第41話

 あまりの寒さに目を覚ます。

 時計を確認すると五時を少し回っていた。もう少し寝ていたかったのに。嫌な予感を抱きつつカーテンを開けると、外は一面、白銀はくぎんの世界が広がっていた。

「うそだろ」若林は髪を掻き上げ、溜め息を漏らした。「人肌が恋しい」

 帰宅したのは明け方近くだった。その後、降り出したのだろうか。それにしてもタイミングが悪過ぎる。

 若林は壁に寄りかかり、天を仰いだ。

 こういう天気の日は外出を控える人が多く、聞き込み対象者が家にいる確率が高くなる。だが素直にそれを喜ぶことはできない。大体の人間が億劫おっくうがって話をしたがらないからだ。聞き込み自体、拒否する人も多い。人は天候に影響されやすいのだ。

 今日は最悪と言っていい。

「なんで降るかなぁ、雪」


「元気ないわね」

 助手席の里見が声をかけてきた。

「そうか? なら、この天気のせいかな」

 信号待ちをする中、何気なく隣の車を見ると営業らしき男がげんなりした顔でステアリングを握っている。自分もあんな顔をしていたのだろうか。無邪気に雪で喜べるのは子供くらいなものだ。

「それより昨日どうだった? 猪又と田村が一緒だったんだろ?」

 里見の方に視線をちらりと向け、尋ねる。

 あのメンバーで――しかも夏目までいるじゃないか――何もなかった訳はあるまい。まぁ、一番苦労したのは修平だろうけど。

「楽しかったわよ。色々な意見があって」里見が含みを込めた笑顔を向ける。「この事件が解決したら、望月くんたちMichaelの書き込みをすべて拾い出すそうよ。よっぽど気になるみたいね」

 若林は生返事をしながら、「里見はどう思ってるんだ?」と尋ねてみた。

「あら、若林くんはどうなの?」

 里見が訊き返す。まずは自分の意見を言えということか。

「信じろと言われても難しいだろ。ネット上の掲示板ではよくある言葉のやり取りだ。それに、もし悪意を持って書き込んでいたとしても思いどおりに相手が解釈するかどうか判らない。そんなことをしてなんの意味があるというんだ?」

「それだけ自信があるのかもしれないし、あとは受け手任せっていう半ばゲーム感覚で遊んでいるのかもしれないわ」

「おいおい。まさか信じてるのか? こんな話を」

 呆れながら若林が言うと、里見は肩をすくめてみせた。

「私には判らないわ。でも結城さんはそれが原因で入院してしまったのは事実でしょ?」

「結城さん、か」

「他の人もそう。警部はああ言っていたけれど本当にそうかしら? Michaelがどれほどの書き込みをしているのか判らないけれど、かなりの確率でコメントをつけた人間が犯罪を起こしているように思えるわ」里見は表情を曇らせ腕をさする。「まるで、そういう人間を選んでいるかのよう」

 若林はゆっくりとアクセルを踏み込み、「大体、ネット上に個人情報を載せることの危険性を利用者ももっと理解しないと。便利で自分を表現するにはもってこいの場かもしれないが、現行法の枠組みでは対処できない問題を多く抱えているのも事実なんだから」と嘆息たんそくした。

「〈自由〉は一定の前提条件の上で成立しているもので、無条件的な〈絶対の自由〉なんてありはしないのにね」

「……今日、時間ができたら行ってみないか? 見舞いに」

「そうね。――それにしてもこの雪、止みそうもないわね」

 里見が車窓から空を見上げ、舞い落ちる雪を見つめながら溜め息をついた。若林は「そうだな」と短く答え、次の聞き込み先へと車を走らせる。


 昭和区にある付属病院の一室。

 若林と里見はベッドに横たわる結城と対面していた。

「今度は君たちか。忙しいのにこんなところに来て大丈夫なのか?」

「ええ、今日の分の仕事は終わらせてきました。結城さん、お加減いかがですか?」

 予想通り、今日の聞き込みは散々だった。また明日仕切り直しをしなければならない。未だに降り続ける雪を病室の窓から恨めしげに見つめ、若林は小さく息をついた。

 結城は自嘲気味じちょうぎみに笑いながら、「この雪は傷に応えるよ。自業自得だけれど」

「大丈夫ですか? もし辛いようなら日を改めましょうか?」と里見。

「大丈夫。……独りでいると嫌なことばかり考えてしまってね。来てくれて嬉しいよ」そう言うと、結城は若林たちにぎこちなく笑いかけた。「家族のことじゃないよ。それはもう、いいんだ。気を使わせてしまってすまないね。――話を変えよう。君たちネットは? よく使うの? 忙しいからそれどころじゃないか」

 若林は、「人並程度には」と答える。里見も肯定するように頷いた。

「若林はマメだから色々なSNSを利用してそうだな」

「いえ、情報収集として気になるサイトを覗くくらいです。最近は忙しくてそれどころではないですけど」

「一課は忙しいもんな」

「時間は有限ですから。なので、時間があればデートに回したい、と」

「なるほど。君の覗くサイトは、それ関係か」

「市内の最新スポットとグルメ情報なら任せて下さい。県警一と自負してます」

 結城は「お前らしいな」と笑った。

 わずかだが結城の声に張りが出てきていた。表情も病室に入った時よりも幾分柔らかくなっている。今の結城には、個室で独りでいるよりも大部屋の方がいいのではないか。病院側に頼んでみてはどうか、と声をかけようとした時、「怖くない?」と結城がポツリと呟いた。

「え?」

「君たちは怖いと思ったことないか?」

 質問の意図が解らず返答にきゅうしていると、結城が天井を仰いだ。

「俺はね、ネットが怖い。おかしいだろ? 前に佐竹に言ったら鼻で笑われたよ。……でも怖い。うまく説明はできないけど、得体の知れない不安みたいなものが俺の中にあるんだ」

 結城の顔から表情が消え、天井の一点をじっと見つめている。

「得体の知れない不安、ですか?」

 若林が尋ねると、「ああ。……底なしの闇に引きずり込まれそうな」と結城が低い声で答えた。

 どうやら結城の抱えている悩みは家族のことだけではなさそうだ。これは根が深そうだ、と若林は隣の里見を見ると、彼女はじっと結城を見つめていた。

「だからあの日、俺はMichaelがあそこまで親身になってコメントを書き込む理由が無性に知りたくなった。もしかしたら、自分の中にあるこの不安が消せるんじゃないかと思ったんだ。……その結果、俺は今ここにいる」

 若林は絶句する。

「解ってるさ。ネットがそこまで悪意に満ちた世界でないことは。半分以上が健全な利用者であることも。俺もすべてを否定している訳じゃないんだ。けれど、毎日のようにネットの〈陰〉の部分を見てきた。憎悪、差別、さげすみ、誹謗中傷ひぼうちゅうしょう、溢れる人の悪意」結城の顔が恐怖に歪む。「君たちはなんとも思わないのか? 怖くはないか?! 俺は……怖い!」

 顔を引きらせて怯える結城を若林はあわれむように見つめる。

 今の結城は、人の悪意に触れ過ぎて正常な判断ができなくなっているようだ。繊細過ぎたのかもしれない。結城自身、それに気づかず限界を迎えてしまった。――誰にも気づかれることなく。

「結城さん」里見がスッと前に出て腰を落とし、包帯が巻かれた結城の右手にそっと手を置いた。「落ち着いてください。結城さんはちゃんと解っているはずですよ?」

「……な、にを?」

 戸惑う結城に里見は優しく微笑みかけ、「ネットの世界は、匿名という特性から現実の世界では出せない加虐性かぎゃくせいを出しやすく、その特性を過信して暴走してしまう人間も多くいます。――結城さんは、自分にもそういった〈闇〉の部分があるのではないかと不安に思ったのではないですか? そんな、自分の知らない〈自分〉を知るのが怖かったのではないですか?」

「自分が……怖い?」

「ええ。先程言いましたよね。『底なしの闇に引きずり込まれそうな、得体の知れない不安』と。ネットを利用し続けることによって自分が変貌へんぼうしてしまうかもしれないと無意識に不安に思っていたのではないですか?」

変貌へんぼう……」結城が呟いた。「そ、うかもしれない。俺は……ネットを利用して堕ちていった人間をたくさん見てきた。犯罪歴も非行歴もないような、ごく普通の人間が……。俺は、ネットが悪意を生み出していることを知っていた。……それなのに、それに気づかなかった。いや、意識的に避けていたのかもしれない。考えることから逃げていたんだ」

「違いますよ」里見がやんわりと否定する。「ネットで悪意が生まれるのではなく、悪意にネットが利用されていることを結城さんは解っていたはずですよ。……悪意に触れ過ぎて、その区別が判らなくなっていただけです」

 困惑したように里見を見つめる結城に彼女は、「ネットは道具に過ぎません」と言い切った。

「悪意に、ネットが……」

 結城の表情がわずかに変化した。そして安堵あんどしたように長く息をつくと、「そうか」と小さく呟いた。

「ええ。それを理解していれば、変貌へんぼうすることも堕ちることもありません」

 里見の言葉にわずかに結城の表情が強張った。

「望月くんたちが、Michaelの書き込みをすべて拾い出す作業をするそうですよ。もちろん、今の事件が解決してからの話なので時間はかかると思いますが」

 里見がそう言った途端、結城は充血した目をこれ以上ないくらい大きく見開き、怯えるように唇を震わせた。

「……だめだ、いけない! 深入りするなとあれほど言ったのに! 奴は、Michaelは」

 興奮しながら無理に起き上がろうとする結城の体を里見が慌てて抑え込んだ。半狂乱の結城にさすがの里見も狼狽うろたえている。

「結城さん、落ち着いて!」

 思いがけない結城の反応に若林も慌てて彼の体を抑え込む。痛みに顔を歪めながら、若林たちに望月たちを止めるように懇願こんがんする結城。若林も里見も結城の中にあるMichaelへの恐怖が、これほどのものとは思ってもみなかった。

 あまりの結城の錯乱さくらんぶりに若林がナースコールのボタンを押そうとした時、「やめてくれ!」と結城が悲鳴に近い声で叫んだ。若林は驚いて伸ばした手を止めると、大人しくなった結城が消え入りそうな声で、「誰も呼ばないでくれ、頼む。……取り乱してすまなかった」と謝った。

「結城さんが謝ることはないんですよ。私が」

 里見の言葉をさえぎるように結城は、「奴は悪魔だ。係わってはいけない。……話さなければよかった。話すべきじゃなかった。死ねば、よかったんだ」と呟いた。

 その双眸そうぼうは焦点が合っておらず、どこか遠くを見ているようで若林たちに話すというよりは自分に言い聞かせているように見えた。

 すると、入口のドアがノックされた。今の騒ぎで看護師が様子を見にきたのかもしれない。若林が返事をすると、ゆっくりとドアが開いた。



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