episode4

 本を読み終えて時計を見ると、すでに二時間が経っていた。

 いつの間にか西日にしびが部屋に射し込んでいる。カーテンを閉めようと立ち上がりかけた時、「よっしゃーっ」と本を読み終えた秋山が床に倒れ込んだ。

「大学ってもっと自由に過ごせると思ったけど全然だな。バイトもあるし、遊べねぇ」

 両手足を力いっぱい伸ばしながら秋山が声を上げた。

「少し休憩するか。なんか飲む?」

 キッチンに向かう俺に、「飲む。コーヒー」と仰向きのまま秋山が言った。

「あいよ」

 棚からインスタントコーヒーを取り出すと秋山がフラフラと近寄ってきた。

「俺ブラックね。なんだぁ、インスタントかよ」

「当たり前だろ。家は豪華でもふところ心許こころもとない貧乏学生なんだから」

「だよな、うちもだ。柊さんって、ここに一人で住んでんのかな? 金持ちなのか?」

 秋山は淹れたてのコーヒーの入ったコップを手に取ると、それを口元に運びながらテーブルへと戻っていった。

「さぁ」

 俺は素気なく答える。

「知らねぇの?」

「知らない」

「ふーん」

 確かに、こんな分譲マンションで一人暮らしなんて普通しないよな。司書ってそんなに給料いいんだろうか。自分のコップにお湯を注ぎながらぼんやり考えていると、「あちっ、つぅ」と秋山の声が聞こえてきた。火傷やけどしたらしい。

「祐一、唇が痛い!」

 テーブルに戻ると秋山の上唇うわくちびるが真っ赤になっていた。

「あーあ、冷やしてこいよ」

「洗面所どこ?」

「リビング出てすぐのドアだ」

 いそいそとリビングから出ていく秋山のうしろ姿に苦笑くしょうしながら、閉め忘れていたカーテンを閉めに窓辺に立つ。

 ちょうど、赤々とした夕日がビルの谷間に沈んでいくところだった。その様子をものしげに見つめながらゆっくりとカーテンを閉めていると、ブツブツとなにかぼやきながら秋山が洗面所から戻ってきた。

 そして俺を見るなり、「お前、顔が笑ってるぞ」と難癖なんくせをつけてきた。完全な八つ当りだ。

「笑ってないって」

「人の不幸を笑いやがって」

「だから笑ってないよ」

「やる気がなくなりました」

 秋山がゴロンと床に寝転がった。

「なんだよ、さぼりたいだけじゃねぇか」

 呆れる俺に秋山は「はは」と笑った。

「本も読んだし、あとは書くだけだろ。少しくらい、いいじゃねぇか」

 秋山は床をコロコロと転がりだした。

 俺と違って要領のいい秋山は、レポートを書き上げるのが抜群ばつぐんに早かった。彼曰く、レポートは内容はどうあれ完成さえすればいいらしい。すでに、ある程度のメドが頭の中で立っているのだろう。

「飯どうする? 向かいのコンビニに何か買いに行くか?」

 転がりすぎて腹が減ったのか、腹をさすりながら秋山が言った。きっぱらへのコーヒーによる刺激もひとつの要因かもしれない。

「そうするか。作るのも面倒だし」

「そだそだ」

 秋山はすかさず立ち上がり、玄関へと駆けていった。

 廊下に出ると、「俺、カツ丼にしようかなぁ」と秋山は声を弾ませる。俺はなににしようか、と玄関の鍵をかけながらいくつかコンビニ弁当を頭に思い浮かべた。

 すると前を歩いていた秋山が、警察犬のように――実際には見たことないが――鼻をひくつかせた。

「いい匂いがする。柊さん家はカレーか。あー早く何か買いに行こうぜ。本格的に腹減ってきた」

「待てよ」

「早くしろ、俺を殺す気かぁ」

大袈裟おおげさだよ。あと声デカい」

「え、デカかった?」

 慌てて口元を押さえる秋山に俺は思わず肩をすぼめる。柊が出てきかねないから気配を消したかっただけだ。すまん。秋山に申し訳なく思っていると、背後からドアが開く音が聞こえた。

 音を聞いただけなのに、まるでホラー映画の一場面に遭遇そうぐうしたかのような錯覚におちいった。体が硬直こうちょくし、心臓が早鐘はやがねを打つ。

 俺は顔を強張こわばらせながらゆっくりと振り返ると、柊の家から女性が出てきた。

「ありがとう」と柊の声がする。

「またいつでも呼んでね」

 女性はそう言って俺たちの方へと歩いてくる。目が合い、軽く会釈すると今回の女性は会釈を返してきた。

 前に見た女性とはまったくタイプの違う女性だった。前の女性に負けず劣らず美人ではあったが、今回の女性は上品な顔立ちをしており、高そうなワンピースを着ている。バッグもブランド物だ。

「三澤くんたちどこ行くの?」

 見送りに廊下まで出てきた柊が、エレベーターの前にいた俺たちに声をかけた。女性に見惚みとれていた秋山が慌てて「コンビニです」と返事をした。そんな秋山の様子を見て、彼女は微笑ほほえんだ。

「じゃあ、一緒にご飯どう?」

 柊のその言葉に、女性の表情がサッと変わった。

「いいんですか?」

 秋山が声を弾ませた。彼は彼女の反応に気付いていない。気付いてしまった自分を恨めしく思い、俺は顔をしかめた。

「いいよ。大勢のほうが楽しいからね」

 柊が得意の笑顔を浮かべる。

 女性は唇をゆがめ、その場から逃げるようにエレベーターに乗り込んでいった。俺は女性の乗ったエレベーターを見送りながら、彼女はもうここには来ないだろうなと思った。

「やったぁ。祐一、行こうぜ」

 秋山は気まずい雰囲気に気付くことなく、柊のもとへ駆け寄っていった。

「三澤くんもどうぞ」

 柊はドアを大きく開けて中へとうながす。

 秋山はすでに柊の家に上がり込んでいる。行かないわけにはいかなかった。溜め息をつき、俺は柊のもとへ歩き出した。

「酷い人ですね」

「なにが?」

「さっきの女性と食べればよかったじゃないですか」

「彼女、用事があるって言ってたよ」

「そんな風には見えませんでした」

 目を合わさないようにしていると、「一緒に食べるの嫌かい?」と柊が耳元でささやいた。

 驚いて飛び退く俺に柊は、「さぁ、友達も中で待ってるよ」と何事もなかったかのように笑いかけてきた。

「も、もうからかわないって言いましたよね?」

 耳を押さえながら問い質すと、「言ってないよ。からかってごめんねって謝っただけだよ」と柊は意地悪く言った。

「祐一! どうしたんだよ」

 リビングから秋山が顔を出した。

 俺の家にいる時と変わらないくらい馴染なじんでいる秋山。間取りが同じだからだろうか。彼の辞書には〈人見知り〉という文字がないのだろう。もし秋山が柊から俺のようにからかわれたとしても、彼ならきっと笑って流したに違いない。

 自分の器の小ささを垣間見かいまみた気がして落ち込みそうになった。

「ほら、お友達も待ってるよ」

 俺はキッと柊をにらみつける――ただの八つ当りだ――と、彼をけるように部屋へと入った。

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