第38話

 容疑者逮捕に時間がかかれば、それに比例するように警察への風当たりが強くなる。当然のことではある。凶悪犯が野放しになっているのだ。次の犠牲者が出る可能性だってある。皆、不安なのだ。

 その中でも、不安で眠れぬ日々を過ごしている地元住人の警察への苛立ちは大きい。そしてその矛先ほこさきは捜査を行う捜査員へ向けられる。今日も何軒かの住人から苦言を言われた。本末転倒ではあるが、警察への不信感から捜査協力を拒否する住人も出てきていた。

 確かに警察は、公共の安全と秩序を維持する為に早急に容疑者逮捕に努めなければならない。だが、捜査一課が扱う殺人などの重大事件の場合、被害者は既に亡くなっていることが多く、被害者からの証言を得ることはできない。警察は限りある証拠を細かく調べ上げ、これまた限りある人員で毎日靴底をすり減らしながら、情報を集めるという地道な捜査を重ねて容疑者逮捕に奔走している。市民からの協力がなければ捜査は立ち行かないのだ。

 この仕事に誇りを持っているが、それでも時折、くじけそうになる夜がある。

「ハゲたらどうしよう」

 思わず呟くと助手席の田村に呆れられた。俺は咳払いをし、運転に集中する。どうも俺は考えがよく外に漏れるようだ。気をつけよう。

 捜査本部に戻るとまだ他の捜査員たちは戻っていないらしく、講堂内は静まり返っていた。デスク席にいる篠原の許へ報告に向かう。

「ご苦労だったな。コバさんから概要は聞いたがサッパリ意味が解らん。お前らから直接話が聞きたくて待ってたんだ。で、なんだ? その袋」

 篠原が俺の手許に視線を移した。目ざとい。藤堂に渡そうと思っていたのに席には篠原の他に笹島しかいなかった。陣内もいないなんて。どうしてこうもうまくいかないのか。

「あの、藤堂さんたちは?」

「まだ戻ってない。で、それなんだ?」

 子供のように袋から視線を外さない篠原に、さすがに笹島も呆れている。

「間宮警部から預かってきました」

「ふうん」篠原が袋を受け取り、中を覗き込む。「一本足りないぞ」

 俺は隣の田村をちらりと見ると、お前が言え、と田村は顎をしゃくった。お前は助け合いという言葉を知らないのか。

「間宮警部から、警部以外の人に渡すように言われてきました」

「あ、そ。笹やんの分は、なしってことな。残念だったな」

 アイツはひどい男だなぁ、とガサガサと袋から栄養ドリンクを一本取り出した。

「違います、篠原警部のことです」

 俺は慌てて栄養ドリンクを開けようとする篠原を止めた。

「なんだよ、笹やん以外にって今言っただろ?」

 そんなことひと言も言ってません、という言葉を呑み込み、「いえ。篠に渡すな、と間宮警部から言われました」

 篠原は鼻を鳴らし、「相変わらず小せぇ男だな。で、望月は俺の分を用意しようとは思わなかったのか?」と俺を睨んだ。

「はい。用意するな、とも言われたので」

 篠原が渋い顔をすると笹島が、「お前ら、くだらないことで部下に迷惑かけるなよ」と心底呆れるように言った。よく言ってくれた。

「うるせぇよ。迷惑なんかかけてないよなぁ、望月」

 睨みを利かせる篠原から俺は視線を外しながら適当に返事をする。そこに、ちょうどいいタイミングで陣内と藤堂が戻ってきた。部屋に入ってくるなり俺たちの姿に気づいた陣内が、「あれ、望月たちだ。早かったな」と声をかけてきた。

「はい。あの、間宮警部から差し入れを預かってきました」

「一本足りないんだよ。アイツ抜けてるよな」

 すかさず篠原が今までの会話をすべてなかったことにするかのような発言をする。

「どうせ篠さんの分は用意してないんだろ?」

 コートを脱ぎながら藤堂があっさりと返した。よくお解りで。けれど篠原はそれを無視して袋から栄養ドリンクを取り出し、机に並べていく。

「ここにいる奴から配っていこうぜ。早い者勝ちってことで」

「こら、篠さん」

 藤堂が篠原をたしなめる。

 間宮には迷惑かけるなと言われたが、俺は藤堂にすべてを託し、二人のやり取りを見守ることにする。……結城の報告をしようにも、栄養ドリンクの話が長引いて話すに話せない。間宮を恨めしく思った。

「あのな、藤さん」篠原が急に真顔になった。「今、子供を取り巻く社会で訳の解らない平等論が広まっているのを知っているか? 結果よりもその過程の努力を重視し、子供のやりたいことをやらせるべきだという親のエゴともいえるものだ。子供たちの運動会で競技の順位づけを控える学校が増えていたり、幼稚園の発表会でシンデレラが七人いたりするのもその平等論の一環らしい。でもそれっておかしいよな。目標もなく努力することほど虚しいことはない。先人せんじんたちは競い合うことで進歩し、発展してきた。それを否定することは、人類の進化を止めることに繋がるとは思わないか? 思うだろ? 思うよな。そして次に大切なのが〈運〉だ。これは人知じんちでどうこうできるものではない。そこで人は我慢することを覚え、自制心を鍛えることができるようになる。――だから俺は思うんだ。早い者順も有りだ、と」

「もともと篠さんの分は用意してなかったんだから競争も運も関係ないだろ。篠さんこそ我慢することを覚えたほうがいい」

 間を開けず藤堂が切り捨てた。

「よくもまぁ、そんな勝手なことが口をいて出てくるな、お前」

 笹島が呆れを通り越して感心している。陣内も苦笑いを浮かべ、二人のやり取りを静観していた。田村は何か他ごとを考えているようだ。まぁ、その気持ちも解る。

「じゃあ、年齢順」

 諦めない篠原。たかが栄養ドリンクで何故そこまで食い下がるのか。

 藤堂が大きく溜め息をつき、「俺のやるよ」と机に並べられた栄養ドリンクを一本手に取り篠原の前に置いた。

「あーあ、望月が気を利かせないから藤さんの分がなくなっちまったぞ」

 呆れ果てる俺に、元凶の篠原は悪びれもせず美味そうに栄養ドリンクを飲み干した。

 藤堂は篠原をたしなめるようにひと睨みし、「望月、気にしなくていい。それより結城は大丈夫なのか?」と話を振ってくれた。やっと報告をすることができる。

 俺は結城の様子を交えながら、小林たちに話した内容そのままを篠原たちに報告し始めた。ちなみに田村はその隣で腕を組んで俺の言葉に耳を傾けている。何故、そんなに偉そうなんだ。コイツは。

 担当した事件の容疑者の名前が佐竹の作ったリストにあったことから、笹島は身を乗り出すように俺の報告に耳を傾けていたが、話が進むにつれ陣内と共に難しい顔をしたまま何度も唸り声を上げた。二人は飯島の反応に似ている。藤堂に関してはよく判らない。ただ無表情のまま俺の報告をじっと聞いているだけだった。

 まず口を切ったのは篠原だった。

 さっきまでとは打って変わって真剣な表情の彼は、「穿うがった見方をすれば、お前らが言うような解釈もできるな」と言って椅子の背にもたれ掛かり、腕を組んだ。

「特に寺田は追いつめられていたから、自分の都合のいいように解釈をした可能性は十分考えられる。他の容疑者たちも書き込みを見る限り、寺田と同様に追いつめられていた様子が窺える。結城の場合はどんなやり取りをしていたか判らんが、奴にとって一番弱い部分を相談していたんだろ? そのMichaelとやらが背中を押したかのような錯覚に陥っただけじゃないのか? コイツのせいにすれば自分に失望しなくてすむからな」

 俺は返答にきゅうする。確かに結城自身も、操られているのかどうか判らなくなる、と言っていた。

「ですが……」

「今回は偶然Michaelが表に出てきたが、実際は他にもたくさんのMichaelみたいな奴がいるんじゃないか? コメントを書き込む奴は何もコイツだけじゃない。親切心から書き込んでいる人間は他にも大勢いる。その解釈は受け手次第だ。今回のようなことは十分起こり得る。しかし、それを責めることも罰することもできはしないぞ」

 俺は唇を噛んだ。そう言われてしまうと何も答えられない。たとえMichaelが悪意を持って書き込んでいたとしても、受け手次第で天使の囁きにも悪魔の囁きにもなり得る。

 言葉は諸刃の剣――田村の言葉が脳裏に浮かんだ。ネット上に溢れる文字こそ、その危険性が高いのではないか。

 俺が口を開きかけた時、続々と捜査員たちが捜査本部に戻ってきた。話は一旦中断される。その中に若林たちの姿もあった。

「お疲れ、早かったな」と若林。

「ええ、少し前に戻ってきました」

 篠原たちの許に捜査員たちが報告に集まる中、若林に答える。

「望月、この話は終わりだ。今は事件のことだけを考えろ」

 篠原はそう言うと、他の捜査員たちの報告を聞き始める。俺たちは席へ向かう。椅子に腰を下ろし、デスクの篠原と若林たちを見つめる。結城の話をしているのだろう。困惑顔の若林がちらりと俺たちの方に視線を向けた。

所詮しょせん、俺たちはデスクの駒にすぎない。けど、ここで終わらせることなんてしない。この事件が終わり次第、Michaelの書き込みをすべて拾い出してやる。必ず、次へ繋げてみせる」

 田村は「そうだな」と短く答えた。

 しばらくして捜査会議が始まった。

 識鑑班の捜査員たちが次々と報告を始める。皆一様に疲れ切った顔をしている。馨の交友関係は美奈とは比べものにならないほど幅広く、しかも関係者の多くが彼女に対してあまりいい感情を持っていなかったようだ。

 聞き込みを拒む者も多数いたらしく、あの手この手でなんとか聞き込みをするものの、重い口を開かせるのに時間を取られて思うように数をこなせないでいるようだった。きっと長々と馨に対する愚痴などを聞かされたりしていたのだろう。

 次に地取り班の報告に入るが、こちらはあまり芳しい成果は上げられないでいた。結局、なんの進展もないまま捜査会議は三時間ほどで終了した。

 報告書を書いていると、「また厄介なのに巻き込まれたな」と若林が苦笑いを浮かべながら俺たちのところにやって来た。俺は肩をすくめてみせる。

「望月くんたち、これからご飯一緒にどう? 詳しく話を聞きたいんだけど」

「いいですよ。猪又たちからも連絡あったんですよ。田村、お前も来いよ」

 田村がこれ以上ないくらい嫌そうな顔をする。

「どうせ、一人で飯食うんだろ? いいから来いって」

「五人で食事か……」

 里見が「ふふ」と楽しげに笑った。

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