episode2

「祐一、図書館行こうぜ。そろそろレポート書かなきゃやばい」

 ノートを鞄に投げ込みながら、隣の秋山が声をかけてきた。

「おお」

 背伸びをしながら答える俺に、「隙だらけだな」と秋山が俺の脇腹をつついた。

「おわっ、やめろって」

すきを見せるからだ」

 秋山は、ひひっと楽しげに笑った。

「お前は小学生か」

「いいねぇ、小学生に戻りてぇ。毎日のように遊び暮らしていたあの頃に戻りたくねぇか?」

「まぁ、時々な」

「だよな!」

 肯定する回答を得られたからか、この短い時間に当時の楽しかった日々を思い出したからか、満面の笑みを浮かべながら秋山が立ち上がった。続くように俺も立ち上がり、秋山とともに教室を出た。

 大学での生活も二ヶ月が過ぎようとしていた。少ないけれど友人もでき、悠々自適ゆうゆうじてきな学生ライフを謳歌おうかしている。あの隣人ともあれ以来、顔を合わせていない。喜ばしいことだ。

「図書館行くの初めてだ、俺」と秋山。

「俺もだ」

 二人で敷地内の中央におごそかにたたずむ図書館へ歩いていると、秋山が急に「やべっ」と足を止めた。

「バイクの登録に行くの忘れてた。悪い、祐一。先行ってて」

「あいよ」

 慌てて事務局に向かう秋山を見送りながら、俺は軽く片手を上げた。そして図書館へと再び歩き出す。

 ――大学の図書館ってどんな感じだろう。

 静かな空間、とだけでは言い表すことのできない空気の緊張感、重量感のある図書館は嫌いではない。実家にいた時はよく市立図書館を利用していたし、受験の時は毎日のように通ったものだ。それに本も嫌いではなかった。

 レンガ造りのおもむきのある建物を見上げ、足を止める。

「なんか雰囲気のあるとこだな」

 建物内に足を踏み入れると、印刷物の独特の匂いが体を包み込んだ。

 静まり返った館内。周りの人間を気にする者などいない。興味深げに本棚に収まる本を見入る者もいれば、椅子に腰かけ本の世界にひたる者、一心不乱にレポートを書いている者もいる。

 誰もが干渉されることなく、濃密な時間を自由に過ごしていた。 

 俺は館内をざっと見渡し、手前の本棚の方へ歩いていくと目を引く専門書がギッシリと収まっていた。

「……もっと早くここに来ればよかった」

 面白そうな本を何冊か目で追いながら呟くと、「ここの学生だったんだ、君。優秀なんだね」と背後から声がした。

 聞き覚えのある声だ。まさかと思い振り返ると、ダークグレーのスーツを身にまとった柊が穏やかな笑顔を浮かべて立っていた。今日は眼鏡をかけていない。

「なんで……」

 困惑する俺に、「司書なんだ」と彼は素早く答えた。呆然ぼうぜんとする俺を柊はおかしそうに見つめている。

「で、君は? 初めてここに来たようだけど、レポートに必要な本が目的かな?」

 なんだか不真面目な学生みたいな言われ方で腹が立つが、実際そうなのだからなにも言い返せない。仏頂面ぶっちょうづらで「ええ」とだけ答えた。

 関わらないようにこの二ヶ月避けてきたのに、こんなところで会うなんて。俺は柊に気付かれないように小さく舌打ちした。

「どんな本?」

 柊が近付いてくる。俺は逃げ出したいのをなんとか我慢しつつ、柊の問いかけを無視した。関わりたくない。すると柊は手を伸ばして棚に手をかけ、俺のく手をさえぎった。

 俺は長身の柊を見上げるように――それも屈辱だったが――にらみつけると、「俺に聞けば一発だよ?」と彼は挑発するような笑みを浮かべた。

「自分で探すので結構です」

 キッパリと断るが柊は手をどかさない。

「勉強熱心なんだ。将来は、弁護士? 検察官? それとも裁判官かな?」

 彼の言葉にいぶかしげな顔をすると、「だってこの棚は法学部の学生がよく利用するからね。法律関係の本ばかりだから。OK?」と柊が顔を寄せてきた。

 柊の息が顔にかかり、驚いて後ずさると彼はくっくっとおかしそうに笑った。

「からかうのは止めてください!」

 馬鹿にされている気がして、俺は不愉快のあまり声を荒げた。

「ああ、ごめんごめん。君、可愛いから絡みたくなるんだよね」

 悪びれた様子もなく言う柊をにらみつけ、「失礼します」と俺はきびすを返して歩き出した。出入口に秋山の姿を見つけた俺は、早足で彼のもとに向かった。

「祐一、悪い。って、どうしたんだよ」

 秋山の横を通り越して出口に向かいながら、「本なかった」と俺は短く答えた。

「え、マジで?! 他のヤツに先越されたかぁ」

「みたいだな」

「なんだよ、せっかく来たのに。じゃあラウンジでも行くか」

 大きな溜め息をつく秋山を一瞥いちべつし、嘘をついたことに悪いと思いながらも、ここから早く出たかった俺は足を止めることなく出口へ急いだ。


 秋山と別れ、月宮館に帰るとエントランスでうろうろしている女性と目が合った。目鼻立ちのハッキリとしたかなりの美人だ。目が合ってしまったので会釈をすると、無視された。今まで会釈を無視された経験がないので驚いた。こんな人もいるのか。

 誰かと待ち合わせでもしているのかと思いながら、オートロックの扉を開けると、その女性がすかさず中に入っていった。

「あっ」

 思わず声を上げる俺を、その女性はキッとにらみつけ、なにも言わずにエレベーターに乗り込んでいった。

 何故、自分がにらまれなくてはいけないんだ。呆気あっけに取られながら、部外者を勝手に中に入れてしまったことに気付き、不安になる。会釈を返さないことや人としてどうかと思うような人物だった。心配になって、エレベーターの表示板を見上げると「5」の数字のところでエレベーターが止まった。

「え……」

 俺は表情をくもらせる。

 五階は自分と柊のフロアだ。嫌な予感を胸に、下りてきたエレベーターに乗り込んだ。エレベーターは静かに五階へと上がっていき、ドアが開いた途端に女性の金切声かなきりごえが耳に飛び込んできた。

「もう会わないってどういうことよ! それに昨日のあの女! 誰なのよっ!」

 エレベーターから降りると、さっきの美人が柊に詰め寄っていた。柊はというと、そんな彼女を観察するように静かに眺めている。

 ……迷惑な。

 エレベーターに乗り込もうときびすを返すと、運悪く誰かがエレベーターを呼んだらしく、一階に下がってしまっていた。

 まいったな。家に帰るにはあの二人の前を通らなくてはいけない。でも通りたくない。修羅場に居続けるくらいなら、面倒だが階段で下へ行った方がマシか。

 何故、住人の俺が気を遣わなくてはいけないのか。腹立だしく思っていると、柊の低く落ちついた声が耳に届いた。

「もう飽きたんだよ。でも、それなりのことはしたつもりだ。これ以上は、無理」

 その途端、さっきまで騒いでいた女性の動きが止まった。俺は眉をひそめる。

 軽蔑するように柊を見ていると、「悪いね、家に帰れないよな」と急に彼が俺を見た。いきなりのことに、咄嗟とっさに「あ、いえ」と答えてしまった。

 気付いていたのかと驚いていると、「最低!」と吐き捨て、口元を押さえながら俺の横をあの女性が駆けていった。階段を駆け降りるハイヒールの音が痛々しく聞こえる。

 俺は柊を見ないようにしながら家へと歩き出す。柊の視線を無視して通り過ぎた……かったが、く手を柊の長い足がはばんで前に進めない。

「あの、足をどかしてください」

「ここを通るには、うちでエスプレッソを味わってもらわないといけないんだよね」

「今までそんなことなかったじゃないですか」

 俺は柊をにらみつける。柊はそんな俺をニヤニヤとしながら眺めていた。

「今までは、ね」

「通してください」

「じゃあ、まずうちにどうぞ」

 今まで以上に不信感をつのらせ、「俺、エスプレッソ飲めませんから」と強い口調で断った。言った後で、もっと違う断り方あっただろと思ったが仕方ない。しかし柊は諦めない。

「おや、ふふ。じゃあカフェオレにしよう」

「結構です。もう、いい加減にして下さい!」

 子供扱いも馬鹿にされるのも不愉快だった。強く拒絶の意思を示すと、柊が顔を耳元に近付けてきた。

「彼女を中に入れたの、君だよね」

 ぞくっとするほどの低い声に、慌てて飛び退く。だが反論することができず、意地の悪い笑みを浮かべた柊を見上げるしかできなかった。

 確かにあの女性を中に入れたのは自分だ。さっきの彼女の様子を思い出す。もし彼女が刃物を持っていたらと考えると、ぞわりと肌が粟立あわだった。

「どうぞ」

 柊がドアを開き、家の中に再度うながした。

「……分かりました」

 渋々しぶしぶ、彼の家に足を踏み入れた。

 案内されるままリビングに入った俺は、目の前に広がるモノトーンの世界に目を見張みはった。

 家具はすべて黒で統一され、中央に置かれたソファの白さがその中で際立きわだっていた。シンプルであるのにセンスの良さをうかがわせるリビング。同じ間取りなのに、うちとは大違いだった。

 部屋の入口で立ち尽くしている俺に、「ソファにかけてて」と言って柊はキッチンに入っていった。俺は言われた通りに、肌触りのいいソファに腰を下ろす。

 なにをしていいのか分からず部屋の中をキョロキョロと見回すと、DVDのコレクションの中の一枚に目が止まった。

「あ……」

 思わず声がれた。

 〈がために鐘は鳴る〉。そのタイトルを見た途端、口の中に苦いものが込み上げてきた。こんなところで思い出すなんて。

「どうかした?」

 柊の声でハッとわれに返り、「いえ」と慌てて視線をコレクションから外した。柊は初めて会った時のように穏やかな笑みを浮かべ、コーヒーカップをサイドテーブルの上に置いた。甘い香りが鼻孔びこうに届く。

「ミルク多めにしてみました」

 意地悪く言う柊に俺はムッとする。

「君は顔に出やすいね」

 柊がクスクス笑いながら俺の隣に腰かけた。

「そんなことありません。いただきます」

 コーヒーカップを手に取ってひと口飲むと、カフェオレの程よい甘さと苦味が口の中に広がった。ホッと一息つきたくなったが、隣の柊にすきを見せたくない。ゴクゴクとカフェオレを水のごとく飲み干した。

「美味しかったです。では、失礼します」

 コーヒーカップをサイドテーブルに置き、腰を浮かしかけた時、「何見てたの?」と柊が聞いてきた。

「は?」

「DVD」

 俺は一瞬、返答にきゅうし、「いえ。面白そうなのがあるなと思っただけです」と適当に誤魔化した。柊は俺をじっと見つめると、「嘘」と短く答えた。

「嘘じゃないですよ。失礼します」

「当ててみようか?」

 ソファから立ち上がった俺に柊が言った。思わず柊を見ると、意味深な笑みを浮かべながら彼は俺を見ている。

「あ、の……」

 柊に心の内を見透みすかされている気がした俺は一歩後ずさる。硬直こうちょくしたまま立ち尽くす俺に、柊はニッコリと笑いかけた。

「なんてね。分かりませんよ、そんなこと」

「……い、いい加減にしてくれ! なんなんだよ、人のこと馬鹿にして! ふざけるなっ!」

 俺は怒りのあまり声を荒げて叫んだ。

 あまりの腹立だしさに涙があふれて止まらない。そんな俺に、柊は放心したように言葉を失っている。

 こんなことで泣いてしまうなんて、最悪だ。俺は悔しくて、涙を乱暴にぬぐうと玄関へ向かった。

 もう嫌だ。こんなヤツ、関わり合いたくない。

 ドアノブに手をかけると、うしろから腕を掴まれた。驚いて振り返ると真剣な顔をした柊が立っている。

「すまない。からかい過ぎたようだ」

 申し訳なさそうに柊は頭を下げた。素直に謝られて拍子抜けした俺は、「あ、いえ」と答えるしかできなかった。柊は掴んでいた腕を放して俺から一歩離れる。

「悪かったね」

 少し悲しげに笑う柊に俺はなにも言えなくなり、ただ狼狽うろたえた。

「いえ。俺の方こそ、その、すみません。……あの、失礼します」

 ドアを開け、外に出る。

 今までのように邪魔されることはなかった。閉まるドアの隙間から柊の生気せいきのない顔が一瞬目に入った。俺は閉まったドアの前にしばらく立ち尽くし、逃げるように自分の家へと駈け出した。

 どうしてこんな後ろめたい気持ちにならなければいけないんだ。あの人が悪いんじゃないか。

 俺は悪くない。

 ――俺は悪くない、よな。

 玄関に入ると俺は頭を抱えてしゃがみ込んだ。

「もう、なんなんだよ」

 あんな顔、するなんて……。 

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