第47話

 黒いポロシャツに白いチノパンツ姿の香川は若林たちの向かいのソファに座り、静かに微笑んでいる。その隣には、上質な黒いワンピースを品良く着こなした夫人の結子ゆいこが、表情もなく意気消沈いきしょうちんとした様子で座っている。写真の中で幸せそうに微笑んでいた彼女とはまるで別人のようだ。

 若林は香川と結子を交互に見てから、「奥さまの体調はもうよろしいのですか?」と尋ねた。

 もともと色白なのだろうが里見の向かいに座る結子の顔は青白く、血色があまりよくない。まだ体調が完全に回復していないように見えた。だが結子は小さく頷き、ほんの少し微笑を浮かべた。

「先日は失礼しました。もう大丈夫です。亡くなられた美奈さんのことを考えると、せってばかりもいられませんので」

 切れ長の目に涙をうっすらと浮かべながら結子は若林に言った。香川は結子の肩にそっと手を置き、彼女をいたわった。

「では、いくつか質問をさせていただきます。あなたもご主人同様、亡くなられた佐伯美奈さんのファンだったと先日伺いました」

 結子は「ええ」と小さく頷き、「美奈さんのピアノは、それはもう素晴らしいんですよ。彼女自身、気立きだての優しい素敵な女性で私たちすぐに彼女のファンになったんです」と細長い綺麗な指で涙をぬぐいながら言った。

「よく演奏会にも行かれていたのですか?」

「ええ。主人なんて、空いた時間があれば一人でも美奈さんのピアノを聴きに行っていたほどです。彼女のピアノを聴くと疲れた体が癒されるって。ねぇ、あなた」

 結子は隣の香川に声をかけると彼は淋しげな笑みを浮かべ、「彼女のピアノは人を幸せな気持ちにさせるからな」としみじみと答えた。

「そうね、本当にその通りだわ」

 涙声でそう言うと、結子は香川に微笑みかけた。

「では、あなたから見て佐伯馨さんはどのような方でしたか?」

 若林の質問に、それまで穏やかに話していた結子が嫌悪をあらわにする。馨に対して同情とも憐憫れんびんともとれる発言をした香川とは対照的だった。

「あの方は、人ではありません」

「それは、どういう意味ですか?」

「彼女は人の感情を持ち合わせていないんです。あの人のせいで、主人は」

「やめないか」

 香川が割って入った。不満げに香川を見つめる結子に「いいんだ」と香川はさとすように彼女の肩にそっと手を置いた。

「あなたは!」結子は怒りに声を震わせながら、「あなたはいいかもしれない! でも私は……許せないのよっ」

 そのまま結子は口許を押さえながら嗚咽おえつを漏らした。

 二人の様子を黙ってうかがっていた若林は、「香川さん、先日あなたは佐伯さんと衝突しょうとつをしたことがあると仰いました。彼女に意見をしたと。それは、美奈さんが原因ですね? あなたと佐伯さんが、美奈さんのことで激しく口論しているのを目撃した人がいました。それに佐伯さん本人からの証言もあります」と切り出した。

 香川は「ええ」と頷き、「彼女にとって美奈さんはただの所有物でしかなかった。……我慢できなかったんです。――ですが、私の言葉は彼女には届かなかった」そう言うと、込み上げてくる何かをこらえるようにきつく目を閉じた。

 香川だけではない。美奈の言葉も、水島の言葉も、美和や水谷千代子の言葉も馨には届かなかった。もちろん、自分の言葉も――。

 若林は気持ちを切り替えるべく小さく深呼吸をすると、質問を再開する。

「実は、美奈さんに交際していた男性がいたことが判りました」

「美奈さんに?」

「恋人?」

 香川と結子が同時に声を発した。

 若林は頷き、「その男性が容疑者である可能性があります」と続けた。

「そ、んな……」

 両手で口許を覆ったまま倒れかかる結子を、慌てて香川が抱き留めた。

「大丈夫か? 上で休んだ方がいい」

 心配する香川に「平気。ここにいさせて」とひどく弱々しい声ではあったが結子はこの場から離れるのを拒んだ。そして香川の腕にしがみついたまま、「……本当、なんですか? 美奈さんが……恋人に殺されたというのは」と若林に尋ねた。

「まだ断定はできませんが有力容疑者であるのは確かです」

「酷すぎる……」

 泣き崩れる結子を香川は強く抱きしめた。

「――香川さん。あなたは美奈さんと二人で何度か食事をC’EST LA VIEセラヴィでされていますね?」

 おもむろに若林がそう切り出すと、香川は目を見張り、若林と里見を交互に見た。自分たちがここに来た本当の理由を理解した彼は悲しそうに顔を歪めた。

「……あなた方は、私を疑っているのか」

 香川の言葉に、結子は驚いたように顔を上げると若林たちに顔を向けた。

「答えていただけますか? あなたと美奈さんの関係を」

「誤解です! 刑事さん、その店なら私も美奈さんと何度か食事をしています! 調べて下されば判ります!」

 テーブルから身を乗り出さんばかりに必死に訴える結子に、若林は無言のまま頷いた。

 もちろん調べは済んでいる。香川だけでなく彼女も有力容疑者の一人なのだから。なおも何か言いかけようとする結子を、香川は「大丈夫だ」と制した。そして若林をまっすぐ見据える。

「確かに、美奈さんと何度か食事に行きました。ですが、決してあなた方が想像しているような関係ではありません」香川は苦しげな表情を浮かべ、「美奈さんは……あの子は、子供のいない私たちにとって実の娘のような存在でした」

 若林はスッと目を細くする。

「だから許せなかったんです、私も主人も」結子が口を挟む。「あんなにいい子なのに佐伯さんは美奈さんを見ようともしなかった。挙句、彼女はそのことで意見した主人から生き甲斐だった仕事を取り上げたんです!」

「そのことはいいんだ。もともと、退しりぞくつもりだったんだから」

 香川がわずかに語気を強め、結子をいさめた。

「解ってるわ! けど、私は他人の人生を踏みにじるあの人が許せない! 美奈さんだけでなく、あなたの人生まで……あの人にそんな権利はないはずよ! どれほど、あの子が苦しんだことか……彼女は、あの子を……殺し続けてきたのよ!」

 胸の内を吐き出すように結子は声を上げた。

「……結子」香川は右手で目許を覆い、嗚咽おえつを漏らした。「――何故だ。恋人なら、何故あの女から救おうとしなかった。何故っ……あの子を殺した!」

 怒りで声を震わせる香川の姿が、忘れることのできないある男の姿と重なって見え、若林は軽い眩暈めまいを覚えた。

「どうしてあの子ばかり……辛い目に遭わなくてはいけないんだ」

 むせび泣く香川の肩に結子は頭を寄せ、涙を流しながら何度も頷いた。そして彼女はローマ旅行の写真に目を向け、「ローマ、一緒に……行きたかったわね」と悔しそうに呟いた。

 それを聞いた里見がメモを取っていた手を止めた。

「お二人は、トレヴィの泉へ何枚のコインを投げ入れたのですか?」

 里見からの唐突とうとつな質問に結子は意表いひょうを突かれたようだったが、「一枚です。美奈さんを連れて三人でまたローマに来ようと、二人で投げました」と答えた。香川も涙をぬぐいながら頷く。

「そうですか。美奈さん、亡くなるまでの数日間、ローマ関連のサイトを頻繁に閲覧していました。――彼女も、同じ気持ちだったのかもしれませんね」

 里見の言葉に香川は声をつまらせ、「あの子が幸せになることが、私たちの願いでした。……お願いします。必ず、必ず犯人を捕まえて下さい」と若林たちに深々と頭を下げた。


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