今日、君をここに連れてきたんだ」
「……そんな」
俺は目の前が真っ暗になり、声を震わせた。
「じゃあ、伊集院さんは俺を……試したんですか?」
伊集院は何も言わない。
「何とか言ってください! 伊集院さんっ」
俺は悲鳴に近い声で叫んだ。
そんな俺を
頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。……突き放された。信頼していた伊集院に。
「俺、は……じゃあ、俺はどうすれば」
涙が溢れて止まらない。俺はこぼれ落ちる涙を拭うこともせず、伊集院にすがった。
「自分で、考えなさい」
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