第44話
「こんばんは」
マスターに声をかけ、いつものカウンター席に座る。彼は穏やかな笑顔で俺たちを迎えると酒の準備を始めた。
店内に静かに流れるジョン・コルトレーンの、
コルトレーン・カルテットの最後のアルバムで、彼の精神性が最も色濃く反映されている作品である。承認、決意、追求、賛美の四つのパートからなる組曲の構成をとっており、モダン・ジャズの中でも異色を放っている。
以前、マスターにこのA Love Supremeもお気に入りのひとつなのかと尋ねたことがある。
当時の時代背景も影響しているからか妙に圧迫感があり、宗教性の色濃いこのA Love Supremeには、越えることのできない高い壁があるようで近寄り難いものがあった。信仰心のない俺にはジョン・コルトレーンが『神への小さな
だからマスターがどんな風にこのA Love Supremeを聴いているのか気になったのだ。けれど、彼は肯定も否定もすることなくただ微笑むだけだった。
「こんな展開になるなんてな」
俺は目の前に置かれたジントニックの入ったグラスを見つめながら呟いた。
美奈どころか、美和まで殺されている可能性が出てきた。しかも犯人は美奈の別れた恋人の可能性が高い。もし彼女たちが、幸せをもう一度取り戻そうとして殺されたのだとしたら、あまりに悲し過ぎる結末だ。
「香川という男が美奈の恋人だったんだろうか」
美奈とは随分と歳が離れているが、里見の話から香川という男は若林に似たタイプだということが推察できた。色男は歳をとってももてるということか。
「どうだろうな。それに、犯人がその香川本人とは限らない」
「ああ、夫人か。……でも不倫なんて美奈らしくない気がするけどな」
田村は答えず、グラスを口に運んだ。
世界の至るところで起こる戦争や人種差別に心を痛め、病魔に侵されながらも神を信じ続けたジョン・コルトレーン。
神の存在を信じることで彼は救われていたのだろうか。
もし、神が存在するとしたら――俺は絶望するだろう。何故こんな悲しみに満ちた世界を創ったのか、と。
A Love Supremeは、第一部の承認の終盤に差しかかっていた。ジョン・コルトレーンがまるで呪文のように唱え続ける。
A Love Supreme A Love Supreme A Love Supreme ……
「……思い出したことがあるんだ」
トレーンの
「大学で宗教学を専攻していた友達の話でさ。『何故、天使は存在するのか』って」
「神と呼ばれる幻想と同じさ」
田村は烏龍ハイのグラスを傾けながら素っ気なく答えた。
「お前らしいな」俺は苦笑し、「天使の記述は、旧約聖書ではミカエルとガブリエル、そしてカトリック正典のトビト書ではラファエルしか実は出てこないらしいんだが、これらの天使は、基は〈異教の神〉がユダヤ教に
グラスを傾けながら思わず溜め息を漏らす。嫌なことまで思い出した。
「ここにも連れてきたのか?」
「何が?」
「その彼女」
俺は顔を
「いや、ここに通い出す前に別れてる。それに、ここに女を連れて来る気はない」
「営業妨害もいいとこだな」
田村が苦笑する。
「お前を連れてきたからいいんだよ。ね、マスター。だから売上の貢献しろよな」
「はっ、よく言うよ」
「ふん」俺は鼻を鳴らし、「それでな、聖書にさ」
「まだ続くのか」
「続く。聖書にさ、『はじめに
「聖書ねぇ」
「ん? ああ、うちクリスチャンなんだ」
俺の言葉に田村が意外そうな顔をする。
「判りやすい反応だな。ちゃんと洗礼も受けてるんだぞ、これでも。まぁ、申し訳ないほど信仰心ないからエセ信者だけどな。この『ロゴス賛歌』の『
「だがロゴスは幾多もの
「詳しいな。確かにロゴスは、昔から多くの哲学者が言及し、世界を語る為に必要不可欠な意味をいくつも持ち合わせていくようになる。この『ロゴス賛歌』だって、その
俺は渇いた喉を潤すようにジントニックをひと息に飲み干した。カウンターにグラスを置くと、溶けかけた氷がカランと澄んだ音を鳴らした。
「その割には、口悪いな」
田村は頬杖をつきながら言った。
「うるさいな、お互い様だろ。……気をつけてはいるんだ、これでも」
悔しげに俺がそう言うと、田村が口の端をわずかに上げた。が、すぐに真顔に戻ると「お前の信じるロゴスではないが、
「随分とハイテク化してるじゃねぇか。しかも、導く先は地獄ときた」俺は吐き捨てるように言う。「画面の向こう側でほくそ笑みながら、人の人生を
相手を信頼させてから地獄に突き落とす。もう、悪魔の所業としか言いようがない。結城もMichaelと出会わなければ、もっと別の方法で家族と向き合うことができたはずだ。ベッドに横たわる結城の姿を思い出し、思わず唇を噛む。
「この事件を終わらせるのが先決だ」
田村はそう言うと、烏龍ハイを飲み干した。
「もちろんだ」
俺の脳裏に、美奈のあの嵐のような不協和音が蘇る。
【引用】
ヨハネ福音書 ロゴス賛歌
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