episode4

 その瞬間、涙が一筋頬を零れ落ちた。俺は慌てて顔をうずめる。

 ――最悪だ。

 こんな自分が嫌になる。傷ついている堺が隣にいるのに、柊を思い出して泣いてしまうなんて。馬鹿にもほどがある。

 もう、自分が分からない。なにを望んでいるのか。なにがしたいのか。今までこんな気持ちになったことはなかったし、他人ひとにここまで執着したこともなかった。ましてその相手が――。

 脳裏に一昨日の柊の声や息遣い、触れられた感触までもが次々に蘇る。身体が熱くなり、意識が遠のきそうになる。日に日に大きくなっていくやり場のない柊への想いに気が狂いそうになり、俺は歯を食いしばる。

「忘れろ」

 顔を上げると、あわれむような顔で堺が俺を見ている。堺は目を細めると、「深く傷つく前に。その方がいい」と諭すように俺に言った。俺は何も言えずにうつむく。

 忘れられるものなら俺だって忘れてしまいたい。それができたら、どんなに楽か。

 こんなにも会いたくて苦しい。

 こんなにも声が聞きたくて辛い。

 ――忘れるなんて、できない。

「そんなの……無理です」

 泣きそうになりながら顔を上げて堺を見ると、彼は小さく溜め息をついた。俺がそう答えると分かっていたようだった。呆れているのかもしれない。

「さっきさ」

 堺は俺の視線を避けるように、アパートの向かいにある青白い光を放つ自動販売機に視線を向けると、

「真琴から電話があったんだ。……司書から『会いたい』って連絡があったらしい。あんなに辛い思いしたのに、アイツ会いに行くって」

 堺は絶望を漂わせるような口調で、「馬鹿だよな」と小さく呟いた。

 俺は堺の横顔を見つめながら言葉を失った。頭の中が真っ白になり、手すりを掴みながらその場にズルズルとへたり込んだ。

 あの人が――

「そんな……」

 俺がこんなに苦しんでるのに。俺の気持ちを知っているはずなのに。

「三澤」

「なんで、だよっ」

 どうして俺じゃ駄目なんだ。

 床に両手をついてうめく俺に、「……すまん。お前には言わないでおこうと思ったんだが」と堺の申し訳なさそうな声が聞こえた。

「さ、かいさん……」

「うん」

「堺、さん……」

「うん」

「柊さん……どうして」

 すがるように堺を見上げると、「そういう人間なんだ、彼は。だから、忘れた方がいい」とこれまでにないほど優しい声で堺が言った。あまりにも堺の声が優しくて、涙が溢れ出る。嗚咽おえつこらえる俺の背中を、堺は落ち着くまでトントンと叩き続けた。

「部屋に戻ろう。もうすぐ、アッキたちも目が覚めるだろうから」

 堺が言った。

 俺はコクリと頷く。随分長く、ここに座り込んでいた気がする。その間、なにも言わず白み始めた東の空を見つめながら俺の隣にいてくれた堺。

 二日酔いの重い身体に鞭打つようにのっそりと立ち上がり、俺は何度目かの深い息をついた。

 昨日過ごした楽しい時間がまるで夢のように思えるほど、今の俺には空しさしか残っていない。堺の顔をまともに見ることができず、気まずい空気が流れる。

 心のどこかで、堺を恨めしく思っている自分がいる。俺のためを思って堺は教えてくれたのだと頭では分かっているが、それでもやっぱり聞きたくなかった。……知りたくは、なかった。

 堺の優しさを受け入れられず、身勝手なことばかり考えてしまう自分か浅ましく、自己嫌悪に陥る。どうして俺は自分のことしか考えられないのだろう。俺と同じように傷ついているのに俺に気を遣い、心配までしてくれた堺のように、どうして俺は他人ひとの気持ちを察することが、他人ひとに優しくすることが、できないのだろう。

 ――変わりたい。

 心の底からそう思った。

「……ごめんなさい」

 小さく呟く俺に、堺が困ったような顔をする。

「なんで三澤が謝るんだ? 言わなくていいことを言ってお前を傷つけたのは俺だ。謝るのは俺の方だろ。――ごめんな」

「でも、先輩だって……」

 堺は「ああ」と呟き、「真琴のことはいいんだ。アイツが自分で選んだことだから。俺が許せないのは、本気のヤツを自分の都合で振りまわしてもてあそぶあの男だ」と怒気を含んだ声で言った。

「そう、ですね」

 一昨日のことも柊にとってはただの遊びだったのかもしれない。

 あの時、柊に会えたことを喜んだ自分が馬鹿みたいに思えた。まるでピエロだ。それなのに、どうして忘れることができないのだろう。

 俺は顔を歪め、唇を噛み締める。

「仕方ないさ」

 俺の心の内を見透かしたかのように堺は言うと、呆けている俺の頭をポンポンと叩いた。

「好きになっちまったもんは仕方ないさ。感情をコントロールするなんでできやしないんだから。傷つくのが目に見えてたから深みにはまる前にと思って忠告したけど、諦められないなら自分が納得するまであがき続けろ。ただし、自分を大事にしろよ」

「堺、さん」

 俺は必死で泣くのを堪えながら、

「でも、俺、自分のことばっかり……」

「いいんだよ。誰だって、自分が一番なんだから。それが、普通だ。そのことに気づいた自分をむしろ褒めとけ」

「でも堺さんは、優しい」

 傷ついていながら、どうしてそんなに優しい言葉をかけてくれるのか。

 堺は照れ臭そうに笑い、「優しいか? 自分ではよく分からんなぁ。まぁ、成長の証かな。傷ついた分だけ他人ひとに優しくなれる、ってな」と鼻の頭をポリポリと指でかきながら言った。

「……俺も、変われますか?」

 おずおずと尋ねる俺に、「ん? ああ。変わらない人間なんていないよ。日々、成長し続けてるんだから。三澤だって変われる。絶対、な」と堺が太鼓判を押すように親指を突き立てた。

 俺は救われた思いで頷くと、「じゃあ、行くか」と堺が言った。

「はい」

「遊園地へ」

「……えっ?」

 驚いて堺に顔を向けると、彼は腕時計を見ながら、「今から行けば開園時間に間に合うぞ」と言った。

「今からですか?!」

「そう。だって週末だから早めに行かないと混んじゃうだろ?」

「いや、そうじゃなくて。――それに、秋山たちに」

助けを求めないと、と言いかけて口をつぐんだ。三人の喜ぶ顔が目に浮かび、俺は脱力して溜め息をついた。

「置き手紙残しとけばいいんじゃないか? 『三澤がどうしても行きたいって言うから行ってきます』って」

「言ってませんよ」

「顔に書いてあるぞ。三澤ったら、顔に出やすいんだから」

「出てませんよ。書いてませんよ」

 ムキになる俺を見て堺は笑みを浮かべ、「じゃあ、行こうか。今日は遊園地日和だぞ」と晴れ渡る青空を見上げた。

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