第33話

 空一面に雨気あまけを含んだ雲が覆っている。ここのところずっと曇り空が続いていた。このまま雨が降らなければいいと思いながら、若林はフロントガラスの先にある曇天どんてんを見つめたまま深い溜め息を漏らした。

 ――憂鬱ゆううつなのは何もこの天気のせいだけではない。

「大丈夫? 顔色悪いわよ。昨日、ほとんど寝てないんでしょう?」里見が心配そうに若林の顔を覗き込んできた。「そのポリシーも考えものね」

生粋きっすいのフェミニストなんだ、俺。安全運転を心がけているから安心してくれ」

 里見が苦笑する。

 女性が運転するのに異議はないが、一緒にいる女性が隣で足を広げて運転する姿をあまり見るのは好きではない。だから自分といる時は女性には助手席に座ってもらうことにしている。

 里見のことは女性としてではなく同僚として見ているが、これだけは譲れない。それに運転していた方が余計なことを考えなくてすむ。特に今は――

「珍しいわね、若林くんがそんな顔するなんて」

「そんなひどい顔してるか?」若林は左手で頬をさする。「顔に出してちゃ刑事失格だな。気をつけるよ」

「やるべきことをやりましょう。結局、すべてはそこに繋がっているんだから」

 里見が若林に微笑みかける。その意味深な笑みに若林は肩をすくめてみせた。

「相変わらず鋭いな。里見は人の心でも読めるのか?」

 前から思っていたことを口にする。疲れているのだろう。考えなしに思っていることを口に出してしまうなんてかなり重症だ。それとも考えることから逃げているのか。

 里見はくすくすと肩を揺らして笑いながら、「そんな訳ないでしょ。若林くんとは長いから少しだけ解るのよ。同じ刑事だもの」

「そうだな。やっぱり疲れてるな、俺」

「運転、代わろうか?」

「いや、いい」

 頑固ね、と里見に笑われた。

 市内の基幹路線である空港線から瑞穂区内みずほくないを走る弥富通やとみどおりに入り、東にしばらく進むと左手に県立高校が見えてきた。その角を左折して道なりに車を走らせると豪邸が建ち並ぶ住宅街に入る。そこを右に左に入っていくと、馨の屋敷が見えてくる。

 屋敷と言うと語弊ごへいがあるかもしれない。若林たちが見ているのは馨の敷地を取り囲む高い塀。それは敷地内をうかがい知ることができないほどの高さがあった。

 武家屋敷のような重厚な門構えの入口前に立つと、若林はインターホンを鳴らす。少しして「なんの用でしょう」と馨の凛とした声がスピーカーから響いた。

「愛知県警の若林です。事件のことで確認したいことがあるので少しよろしいでしょうか?」

「またですか」

 うんざりした馨の声が響く。

「何度も申し訳ありません。ご協力お願いします」

 しばらくして重々しい音を立てながら門が自動で開き、若林と里見は慣れた様子で敷地内へと入っていく。

 敷石しきいしが綺麗に敷きつめられた緩やかな曲線のアプローチを歩いていくと、不機嫌そうに馨が玄関先に立っていた。馨の家に家政婦はいない。彼女はこの広い家に独りで住んでいるのだ。

「何度も失礼いたします」

 若林が会釈をすると馨は背を向け、「どうぞ」と家の中へうながす。玄関を入ってすぐのところにある十畳ほどの客間。窓の先には手入れの行き届いた日本庭園が広がっている。若林たちはいつもこの客間に通されていた。

「早速ですが」

 若林が話をしかけた時、馨が「それよりも」と口を挟んだ。

「犯人である水島を何故捕まえないで野放しにしているのですか?」

 始まった。いつもの馨の手だ。こちらが本題に入る前に、必ず牽制けんせいを入れる。相手よりも自分が上位に立つために。

「彼にはアリバイがありました。昨日、それを証言する目撃者が現れました」

「しかし、その目撃者が共犯という可能性だってありますよね。今頃、のこのこと証言するなんておかしいでしょう? ちゃんと調べていただかないと困りますよ」眉間みけんに深い皺を寄せ、馨は大きな溜め息をついた。「高い税金を払ってあなた方を養っているのを忘れないでいただきたいわ。ほんと税金の無駄遣いね。これだけ日が経っているのに犯人ひとり捕まえられないなんて、無能と言われても仕方がありませんよ。手抜きでもしているんじゃないでしょうね?」

「私たちも所得に応じた税金は納めていますよ。捜査は全力を尽くして行っております。事件の早期解決の為にもご協力お願いします」

 馨の挑発的な言葉を若林はやんわりと受け流す。その若林の態度が気に入らなかったのか馨は目を細め、鼻で笑った。

「まぁ、ぬけぬけと。私が折角せっかく、捜査に協力をして差し上げたのにあなた方は聞き入れなかったくせに。どうせ捜査に行きづまってわらにもすがる思いでここまで来たのでしょう?」

「警察はすべての関係者について捜査を行っております。その結果、水島さんが犯人ではないことが判明しました。今日は、佐伯さんにお尋ねしたいことがあってこちらに伺わせていただきました」

「なんでしょう? 手短てみじかにお願いしますわ」

「解りました。では、単刀直入たんとうちょくにゅうに伺います。あなたのことをこころよく思っていない人間に心当たりはありませんか?」

 馨はあからさまに不快感をあらわにする。

「失礼なことを。美奈が殺された原因が私にあると言うの?」

「いいえ、そんなことは言っておりません。先ほども申しましたが関係者の捜査を行うのが我々の仕事です。それは家族も例外ではありません。不愉快な思いをさせて申し訳ありませんが、ご了承下さい」

「本当に、不愉快だわ」

 馨は辟易へきえきするように言う。

「申し訳ありません。捜査をする上で必要なことですのでご理解のほどお願いします」

「ふん」馨は鼻を鳴らし、「美奈は根暗ねくらで人付き合いも下手でしたし、私がいないと何もできない子でしたから、あの子の周りで犯人らしい人物が浮かばなかった訳ですね。だから私が怪しいってことですか。ですが、私のあずかり知らぬところで買った恨みなんて私に判るはずありませんわ」

「心当たりはないと?」

「ええ。私、平和主義者ですのよ」馨が微笑びしょうする。「もう、よろしいですわね。玄関までご案内しますわ」

 若林は口を開きかけたが諦めたように小さく息をついた。こうなると何を言っても無駄なのはこれまでの捜査で経験済みだった。今日はどうも機嫌が悪いようだ。これ以上、馨の態度を硬化こうかさせると今後の捜査にも影響を出しかねないと判断し、うながされるまま客間を出た。その時、奥の部屋から人の足音が微かに聞こえた。

 若林は奥に顔を向け、「どなたかいらっしゃるんですか?」と馨に尋ねた。

 機嫌が悪かったのは来客中だったからだろうか。すると、「田上ですよ。この時期、何かと忙しいんですよ。もうこれっきりにしてもらいたいわ」とうんざりしたように馨が言った。

「捜査の為ですのでご理解下さい。できれば田上弁護士にもお話を伺いたいのですが」

 馨はキッと若林を睨みつけ、「今、忙しいと言いましたでしょ? あなた方の相手をしている暇はないんです」と不愉快そうに答えた。

 若林は眉をひそめ、「お孫さんの捜査の為でもですか?」と馨と向かい合う。

「それを理由になんらかの救済措置を取っていただけるのなら、いくらでも時間を割きましょう。けれど、そんなことできませんよね。被害者遺族だろうがなんだろうが誰も待ってはくれないんですから。ひどいと思われようが、私も生活の為にやらなければいけないことをしているだけです。――あなた方だってご存じでしょう? この国の司法制度が、最も守られるべきはずの被害者やその遺族よりも犯罪者の人権に重きを置いていることを」馨は冷ややかな眼差しを若林たちに向ける。

「お帰り下さい」

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