第63話

 幾千もの青緑の竹が整然と立ち並び、スッとまっすぐ天を目指して生えている。枝葉の隙間から射し込む木漏れ日が、まるでスポットライトのように地面を照らしていた。自然のまま、自分の思うままに生きている――そう言うが如く、その凛とたたずむ姿に迷いや不安は一切感じられない。非の打ちどころのないその美しい姿は、いさぎよいという言葉がよく似合う。

 風が吹くたびに竹はまるで水面みなもが波立つように大きく、時折小さく揺れ、さわさわと竹の葉のさざめきが辺りに響き渡る。

 夏目から聞いた話では、傘を差して歩けるくらいの間隔で竹が生えているのが理想の竹林の姿なのだそうだ。だとすれば、この竹林は理想の姿に近いと言っていいだろう。これまで気にも止めなかったが、定期的に手入れされているのかもしれない。

 その竹林の脇の緩やかな細い道に、俺たちは馨と向かい合っていた。

「――あなたも、彼にささやかれたひとりだったんですね」

 馨は無表情のまま何も答えない。さわさわと竹の葉のさざめきが俺たちを取り囲むように響き渡る。

「あなたの望み通り、あなたの周りには誰もいなくなりましたよ」

 馨はなんの反応も見せない。ただ、身動きひとつせず竹を見上げている。俺の言葉は彼女に届いていないのかもしれない。

「あなたにとって、美奈さんたちはどういう存在だったのですか?」

 馨は答えない。俺はなおも問いかける。

「では、あなたにとって田上さんは――どういう存在だったのですか?」

 田上の名に馨の目許がピクリと動いた。馨は俺を一瞥いちべつすると、「――私は十八の時、十五も年上の佐伯と結婚させられました。佐伯との生活に愛なんてなかった。息子もそう。父親に似て、手癖てくせが悪くて散々迷惑をかけられたわ」と吐き捨てるように言った。

 ここでも彼女は思い通りにならないことを他人のせいにする。

 美奈の家の前にたたずむ馨を偶然見つけた時、そのさびしげな背中から、これまでの自分の行為を彼女は悔いているのかもしれない。そう思った。けれど、俺の思い違いだったようだ。

「あなたは、ご主人を愛そうとなさったのですか?」

 馨は苦々にがにがしげに顔をゆがめ、「あなた方に私の気持ちは解らないわ」

「自分の思い通りにする為に平気で他人を傷つけるあなたの気持ちなんて、解りたいとも思いません」

「すべて私が悪いというの?」

 馨が責めるように俺を睨んだ。何も答えない俺に、馨は逃げるように目をそむけた。

「……あの人は、なんと言っていたのですか?」

 馨がつぶやくように言った。

 バッグを持つ馨の手が小刻みに震えている。田上本人から聞いてはいないようだ。不起訴処分ふきそしょぶんになった馨は、その日のうちに田上との契約を解除したと聞いている。

「彼女が望んでいたことを答えたまでです、と」

 俺は、田上から聞いた言葉をそのまま伝えた。

「――そうですか。では、仕方のないことなのでしょうね。これは、私が望んだことですから」

 力なく言う馨に俺は、「本当に、これがあなたの望んだ世界ですか?」と尋ねた。

「ええ」

「では、何故泣いているのですか?」

 幾筋いくすじもの涙が馨の頬を流れ落ちていた。馨はその涙をぬぐうこともせずさみしげに目を伏せると、「さあ。独りになってしまったから、では虫が良過ぎますね」と答えた。

「あなたは本当は何を望んでいたのですか?」

 こんな結末を望んでいた訳ではなかったはずだ。

「……あの人。あの人だけそばにいてくれればそれでよかった。あの人以外、私には必要なかった。名古屋に戻ってきた時は嬉しくて……やっと、誰にも邪魔されずに一緒にいられると……思っていたのに」

 ずっと愛していた。結婚する前から、そして結婚したあとも。そう馨は続けた。

 大粒の涙を流しながらも、これ以上の醜態しゅうたいをさらすまいと唇を固く結び、背筋を伸ばして凛と構える馨。その姿に、彼女の心の強さを見た気がした。

 きっと、今もその気持ちは変わらないのだろう。だから、彼女は田上から離れた。彼は馨の気持ちを知っていたのだろうか。知っていて――

「竹の花……」

 馨が弱々しい声でつぶやいた。

「竹、の花ですか?」

 竹に花など咲くのか。俺は田村と顔を見合わせ、馨の視線の先に目を向ける。確かに小さな白い花がぶら下がるように咲いていた。

「竹のいさぎよい姿に憧れた。自分もあんな風に生きることができたら、と。――花が咲いた竹は、花が散れば枯れてしまう。一生に一度だけ咲く花。けれど私は、その花すらも咲かすことができなかった」馨は辛そうに顔をゆがめ、小さな白い花から視線をらした。「……桜にあこがれればよかった。毎年必ず花を咲かせ、大勢の人に愛される桜に。そうすれば、私の人生は違っていたのかもしれない。……もう、よろしいでしょうか」

 俺たちが答えるのを待たずに、馨は背を向けて歩き出した。

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