第60話

「この社会の秩序ちつじょ維持いじしているのは何か、もちろんあなた方はご存じですね?」

 俺は身構みがまえながら、「あなたが専門とする法律です」と答えた。

「その法律もまた、不完全なものなんですよ」

「確かに時代のニーズに合わせた法整備ほうせいびは必要だと思いますが、弁護士という立場であるあなたが、堂々とそれを口にするのは問題ではありませんか?」

「弁護士だからこそですよ。では、あなた方に身近な刑事司法けいじしほうを例に話をしましょうか。憲法三四条と刑訴法けいそほう三九条一項で、〈被告、又は容疑者が立会人たちあいにんなしに弁護士と接見せっけんし、書類や物の授受じゅじゅをすることができる〉と接見交通権せっけんこうつうけんが認められています。ですがその一方で、三九条二項では被告人の逃亡や証拠の隠滅いんめつなどにつながる物の授受じゅじゅを防ぐ為、〈必要な措置そち規定きていすることができる〉となっており、三九条三項では、〈捜査側による接見せっけんの日時指定を認める〉という憲法で認められている権利を刑訴法けいそほうで制限するという逆転現象ぎゃくてんげんしょうが起きている。他にも、憲法三八条三項で、〈唯一の証拠が本人の自白じはくである場合は有罪とされない〉とあります。しかし共犯者の自白じはくが唯一の証拠だった場合、被告は有罪とされるケースが多い。これは共犯者が嘘の自白じはくをして無実の人間を巻き込む冤罪えんざいの典型です。梅田事件、牟礼むれ事件、八海やかい事件、あなた方もご存じでしょう。自白じはくをしたその共犯者は三八条によって有罪とされないのに、否認ひにんしているにもかかわらず共犯者のその自白じはくによって有罪になる被告がいるという矛盾むじゅん。憲法三一条で刑事裁判の原則でもある無罪の推定すいていを保証しているにもかかわらず被害者参加制度が導入され、憲法三六条で残虐ざんぎゃく刑罰けいばつを禁じているにもかかわらず死刑が存在する矛盾むじゅん」田上は静かな眼差まなざしで俺を見据みすえた。「私たちは、この脆弱ぜいじゃくで不安定な法の上で社会生活を送っているのですよ」

「それが……理由、ですか?」

 田上は「いいえ」とゆっくりと首を振る。

「私は司法の現状をお話しただけですよ」

「しかし、あなたはその司法の現状に不満があるのでしょう?」

「いいえ」

「でもあなたは」

「弁護士ですよ。だからなんです? これも社会を機能させる為の不具合のひとつにすぎません」

「馬鹿な!」俺は思わず叫んだ。「あんた、どうかしてるよ!」

「望月」

 興奮こうふんする俺を田村が制した。

「ふふ」田上が含み笑いをする。「失礼。前にも同じセリフを言われたことがあるので、つい。――ひとつ、私の質問に答えていただけますか? あなたの〈正義〉を教えて下さい」

「田上さん。私たちはあなたと哲学の議論をする為にここに来た訳ではありません」

 田村が口をはさんだ。

「これは失礼。ですが、あなた方は私と雑談をする為にここに来たのでしょう? それに、私もあなた方と正義論を展開する気はありません。――難しく考える必要はないでしょう。あなた方がここに来た理由を聞いているだけですよ」

 田村は無言のまま、作り物の笑顔を浮かべている田上を見据える。

 俺たちは完全に田上の掌の上で踊らされている。一瞬、結城の姿が頭に浮かんだ。それを振り払うかのように俺はきつく目を閉じ、ゆっくりと息を吐いて呼吸を整えてから口を開く。

「明かりのともった家です」

 田上は怪訝けげんな顔をする。ここに来て初めて、彼が作り物の笑顔をがした。

「意味が解りません」

「見たことありませんか?」

「もちろんありますよ。それが、なんだと言うのですか?」

「俺、駄目なんです。あれを見ると、早く家に帰りたくてしょうがなくなるんです。うちは両親共働きなので、家に帰っても明かりはともってないんですけどね。俺の中では、明かりのともった家は幸福の象徴なのかもしれません」

「そうとは限らないでしょう。その家の中で、虐待ぎゃくたいが行われているかもしれません。今まさに自殺を図ろうとしている瞬間かもしれないですよ?」

「そうですね。確かに、明かりのともったすべての家が幸福な訳ではないかもしれません。それでも俺には、やっぱり幸福の象徴なんです。家族団欒かぞくだんらんの姿が目に浮かぶっていうか、いいなってうらやましくなるんです」

「面白いですね」田上は小さくうなずき、「ですが、真っ暗な家に帰りたくなるというあなたの衝動しょうどうが少し気になります。それはつまり、明かりのともった家から離れたいという心情のあらわれではないですか? 気づかないようにしているだけで、本当は幸福な家庭をあなたはねたんでいるのかもしれませんよ」

 俺は最終電車に乗って家路いえじに向かう、あのそわそわとしたなんとも落ち着かない気持ちを思い起こす。

「いえ、一番落ち着く場所、安心できる家に自分も早く帰らなきゃって気持ちがくんだと思います」

「では、あなたよりも仕事を優先させる両親をうらめしく思ったことはないですか?」

「小さい頃は、誰もいない家に帰ることをさみしく思ったこともあります。けれど、自分が不幸だと思ったことも不憫ふびんだと思ったこともありません。両親が共に教育者だったこともあり厳しく育てられましたが、その中に俺への愛情を感じてましたから。それに俺には俺の、両親には両親の人生があり、家族だからといってそれを制限する権利はないと思っています。家が真っ暗なら逆に明かりをともして家族を迎えればいいやって。根が単純なんです、俺。――幸福の象徴を守ること。それが、俺の〈正義〉です」

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