第48話

「やぁ」

 軽く片手を上げると、ドアから顔を覗かせた水島は小さく会釈した。突然の若林の訪問に驚いた様子もない。自分がここに来ることをある程度予想していたのだろう。

「今からドライブに行かない?」

 唐突とうとつな若林の誘いに水島は戸惑いの表情を浮かべた。

「あの」

「じゃあ、行こうか。あ、戸締りはちゃんとしてね」

 困惑する水島を部屋から強引に連れ出し、車に押し込んだ。何か言いたげな水島に「連れていきたい場所があるんだ」とだけ言い、若林は愛車ビートルを発進させた。

 静まり返る桜花台おうかだい。明かりの灯った家の中では家族が団欒だんらんのひと時を送っているのだろうか。温かな明かりが漏れ出る家々が車窓を流れていく中、若林は家族団欒かぞくだんらんを夢見る女性のことを思い出し、ステアリングをきつく握り締めた。  

 車は竹林脇の細い県道を走り抜ける。美奈の家の前に差しかかると、水島が窓の外に視線を向けた。

「ここじゃないよ」

 若林は短く言う。車はそのまま美奈の家を通り過ぎ、隣接する東郷町とうごうちょうへと入っていく。落ち着かない様子で窓の外を見ていた水島が、「どこへ行くんですか?」と訊いてきた。

「それは、着いてからのお楽しみ」

「連れていきたい場所って、何かあるんですか?」

「それも、着いてからのお楽しみ」

「……怒ってますか?」

 たまりかねたように水島が言った。

「何を?」

「……今日のことです。若林さんに何度も注意されたのに勝手なことしたから。望月さんから聞いて、僕のところに来たんですよね?」

「君には怒ってないよ」

 若林は前を向いたまま答えた。視界の端に何か言いたげな水島の顔が見えたが、気付かないフリをした。

 車窓の外には夜の闇に包まれた田圃たんぼが広がり、街灯の明かりで照らされた道がひたすらまっすぐ伸びている。その先の空には、ひと際明るい星が輝いていた。

 しばらく車を走らせた若林はスピードを落とし、ゆっくりと車を路肩ろかたに止める。水島は自分が今どこにいるのかを確認するように辺りをゆっくりと見回した。

「降りよう。寒いけど、少し我慢してくれるかな」

 車から降りると、突き刺さるような夜気やきが一瞬にして体から熱を奪っていった。コートの襟を立て、不安げな水島とともに目の前に静かに口を開いている高架下のトンネルへと入っていく。

 トンネル内に二人の足音が反響はんきょうする。壁一面に広がるアートとは言い難い落書きの数々には目もくれず若林は奥へと進んでいき、トンネルの中央辺り、花が供えられた一角で足を止めた。落書きに圧倒されていた水島が若林の許に駆け寄る。

「ここ、ですか?」

 若林は答えず、その場にしゃがみ込むと手を合わせて黙祷もくとうする。そして静かに目を開け、語り始めた。

「俺が刑事になったばかりの頃、市内の大学に通う女性が殺害される事件が起こった。当時、通り魔による連続殺傷事件が同時期に起こっていてね、彼女は四人目の被害者だった」

「ここで……」

 水島は沈痛ちんつう面持おももちで花の供えられている場所を見つめた。

「数ヵ月経っても警察は犯人を特定することができず、事件の報道も次第に少なくなっていった。事件の風化を恐れた父親は、仕事も辞め、毎日のように街頭に立ってビラを配った。娘の為にと貯めていたお金で懸賞金をかけ、情報提供もつのった。ビラを受け取ろうとしない人間も多い。無神経な言葉を投げかける人間もいる。それでも彼は事件に関する情報提供を呼びかけ続けた。けれど犯人は捕まらなかった。――すると彼は、独自で犯人を探し始めた。犯人をおびき出す為に、犯人を中傷ちゅうしょうするビラを街中にばらいたんだ。危険だからと何度もその当時組んでいた先輩と説得したが、犯人を逮捕できずにいた警察に不信感を持っていた彼は聞き入れようとしなかった。そして、ここで犯人に襲われた。……この花はね、娘さんとご主人を失った夫人が毎日供えているものなんだ」

「そ、れで犯人は?」

「彼が殺されてから五日後、逮捕されたよ。――あの時、俺たちが彼を止めてさえいれば新たな被害者を生み出すことはなかった。恨まれようが、ののしられようが、止めるべきだったと今でも後悔している。だから、俺はもう二度と同じ過ちは繰り返さないと誓い、これまで刑事を続けてきた」

 トンネル内に風が流れ込む。まるで誰かがいているようだ。独り残された夫人の慟哭どうこくのようだ、と若林は思った。

 黙って話を聞いていた水島が、「その人と僕は違います」と低く呟いた。

「同じさ。同じ悲しみを抱えている」

「違う……僕は自分のことしか考えていない。姉さんへのつぐないの為に、自分が楽になりたいが為に……犯人を」

 水島はその場に泣き崩れた。

「彼女の死は君のせいじゃない。君にはどうすることもできなかった。だから、自分を責めるのはやめなさい」

「でも僕は姉を見殺しにして逃げたんです。家族なのに……」

「認めたくなくても、その事実を受け入れるしかないんだ。どんなに自分を責めてもその事実は変わらない。けれど君が本当に彼女のことを想っているのなら、自分を責めるのではなく、彼女の為に泣いてあげなさい。彼女が君のお母さんの為に泣いてくれたように」

「ああ……姉、さん」

 水島は両手で顔を覆い、嗚咽おえつを漏らす。今まで耐えていた感情が一気に溢れ出てきたのか、それはやがて慟哭どうこくに変わった。

「……その父親も、自宅から十数メートルのところで殺された娘さんを助けることができなかった自分を責め続けた。そして、命をかけて犯人を捕まえようとした」若林は供えられた名も知らない黄色の花を見つめる。「悪夢の中を彷徨さまよっているようだ、と独り残された夫人が俺に言ったことがあった。夢の中でだけ娘さんとご主人がいる当たり前の日常を送ることができる、と。――君に何かあれば、悲しむ人がいることを君は知るべきだ。もっと自分を大事にしなさい。それは、君を大切に想っている人を守ることでもあるんだよ」

「……僕には、もう」

 しゃくり上げながら水島は首を振る。

「君と同じように、美奈さんを家族のように大切に想っている人たちがいるんだ。美奈さんはその人たちに君のことを話していたそうだ。大切な家族でいつか会わせたい、と。彼らが君に会いたがっている。美奈さんの話を君としたいそうだ。そして一緒に乗り越えたいと言っている」

「……一緒、に」

「そう。君は独りじゃない」

 涙に濡れた顔で放心したように若林を見つめていた水島は、顔をぐしゃぐしゃにして再び声を上げて泣いた。

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