第42話

 入ってきたのは看護師ではなく結城の妻である理恵子だった。結城同様、やつれて顔に生気せいきがない。彼女も辛い思いをしているのだろう、と若林は同情する。

 理恵子とは、結城の忘れ物を届けに本部に来た時に一度挨拶を交わしていた。恐妻家として有名だった結城。快活かいかつな彼女を見て納得しつつも、照れ臭そうに忘れ物を受け取る結城を見て、若林は羨ましく思ったものだ。

「何かあったの? 外まで声が聞こえてきたけど……」

「お前には関係ない!」

 今さっきまで消沈しょうちんとしていた結城が突然、理恵子に向かって怒鳴った。いつも大人しい結城が怒鳴り声を上げたことに若林も里見も唖然あぜんとする。

「関係ないって」

 戸惑う理恵子を拒絶するように結城は顔を背け、もう話すことはないとでも言うように黙り込んだ。

 重たい空気が病室に流れる。と、その瞬間、ティッシュケースがベッドに向かって投げつけられた。

「いい加減にしなさいよっ! 関係ないって何よ! 私と隆也がどれだけ辛い思いしたと思ってるの?!」

 理恵子が声を震わせながら結城に怒鳴りつけた。さっきの結城の怒鳴り声よりも数倍迫力がある。結城の言葉に今まで蓄積されていた怒りが爆発し、冷蔵庫の上に置いてあったティッシュケースを投げつけたのだ。

 頭にティッシュケースが当たった結城は、痛みに顔を歪めながら理恵子の方に顔を向ける。若林と里見は思わず顔を見合わせた。……困ったことになったぞ。

「いつもいつも黙り込んで! 言いたいことがあるなら言いなさいよ!」

「う、るさいっ!」

 結城は理恵子の迫力に既に気圧けおされていた。怒りで頬を上気じょうきさせた彼女は、つかつかとベッドに歩み寄っていく。結城は顔を引きらせ、若林たちに目で助けを求めてきた。すると里見は、結城に向かって柔らかく微笑んだ。

「いい機会ですから、じっくり話し合ってみてはいかがですか?」

 鬼だ。

「そうよ。あなた、いつも逃げてばかりなんだからいい機会だわ。言いたいことがあるんでしょ? 黙ってないで言いなさいよ。時間はたっぷりあるわよ」

 理恵子は腰に手を当て、仁王立ちする。

 病室はこの瞬間、修羅場と化した。若林は居た堪れない気持ちになる。女はいつも議論をしたがるが、男は――特に結城の場合――言葉で表現をするのが苦手なのを解っていない。

「言ったって……無駄だ」

 結城が小声で答える。

「言わなきゃ解らないでしょ! あなた、いつも何も言わないじゃない。それで不満を抱えられてもこっちは迷惑なのよ!」

 結城は顔をらし、理恵子と距離を取るようにベッドの端の方に体をずらした。

 結城の抱える家族の問題。どうも彼のコミュニケーション不足も原因のひとつのように思える。

 水島とは違い、結城の場合はただ面倒なことから逃げているだけのように感じる。向き合うことから逃げ、自分の殻に閉じこもり、すべてを家族のせいだと押しつけている。これでは、あまりに家族が可哀想だ。

 だが心身ともに弱り切っている結城に、今ここで追いつめるようなことをして大丈夫だろうか。小動物のように震えている結城が可哀相になり、若林が仲裁に入ろうとしたその時、結城が声を上げた。

「お前に……俺の苦労が解る訳ないっ」

 理恵子が眉間みけんに皺を寄せ、「言わなきゃ解る訳ないでしょ? それに、あなただって私がどれだけ苦労しているか解らないでしょ?!」と厳しい口調で畳みかけた。

「お前なんて、何もしてないじゃないかっ」

 結城の不用意な言葉に理恵子の表情が一層険しくなる。

「よく、そんなことが言えるわね!」

「本当のことだろ! 少ない小遣いで俺がやり繰りしているのに、お前は主婦連中と呑気にランチに行ったりしてるじゃないか! テレビ見ながらゴロゴロして、隆也の帰りが遅くなっても心配もしてないじゃないか! そのお前にいったいどんな苦労があるっていうんだ?!」

 理恵子への不満が噴出したのか、せきを切ったように結城がまくし立てた。

「隆也が塾にいつ行っているかさえ知らないのに勝手なこと言わないで!」負けじと理恵子が声を張り上げた。「塾へは、何台も車で行くとご近所に迷惑かかるから他のお母さん方と相談して日替わりで迎えに行くことになってるのよ! あの日は、田代さんが隆也たちを送ってきてくれることになってたの! 安いランチのお店を探して皆で息抜きすることの何が悪いのよ! しかも一、二ヵ月に一回のことじゃない! あなた月に何回、佐竹さんと飲んで帰ってきてるか解ってんの?! 帰りが遅くなるなら連絡くらい入れなさいよ!」

 いきなり始まった夫婦喧嘩。内容が内容なだけに仲裁に入ることもできず、若林はあまりの居心地の悪さに思わず病室から逃げ出したくなった。どっちでもいいから自分たちの存在に気づいてくれないだろうか。しかし、そんな若林の願いとは裏腹にますます夫婦喧嘩はヒートアップしていった。

「仕事してるんだから飲んで帰るくらいいいだろ!」

「電話の一本くらい入れられるでしょ?!」

「うるせーな! 弁当も作らないくせにっ」

「何よ、急に! あなたが食堂の方が美味いって言ったのよ! ほんとムカつくわね!」

「働きもしないで文句ばっかり言うな!」

 その瞬間、理恵子がベッドの上に落ちていたティッシュケースを掴むと結城の顔めがけて振り上げた。反射的に結城が腕を上げかけ、激痛に顔を歪める。

「奥さん!」

 若林が振り上げた腕を掴むと、理恵子は悲しそうに唇を歪めた。

「あなたが家にいろって言ったのよ。隆也にもしものことがあるといけないからって。家のことは頼むって、あなたが……」

 理恵子は声を震わせながらそう言うと、若林の手を振りほどいて病室から出て行った。そのあとを里見が追う。残された結城は呆然ぼうぜんとしたまま、「……俺が?」と小さく呟くと、困惑した面持ちで理恵子が床に投げ捨てていったティッシュケースに視線を落とした。

 若林はそんな結城の様子を見つめながら、「結城さん、ひとつ訊いてもいいですか? ――どうして自殺しようとしたんですか?」と尋ねた。

 結城はゆっくりと顔を上げると、若林を見つめる。そして少しの沈黙のあと、「家族を、殺してしまう前に死のうと思ったんだ」と答えた。

「それは家族を想う気持ちとは違うんですか?」若林は結城を見据え、「結城さんが働いて家族を支えていたように、奥さんも家を守ることで家族を支えていたとは思えませんか?」

「……俺の存在理由は何だ。俺はなんの為にここにいる?」

 すがるように結城が訊いてきた。若林はわずかに目を細める。

 それは他人に訊くことではなく、自分で見出みいだすものだ。だが、今の結城にそれを言っても彼を失望させるだけか。――信じることが、できなくなっているのだから。

「心配してくれる奥さんと息子さんがいることが、結城さんの存在証明にはなりませんか? 今の奥さんを見れば、どれだけ結城さんのことを心配しているか俺でも判ります。結城さんだって本当は判っているんでしょう? それに、それを家族に求めるのならきちんと向き合わないと」

 結城は淋しそうに、「そうだな。俺は逃げてばかりだった」と呟いた。

「生意気なこと言ってすみません」

「いや、俺の方こそ迷惑かけた。すまんな」

「あとのことは俺たちに任せて、ゆっくり静養して下さい。ここには、たくさんの白衣の天使もいることですし」

 若林が笑いかけると、「天使はもうこりごりだ」と結城はうんざりしたように首を振った。

「もったいない。なかなかこんな機会ありませんよ。では、長居してすみませんでした。失礼します」

 病室を出てふと廊下の窓を見ると、窓の外では雪がものすごい勢いで吹き荒れていた。

「……最悪だ」

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