第46話

 三月五日。事件発生から既に二十日が経過していた。

 黄昏たそがれが辺りを包み始めた頃、仕事を終えて家路を急ぐ人の姿がちらほらと目立ってきた。三月に入り、日が長くなってきたとはいえ、まだ肌寒い日が続いていた。皆、寒さをしのぐようにコートのポケットに手を入れ、俺たちの横を早足で通り過ぎていく。

 俺は車に乗り込むと、買ってきたばかりの缶コーヒーをひと口飲み、ホッと息をついた。

「随分、慎重に付き合ってたみたいだな」

「当たり前だ。でなければ、もっと早くの段階で判ったはずだからな」

 俺は口を尖らせ、「解ってるさ。ここは、いつものように『そうだな』くらいの返事でいいんだよ」と田村を睨んだ。

「そうだな」

「今じゃねぇよ。ったく、お前その性格の悪さどうにかしろよ」

 俺は缶コーヒーを飲み干すと窓の外に目を向けた。

 美奈の家に男の出入りがなかったか、ここ数日、周辺住人に聞き込みをしてきたが、水島や馨以外の人間が出入りしたという情報を得ることはできなかった。

 唯一、弁護士の田上が美奈の家から出てきたことがある、との目撃情報を槇田弥生から得られたが馨も一緒だったそうだ。目が合ったので礼儀として会釈をしたが馨に無視されたそうだ。そのことで二十分ほど弥生の愚痴を聞かされた。

 今回も彼女のペースに完全にはまっていた。刑事としての自信を失いかけていると自転車に乗った水島の姿が目に入った。今からバイトか、と思ったが、よく見ると自転車の前かごに懐中電灯が入っている。自転車のライトが点いているのを確認し、「田村」と隣の薄情者はくじょうもの――俺に弥生を押しつけて気配を消してやがった――に声をかけた。

 田村は答えるかわりに車を発進させる。

 水島の行先の検討はつく。前から思っていたが、彼は少々無鉄砲なところがあるようだ。もしかしたら、今日だけでなくここ数日ずっと通っているのかもしれない。

「……気持ちは解らなくもないけどな」

 数分と経たずして目的地に到着した。

 半月前に主を失った家は、黒々とした巨大な竹林を背負うようにひっそりとたたずんでいた。その家を取り囲むように張られた規制線が、風に揺れてブルブルと音を立てている。辺りを見回すと竹林の脇に隠すように自転車が一台止めてあった。水島のものだ。

「やっぱり」

 車から降り、水島の自転車の方へ向かいかけると「刑事さん」と背後から声がした。振り返ると、黒ずんだ建物の裏から懐中電灯を手にした水島が出てきた。

「どうしてここに」

「君こそ、ここで何をしていたんだ?」

 尋ね返すと水島はばつが悪そうに「別に、何も」と言葉を濁し、俺たちを避けるように視線をらした。もう一度、ここにいる理由を問いかけてみたが、水島は視線をらせたまま口を開こうとしない。

 どうも無鉄砲なだけでなく、頑固でもあるようだ。若林たちの苦労を身をって知った俺は、ここのところ馨に苦戦を強いられている若林たちに改めて同情する。馨は日を追う毎に態度を硬化させているようだった。

「水島くん、君は」

 若さんにあれほど勝手な行動はするなと言われたじゃないか、そう言おうとした時、「半月も経っているのに……犯人は捕まらないじゃないですか!」今までかたくなに口を閉ざしていた水島が、声を絞り出すように叫んだ。

「じっとなんて……していられない」

 俺は言いかけた言葉を呑み込む。代わりに田村が、スッと水島の前に歩み出た。田村の威圧的な眼差まなざし――本人は普通にしているだけなのだが――にひるんだ水島は一歩後ずさる。

「関係者が勝手な行動をすれば、捜査に支障をきたす恐れがあることを君は理解するべきだ」

 田村が厳しい口調で言い放った。

「そんな、つもりじゃ……僕はただ」

「君が危険な行為をすることを亡くなった佐伯さんは望んではいないはずだ」

「でも僕は……赦せないんです」

 田村は無表情のまま水島を見据え、「犯人が? それとも、自分自身を?」と尋ねた。

 水島は大きく目を見開き、小さな悲鳴を上げた。そして苦しそうに顔を歪め、一歩、二歩と後ずさる。

「……違う」

「逃げたことに対する彼女への贖罪しょくざいのつもりなら、考え直すことだ」

「違う! そんなんじゃないっ!」

 水島が叫んだ。

「自分を責める必要はない」

「違うっ!」

 追いつめられた水島は身をひるがえし、逃げるように自転車に飛び乗ると竹林のトンネルの先にある闇の中へと消えていった。

 俺は顔をしかめながら、「どうして追いつめるようなことを言うんだ」

 あれでは、水島が〈自分の為に〉犯人を捕まえようとしていると言っているようなものだ。田村を睨みつけると彼は意にも介していない様子で、「本当のことを言ったまでだ」と答えた。

「だったら、もう少し言葉を選べ。お前の言おうとしていたこと、彼には伝わってなかったぞ。それに、お前に言われるまでもなく水島だって十分解っているさ」

「事実を受け入れればいいだけの話だ。美奈は既に死んでいた。自分を責める必要はないはずだ」

「水島にとっての事実は、傷ついた美奈を見殺しにして逃げたことだ。容易に受け入れられるものじゃない。あー、そうだなぁ。例えばさ、俺の目の前でいきなりお前が刺されて死んだとするだろ? そしたら俺は、止めることができなかった自分を責めると思う。それが俺には防ぎようのないことだったとしても、だ。お前はどうだ? 簡単に受け入れることができるか?」

「……勝手に人を殺すな」

「例えばの話だよ」

 田村は視線をらせ、「さぁな、受け入れるかもな」と言った。

「ひでぇ奴」俺は苦笑いを浮かべる。「けど、若さんの言う通りだったな。……まずいな」

「あれはまたやるぞ」

「多分な。あとで、若さんに報告しておこう」

 急に強い風が吹き、巨大な竹林が一斉にざわざわと騒ぎ出した。まるで、何か良くないことが起こる前兆であるかのように。

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