第37話

 淡いピンクのシャツにネイビーのピケパンツといったラフな出で立ちの男は、若林たちの向かいのソファで静かに微笑んでいる。

 穏やかな目許をしているが、その瞳の奥には揺るぎない自信を感じさせる力強さがあった。これまでの彼の成功者としての人生を裏打ちしているかのようにも見える。

 六十二歳という年齢の割に、今はやりのメタボリックとは縁遠い引き締まった体をしている。若い頃は、さぞかし多くの浮名うきなを流してきたことだろう。

「最初に言っておきますが、私は事件とは関係ありませんよ」

 穏やかな口調で男は言った。

 男は去年まで、馨が大量の株式を保有する五嶋建設で社長職に就いていた香川雅秀かがわまさひで。四十四歳という若さで社長に就任し、かたむきかけていた五嶋建設の立て直しを数年で成し遂げた逸材であり、去年退任するまでに会社を準大手ゼネコンにまで急成長させた辣腕家らつわんかでもあった。

「事件関係者に係わるすべての人に話を伺わせていただいております。捜査上、必要なことですのでご了承下さい。――いくつか質問させていただいてよろしいでしょうか?」

「どうぞ。若者と話をするのは久しぶりだから嬉しいよ」香川は手を組み、「もっと早くここに来ると思っていたがね」

「遅くなってしまい申し訳ありませんでした。――早速ですが、香川さんから見て佐伯馨さんはどのような方でしたか?」

 香川は「そうですね」と少し考えてから、「彼女はよく言えば気位きぐらいの高い淑女しゅくじょ、悪く言えば尊大そんだい傲慢ごうまんな女といったところですか。一人娘だったそうだから蝶よ花よと何不自由なく育てられたんだろうけれど、周りは大変だ。ご主人が生きていた時はそれほどでもなかったらしいから、彼女も我慢していたんでしょう。その反動でもあるのかな? 君たちは彼女と話したことは?」

「今さっき、話を伺ってきたばかりです」

 香川は苦笑し、じゃあ言わなくても解るだろう、と言いたげな表情を若林たちに向けた。危うく頷きそうになる。

「それは大変だったね。でも彼女も可哀想な人なんだよ。彼女の周囲には、おべっかしか使えない人間ばかりが集まっていたから。自業自得とも言えるけれど、今まで誰も彼女と正面から向き合う人間がいなかった、ということでもあるからね。それは人にとって、とても悲しいことだと思わないかい?」

 馨に対して同情とも憐憫れんびんともとれる発言をする香川に、若林だけでなく里見も違和感を持ったようだ。メモを取っていた手を止め、香川を見つめている。そんな若林たちの様子を楽しむかのように彼は笑みを浮かべた。

「私がこんなことを言うのは変ですか?」

「意外でした」若林は素直に答えた。「失礼ですが、佐伯さんとの確執かくしつが原因で社長職を退かれたと伺っております。そのあなたが彼女を擁護ようごするような発言をするとは思いませんでした」

「別に擁護ようごしたつもりはないよ。実際そうだからね。それに、彼女が原因で私は退任した訳ではない」 香川がキッパリと否定した。「少し長くなるが我慢してもらおう。そんな理由で退いたと思われるのは不本意なのでね。――五嶋建設、というより建設業界は今、大きな転換期を迎えていてね。守りに入れば企業は駄目になる。流れを変える必要があった。だが革新をするにも、私にはそれを実行するだけの体力もやり遂げる覚悟も残ってはいなかった。事業というのは魔物でね。ひとつつまずくと連鎖反応を起こして取り返しのつかない状況に陥ることがある。だから経営者は熱意があるだけでは務まらない。自分の決断に身命しんめいすくらいの覚悟がなければ。私はいくつもの危機を乗り越え、トップに立ち続けた。それに、どれほどのエネルギーを費やしたことか。――私の役目は終わった、そう判断したから退いた。人間、引き際が肝心だからね」

勇退ゆうたいされたということですね」

「歳を取り、経験が長くなればなるほど頭が固くなり発想力が貧弱になりがちだ。自分では気づかなくても、そうなんだ。それは、企業にとってはマイナスにしかならない」

 香川は淋しそうに笑った。

 辣腕家らつわんかの香川にとって、自らの限界を認めることは相当辛かったのではないか。六十二歳という年齢はまだ老いを感じるほどの歳ではないように思えるが、長年企業のトップとして務めてきた彼にはそれを敏感に感じ取ることができたのかもしれない。

「佐伯さんと香川さんの退任が関係ないことは解りました。不愉快な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした」

「構わんよ。彼女に嫌われていたのは事実だからね」

「それは、どういった理由からか伺ってもよろしいでしょうか?」

「明確な理由などないよ。ただ気に食わなかったんだろう。私は彼女におべっかを使うことも、かしずくこともしなかったから。――最後の方は彼女の横暴さに私もさすがに我慢ならなくて衝突してしまったがね」

「衝突ですか?」

 香川は肩をすくめる。

「というより、私が彼女に意見をしたらその何倍にもなって返ってきて辟易へきえきした、というのが本当のところだ。女性は感情的になるとよく口が回る。――ああ、失礼。すべての女性がそういう訳ではありませんね」

 里見に向かって香川は言った。それに対して里見は答えず、にっこりと微笑み返した。

「意見、というのは」

「歳、かな。忘れてしまったよ」

 香川は若林の言葉を遮るように答えた。

 言いたくない、か。あの馨のことだから我慢ならないことも多々あっただろう。この香川が冷静さを失うほどのこととは、いったいなんだったのだろうか。馨にもそれとなく香川について訊いてみることにしよう。

「では、亡くなった佐伯美奈さんにお会いになったことはありますか?」

「ええ。前に佐伯さんがコンサートのチケットを配っていてね。私のところにもそれが回ってきたから妻を連れて行きました。あまりに素晴らしい演奏だったので、私たちはすぐにファンになってコンサート終了後に楽屋に挨拶に行ったんですよ。いい娘でした。礼儀正しくて、控え目で」

「美奈さんの演奏会に行かれたのはその一度だけですか?」

「いや。時間が空いている時に時々行っていたよ。疲れた体を癒しにね。夫婦で行くこともあれば、一人で行くこともありました」

「楽屋にも行かれていたのですか?」

「毎回ではないがね。――ところで、美奈さんを殺した犯人の目星はついているのですか?」

「申し訳ありませんが、お答えすることはできません」

「そうですか。妻も今回の事件にショックを受けてずっとせっているんです」

 香川はそう言って、ちらりと天井を見上げた。

「そうでしたか。突然お邪魔してしまい申し訳ありません」

「構いませんよ。捜査に協力するのは市民の義務だ。私も早く犯人には捕まって欲しいと思っているから協力は惜しまないよ」

「ありがとうございます」若林は軽く頭を下げ、「では大変申し訳ないのですが、二月十五日の」

「アリバイですね」

 待っていたかのように香川は言った。そして、「大変ですね、警察も。佐伯さんに関係するというだけで、私のような人間のアリバイまで調べなくてはいけないんですから」と苦笑する。

「犯人逮捕の為ですから」

 若林がそう答えると、満足するように香川は頷いた。

「その日は、三越みつこしに妻と買い物に行っていました。一日遅れのバレンタインデーというやつです。支払いは何故か私だったがね。夕食も、そこで。C’EST LA VIEセラヴィというフレンチの店です。よく行く店なので私のことを覚えているでしょう。あとで店の名刺を差し上げましょう」

「ありがとうございます」

 その後の質問にも香川は嫌な顔ひとつせず丁寧に答えてくれた。ごたごたに巻き込まれるのを嫌がり、捜査に非協力的なのが普通の昨今さっこん、彼のような関係者は珍しい。

「ご協力ありがとうございました」

「また何かあったらいつでもどうぞ」

 ソファから立ち上がった時、ふとサイドボードの上に飾られた写真が目に止まった。有名なスペイン広場での写真だった。トリニタ・デイ・モンティ階段の前で幸せそうに微笑む香川夫妻。二人の手はしっかりと握られている。他にもコロッセオや真実の口の前に並んだ夫妻の写真もあった。

「『ローマの休日』がお好きなんですか?」

 若林が尋ねると香川は懐かしそうに目を細め、「はじめて妻と観た映画が『ローマの休日』だったんですよ。近くの映画館で再上映されていてね。なので私が仕事を辞めた時、まず二人で行ったのがローマでした」そう言って彼は一枚の写真を取り上げた。

「素敵なお話ですね」

 里見が飾られている写真を見つめながら言った。

「仕事をしていた時は妻と出かけることなんてほとんどなかったんでね。彼女には色々と苦労させてしまったから、その罪滅ぼしといったところです。完全な自由の身になることを不安にも思っていたけれど……ローマの街はとても素晴らしかったよ」

 そう言いながらも表情は複雑そうだった。今日話した限りでは多趣味な人物であるように感じたが、いきなり自由を手にしてしまうと香川でも戸惑うのだろうか。それとも彼にとって仕事は生きることそのものだったのかもしれない。

「トレヴィの泉も行かれたんですね」里見が香川の持っている写真を見ながら、「確か、うしろ向きにコインを投げ入れると願いが叶うという言い伝えがありましたね」

「ええ。コイン一枚を投げ込めば、再びローマに来ることができる。コイン二枚なら、大切な人と永遠に一緒にいることができる。コイン三枚なら、恋人や夫、妻と別れることができるそうですよ。どこの国にも似たようながんかけがあるんですね」

「香川さんもがんかけをされたんですか?」

 里見の問いかけに香川はスッと目を伏せた。

「……ええ」

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