第40話

「今まで気軽にネットを利用していたけど、今考えるとちゃんとコミュニケーションが成立していたかどうか怪しいよな。文字という記号だけで表現するには限界がある。しかも相手がネット上だけの繋がりだった場合、さらに表現の難易度が高くなる。文字を交わせばその分だけ相互間に認識のズレが生じているはずだ。修正しきれないほどの細かなズレが」

 俺は甘いコーヒーを口に含む。

「日本語は複雑だものね。普通に会話をしていてもズレが生じることがあるのだから、文字だけなら尚更だわ」

「あたしには理解できないな」夏目は呆れ顔で、「いくら匿名だからって、どうして見ず知らずの人間が多数見ているネット上に自分をさらけ出すようなことを書き込むんだ? 行動パターンや書き込んだ些細ささいな情報を組み合わせれば個人を特定することは簡単にできるから、危険な目に合う可能性だって高くなるのにさ」

「――多分、自分の存在を確かめたいからじゃないかしら? 今は他人に無関心な人が多いから。自分はここに存在しているんだという証が欲しいのかもしれない。何不自由なく大切に育てられた今の若い子は特に。家族の中では自分が一番の存在だったのに、外に出てみると大勢の中のひとりという存在の自分に戸惑い、不安になる。カウンターの数字は彼らにとって自己の存在証明。だからそれを維持する為に、もっと自分をさらけ出すようなことを書き込んでいく」

「でもそれってさ、結局、自分のことしか考えてないってことだろ?」

 頬杖をつきながら夏目は里見に尋ねる。

「そう。自分のことで頭が一杯」里見は憂い顔になる。「だから他人に無関心になるのよ」

「ループじゃん」

「そうね、難しいわね」

「そういう人間は犯罪に巻き込まれやすいんだよな」

 猪又が大きく溜め息をついた。

「本当に。危険性を解っていないところが恐ろしいわね」

 俺は頷き、「個々人で気をつけるのも確かに大切だけど、現行法で対処できない問題は立法措置を講じて対応するべきたと思うよ。もちろん表現の自由、通信の秘密といった権利への配慮や言論統制の手段として利用されないよう考慮しなきゃいけないから時間はかかるだろうけど。まぁ、サーバーを海外に移転されたら手も足もでないんだけどな」とぬるくなったコーヒーを飲み干した。

「昨年末に、未成年者へのフィルタリングサービス原則加入とする方針を携帯事業者が共同でプレスリリースを出していたな」

 田村が言う。

「ああ。それに関してインターネット関連事業者がどう動くかだ。ネット企業にしてみれば〈有害情報〉という曖昧あいまいな定義によって負担が増えるのは避けたいって感じだろうけど、知識も持たない人間が簡単にネットを利用できる環境を作っておきながら何かトラブルが起こっても〈自己責任〉として放任するネット企業にも問題はあるからな」俺はネクタイを緩め、椅子の背にもたれ掛かる。「規制をするにも、さっきも言った表現の自由や通信の秘密があるから今は落としどころを模索もさくしている状態って感じか?」

「どうだろな」田村が答える。「まぁ、最低限の知識すら持つ努力もせずに権利だけを求めるのもどうかと思うけどな」

「人に与えられている権利だ。それを求めて何が悪いんだよ」

 猪又が反論する。隣に座る夏目が、ニヤリと笑った。悪趣味だな、お前。

「それはエゴだと言っているんだ。話の流れを理解していれば判ることだ」

 田村が突き放すように答えた。

 猪又が険しい表情で田村を睨みつけ、「お前のそういうところが気に食わねぇんだよ!」と声を荒げた。

「じゃあ、相手にしなければいい」

「お前もな」俺は田村をひと睨みしてから、「議論をするのはいいが口論するなら外に行け。迷惑だ」

「お前がコイツを連れてきたから悪いんだろーが!」

「口論させる為に田村を連れてきた訳じゃねぇよ。必要だったから連れてきたんだ。落ち着け、アホ」

「誰がアホだ!」

「お前だ。さっき話しただろーが。言葉の認識のズレがお前と田村の間にあるんだよ」

 言葉だけではないけれど。それは言うまい。面倒だから。

「ふんっ」猪又は顔を背け、「にしてもアホは言い過ぎだ。ボケ」

「誰が、ボケだ。口が悪いのはお互い様だろ」

「お前が一番、口が悪い」

 隣に座る田村が言った。うるさいよ。

「なんだよ、もう終わりか?」夏目がつまらなさそうに唇を尖らせた。「殴り合いのひとつでもすりゃいいのに。拳と拳で解り合うってよく言うだろ?」

 言わないよ。警察官がなんてこと言うんだ。

 すると静かに成り行きをうかがっていた里見が、「あっけなかったわね」と物足りなさそうに呟いた。

 俺はふと、ハムレットの『弱きものよ、汝の名は女なり』というセリフを思い出した。なんてことはない、女は強くたくましい。そして何より、したたかだ。女は男よりも弱い立場であるかのように見せているが、掌の上で踊らされているのはいつも俺たち男なのだ。

 目の前にいる二人の女性を交互に見ながら、俺は気づかれないように小さな溜め息をついた。

「……女って、解んねぇ」

 猪又が肩をすくめた。

「同感だ。あとで若さんにレクチャーしてもらおうな」

 俺の言葉に里見がくすりと笑った。

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