大理石の風呂場で誓う

 性別に驚いたが、気を取り直して髪から洗っていく。まあ女子だと一緒に風呂には入れないからちょうど良かったか。

 流れていくお湯はいつまでも真っ黒だ。


 顔を洗おうとした時、子供は顔を背けた。

 右目を手で押さえている。


「怪我をしているのか、見せてはくれぬか」


 子供はためらいがちに手を離す。

 右目は鈍器のようなもので潰されていた。

 思わず息を飲む。

 よく見れば体も傷だらけだ、擦り傷、切り傷、打撲痕。

 胸がざわつく。

 何故こんなに酷いことが出来るのだろう。

 小さな子供に寄ってたかって……。


 気がつけば泣いていた。


「回復魔法は本来、樹木の精霊ドリヤードしか使えないのだが、人間の中には使える者がいるらしい。我が母は人間だ。きっと覚えてみせる。習得したら、君の身体中の傷を、必ず治そう」


 辛い記憶そのものを無くしたい。

 子供は驚いた顔をして、そしてぎこちなく口の端を上げる。

 きっと笑顔のつもりなのだろう。


 体の汚れも丁寧に落とし、一緒に風呂に浸かる。 初めは熱がっていたが、すぐ慣れた。

 窓から夕焼け空が見える。三つ並んだ三日月がゆっくりと上がっていくところだった。


 それからタオルでよく拭いて、我と同じサイズの服を着せたらブカブカだった。一昨年あたりの服を出してもらう。


「随分と無口だが、言葉は話せるのか?」


 子供は草木が揺れるような僅かな音だけを発し、悲しそうに目を伏せた。

 話せない……のか。


「魔法は何が使えるのだ」


 子供は首を振る。

 通常ならば、五歳あたりで得意魔法を覚えるはずだ。

 我も五歳の誕生日の朝にいきなり炎を出せるようになり、父を火傷させた。

 見たところ八歳か九歳といったところだが……虐待の影響だろうか。まあ、いずれ目覚めるであろう。


 夕食の時間。

 ズラリと並んだメイド達に脅えて背中に隠れるから、椅子を引いて座るように言ったが、どうも座らない。

 見本として先に座ると、膝に乗ってきた。

 違う、そうじゃない。

 メイド達がザワザワしている。

 子供の手を取りスプーンの使い方を教えていく。

 二人羽織でスープを飲ませるのは大変だ。だが、美味しかったらしい。すぐに自力で飲み始めた。

 ナイフとフォークは苦戦して泣きそうな顔をしたから、小さく切って口に運ぶと嬉しそうに食べた。


「レッド、あまり、見せつけないように」


 父が困ったように笑っている。

 そうだ、女の子に一目惚れした事になっているのだった。気分は育児なのだが。



 その後、子供を自室に案内する。興味深そうにキョロキョロしている。

 ソファに並んで座り、テーブルに辞書と紙とペンを用意した。


「君の名前は?」


 首を振る。予想はしていたがやはり無いらしい。

 辞書を開いて数字のページをめくる。


「ならば決めよう。長生きするように大きな数字はどうかな。いくつか読み上げるから、気に入ったら教えてくれ」


 子供はうなずく。


サウザンド百万ミリオン十億ビリオントリリオン……」


 子供は手を叩いた。


「トリリオン?」


 元気にうなずく。

 【trillion】と書いて見せれば、目が輝いている。

 名前をつけて、風呂に入れて、食事を与え……やはり、完全に育児だな。あとは寝かしつけかと思ったら、大あくびをしている。


 歯ブラシの使い方を教えていると、父がやってきた。


「もう眠るのか」


「はい。この子が眠そうにしてまして。

 名前はトリリオンにしました。トリィと呼んでやってください」


「それはいいが……まさか、ベッドを共にする気か。会ったその日にそれは早いのではないか」


「大丈夫です、父上。トリィは男の子でしたから」


 父はしばし固まって。


「違う問題が発生している気がするが……」


 頭を抱えながら去って行った。


 枕を並べて、電気を暗めにして、有名な絵本を読み聞かせる。


【金のニワトリとイタズラ王子】


 むかしむかし、ある魔界に、水色の髪と目をした歯がギザギザの王子様がいました。

 王子様は魔法の天才で、なんでも出来ました。

 王子様はイタズラばかりしていました。

 だからみんなとても困ってました。

 ある日、洞窟を探検していた王子様は、金のニワトリを発見して、その卵を盗みました。

 ニワトリは怒り狂い、王子様を小さな魔石に変えてしました。

 王子様はたくさん謝りましたが。

 盗まれた卵は割れてしまったので、ニワトリは絶対にゆるしませんでした。

 王子様は今でも魔界のどこかで、魔石になったままです。


【おしまい】


「この話には、大人が子供に伝えたいポイントがいくつもあるのだ。

 まず、盗んではいけない。基本だな。

 次に、悪いことをすれば必ず報いがある。必要だ。

 他にも天性の才能をひけらかして、他者に迷惑をかけてはいけない、なども──」


 隣を見ればトリィはスヤスヤと眠っている。

 育児オールコンプリート。我ながらよくやった。

 そういえば、母もこうやって本を読んでくれていた。暖かかったな。

 恋しくなり、叫びたくなった。

 グッと涙をこらえる。

 今は我がこの子の親代わり、しっかりしなければ。

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