episode3
辺りを見回して、柊がいないことを確認する。本棚に手をかけ、大きく溜め息をついた。
「なにやってんだ、俺は」
昨日から
「三澤くん、おはよう」
いきなり名前を呼ばれ、ビクリと肩を震わせた。
「……ああ、赤井か。おはよう」
振り返ると、同じ法律学科の赤井が立っていた。
ゆるくカーブさせたライトブラウンの長い髪を耳にかけながら、「驚かせちゃった?」と恐縮する赤井。
「いや、大丈夫。ちょっと考えごとしてて」
明らかに女の声なのに動揺した自分に呆れ、乱暴に前髪をかき上げながら俺は溜め息をついた。今日何度目の溜め息か。
やはり、ひとりでここに来るべきじゃなかった。後悔していると、「今日は秋山くんと一緒じゃないの?」と秋山の姿を探すように赤井が辺りを見回した。
「バイトで休み。それを伝えるアイツのメールで今日起こされたんだ」
口をへの字にしながらぼやくと彼女はクスクスと笑った。
「モーニングコールじゃなくてモーニングメールね」
「相手が悪いよ」
彼女はまたクスクスと笑い、「そういえば、三澤くんってサークル入らないの?」と聞いてきた。
「まだ考え中なんだ。講義についていけなくなるのも嫌だしさ」
俺が苦笑いを浮かべると、赤井は大袈裟にのけ反ってみせた。
「そんなこと言ったら、今すでについていけてない私はどうすればいいのよ」
「オーバーだな。赤井はなんのサークルに入ってるんだ?」
「私はオールラウンド系のサークルだよ。他の大学とも交流あるし、わいわい騒げて楽しいよ」
そう言ってから赤井は、「三澤くんも入らない?」と誘ってきた。
「そうだなぁ、少し考えさせて」
俺は
「うん。三澤くん入ってくれると私嬉しいからいい返事待ってるね」
そう言って赤井は「じゃあ」と片手を上げ、小走りで別の棚にいた友人のところへ駆けていった。
彼女の背中を見送ったあと再び棚に視線を戻すと、「こらこらこら。なんでそこで無反応でいられるかな」と背後から声がした。
もう驚きはしない。その声は毎日のように聞いている声だった。振り返ると、
「バイトじゃなかったのか?」
「他の奴に譲った。色々、あってな。それより、祐一。なんでお前はそんなに
「なにが?」
なんの話だ、と首をかしげると秋山がズイッと顔を寄せてきた。
「赤井はお前に気があるんだよ! 聞いただろ? お前が入ると嬉しいって」
「言ってたね」
秋山の顔を押し返しながら答えると、彼は俺の手首を掴んだ。
「言ってたね、じゃねーよ。おっまえさぁ、せっかく顔いいんだからもっと有効に使えよ」
呆れたようにそう言いながら、秋山は掴んでいた俺の手首を離した。
「別によくないよ。それに……今、そういう気になれないんだ」
俺は棚に視線を戻す。紗織の言葉が頭に蘇る。
――祐一はなにも見てないよね。私のことも。
卒業式の日に言われた彼女の言葉が忘れられない。大切に想っていた、彼女からのその言葉に深く傷ついた俺は、今は他の女の子と付き合う気にはなれなかった。
秋山はそんな俺を見て深い溜め息をついた。
「無理して付き合えとは言わないけどさ、ちゃんと向き合うことはしろよ」
秋山を見ると、彼はニヤリと笑った。
「大切なものまで、見逃しちまうぞ」
「……そ、うかな」
紗織の顔が浮かんだ。
「そうだよ。それに検察官目指すなら、もっと
無言でいると、秋山は棚から本を取り出し、「お前の場合、少し無理してでも
探していた本だった。
「ありがと」
「どういたしまして。貸出手続きすませて早く行こーぜ」
「ああ、そうだな」
俺たちはカウンターへと歩き出す。
「へー、いいとこ住んでるんだな」
何故、二人して月宮館の前にいるかというと、図書館でのレポート作成を嫌がった俺に秋山が「じゃあ、お前の家を提供しろ」と言ってきた。どっちにしろ柊がいるではないかと提案を却下したが、秋山は引かなかった。
俺は
「親戚の家だよ。じゃなきゃ住めないって」
「でも四年間ここに住めるんだろ? いいじゃねぇか。俺なんか築四十年のぼろアパートだぞ」
エレベーターに乗り込みながら秋山がぼやいた。俺は苦笑し、「親戚様々だよ。だから汚すなよ」と秋山に四度目の念押しをする。
「分かってるって。しつこいぞ」
「お前が斎藤の家のふすまに穴開けたって言うからだろ」
「わざとじゃねぇよ」
「わざとだったら最悪だ」
秋山とエレベーターを降りて廊下に出ると、少し先の柊の家のドアが開いたのが目に入り、俺は思わず顔を引きつらせる。なんでいるんだ。
「やぁ、今日は友達と一緒かい?」
俺たちの姿に気付いた柊が、声をかけてきた。キョトンとしている秋山に「隣の人なんだ」と言うと、彼は柊に会釈した。秋山がいてくれるお蔭でなんとか平静でいられる。俺は隣の秋山に感謝した。
「俺、君たちの大学で司書してるんだ。よろしく」
柊がそう言うと秋山は「そうなんですか? すごい偶然ですね」と驚いた。
「俺もビックリしたよ。引っ越しの挨拶にきた三澤くんの姿を館内で見つけた時は」
そう言って柊は、お馴染みの人当たりのいい笑顔を作った。この笑顔が曲者だ。
「ああ、レポートの本借りにいった時か?」
俺を見る秋山に無言で
「今からレポート書くの?」と柊。
「はい」
「頑張ってね」
「ありがとうございます」
柊と秋山の会話を俺は居心地悪く聞いていた。二人の会話に入る気にもなれず、話が終わるのをただ待っていた。秋山の後頭部に何度も念を送ってみたが届いていないようだ。いつも一緒にいるが以心伝心とまではいかないようだ。
「どこかにお出かけですか? え、と……」
「柊です」
「ああ、柊さん」
「コーヒー豆が切れちゃってね。それを買いに」
「そうなんですか、気をつけて」
「ありがとう」
柊は俺に向かって
「祐一、どうした?」
「なんでもないよ、行こう」
俺は早足で家の前までいくと、ドアの鍵を開けて秋山を招き入れた。すでに柊の姿はなかったが、早く部屋の中に入ってしまいたかったのだ。何も知らない秋山は、案内する前に奥のリビングへとドタドタと入っていった。
ドアに鍵をかけてホッと息をつく。リビングに向かうと、秋山がリビングの床に転がって一足先にくつろいでいた。
「遅いぞ」
「……お前な」
「家の探索はあとでゆっくりやるとして、まずはレポートに取りかかるか」
そう言いつつ、秋山は床をゴロゴロと転がる。
「探索しなくていいから。あと転がるな」
俺たちは他愛のない話をしながら、鞄から本を取り出した。
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