第32話

 昭和区にある付属病院の一室。

 俺と田村はベッドに横たわる結城と対面していた。

 両手首に巻かれた包帯が痛々しい。肉が落ちて痩せこけた土色の顔。目の下には深い皺が何本もできていた。以前の結城の面影をまったくといっていいほど残しておらず、あまりの変わりように部屋を間違えたのではないかと思ったほどだ。

「俺は、いつの間にか家族の中に自分の居場所を見いだせなくなっていたんだ」

 佐竹からネットの男について話を聞いたことを伝えると、結城は天井を見上げながら力なくそう呟いた。

 そのこととその男がどう関係するのか解らなかったが、俺はこの時、結城と双葉慎吾が重なって見えた。どう答えていいのか迷っていると、結城は視線だけでなく顔をかたけて交互に俺たちを見る。

「俺は家族の為に身をにして働いてきた。けれどいつの頃からか、自分がなんなのか、何故家族と共にいるのか判らなくなっていった。家族の犠牲になり、自分の存在が消されていくのがたまらなく苦しかった。……独身の君らが羨ましいよ」結城は悲しげに笑う。「結婚したのが間違いだったんだ」

 結城の心ない言葉に、俺は廊下で会った彼の家族を思い出す。

「隣の芝は青いって言うじゃないですか、結城さん。独身だって大変なんですよ。激務だから恋人ができなくて淋しいし、家に帰れば部屋は真っ暗だし、独りきりの夕食のわびしさといったら。……それに心労しんろうで今にも倒れそうになっている奥さんに失礼ですよ。心配でずっと泣いている息子さんにも」

 結城は目を伏せ、「君も家族を持てば解るよ」と絶望を漂わせた口調で呟いた。

「結城さん。いったい何があったんですか?」

 俺が結城につめ寄ると、彼は顔を歪めて唇を噛んだ。

「こうするしか、なかったんだ」

「え?」

「俺には、こうするしか方法がなかったんだ!」

 吐き捨てるようにそう言い放った結城を俺は困惑しながら見下ろした。

 結城の抱えている悩みがどのようなものかは理解できた。だが、その解決方法として死を選んだことに対してはどうにも理解できなかった。

 それについて訊いていいものか考えあぐねていると、今まで黙って結城の様子をうかがっていた田村が、「家族とは突きつめればただの個の集まりに過ぎなく、血の繋がりや遺伝子なんてなんの意味もなしません。所詮しょせん、他人なんです。悩む必要はないでしょう。あなたは、自分の為に生きればいい」といつもの抑揚よくようのない口調で結城に向かって言った。

 その途端、結城は顔色を失い「ああ……」と声を漏らすと小刻みに唇を震わせた。

「田村、もう少し言葉を選べ」俺は田村を肘で突いた。「結城さん。家族という枠にめずに、奥さんや息子さんを一人の人間として向き合ってみてはいかがですか? 血の繋がりや遺伝子は、家族という集合体を表す時には意味のあるものだけれど信頼関係を築く上では意味はないんです。血が繋がっているから解り合っている、なんて都合のいい話ある訳ないですから。社会生活の中で他人と信頼関係を築くように、言葉を交わし、お互いを気遣う気持ちがなければ家族だとしても解り合うことなんてできないと思いますよ。だから、結城さんも一人の人間として生きていけばいいんですよ――と田村は言ってます」

 俺がそう言うと、田村は呆れたように息をついた。

「怖い、な」結城は呟く。「田村と同じことを奴は俺に言ってきた。当事者の俺と他人とでは言葉の解釈の仕方が違うんだ。奴はそれを利用して人を導いている。――底なしのふちへ」

「結城さん、俺たち南区の事件を担当していたんです。双葉慎吾の事件です」

 結城は俺たちの顔を交互に見てから自虐的に笑った。

「嘘だと思うだろ? 最初は俺だって信じなかったさ。奴の言葉は誠実そのものだったからな。まさか、と思った時はもう手遅れだった。既に奴の言葉が俺の中で育っていた。そして囁きかけるんだ。殺せ、と」

「殺せと言われたんですか?」

「いや。殺すしか道はない、と追いつめるんだ。その道しか与えないんだよ。双葉慎吾も両親を殺す道しか与えられなかった。君たちも見ただろ? 彼らのやり取りを。真摯しんしな言葉に隠された悪意。奴は慎吾を執拗しつように追い込み、あらかじめ用意しておいた道を歩ませた。奴の恐ろしいところは、その人間の一番弱い部分を的確に攻めてくるんだ。もともとその人間が抱えている恐れや不安といった部分を増幅させる。だから……操られているのかどうか本人にも判らなくなる。――この消し去ることのできない殺意は自分の本心なのではないか、とね」結城は天井を見上げながら、「俺は、自分を取り戻す為に――家族を殺そうとしたんだ」

「ゆ、結城さん……」

 苦しげに顔を歪め、天井を見上げている結城。その頬にひと筋、涙が流れ落ちた。さすがの田村も言葉を失っているようだった。

「だから家族を殺す前に死のうと思った」

「そんな!」

 死んだってなんの解決にもならないではないか。まだ間に合う。これから家族と向き合っていけばいいじゃないか。

 だが、結城は小さく首を振る。

「……限界だった。解放されたかったんだ、すべてから」結城は目を伏せる。「妻とは離婚するよ。彼らの為にも、俺の為にも、その方がいい」

 その迷いのない声には彼の強い決意が込められていた。そして、俺たちが口を挟むことを拒絶しているようでもあった。

「嫌な思いをさせて、すまなかったね」

 結城は弱々しく微笑んだ。俺は出かかった言葉を呑みこみ、「その男について詳しく教えていただけますか?」と尋ねた。若造わかぞうの俺が何を言っても今の結城には届かないと思った。

「奴は狙った獲物をたくみに言葉を使って信頼させる。自分は味方だ、と安心させるんだ。人は普段、表情や声色こわいろで言葉の微妙なニュアンスをとらえている。だが、ネットでは言葉しか情報がない。だからその言葉がそのままダイレクトに人の心に伝わる。――それをよく理解してるんだ。あのMichaelは」

「ミカエル?」

「ああ、奴はMichaelと名乗っていたんだ。知ってるか? 大天使ミカエル」

「ええ、四大天使の中でも最上位の天使ですよね。……そう言えば、ミカエルは〈神のごとき者〉という意味でしたよね。他にも〈神に似た者〉とも言われているようですけど。なにか、意味深ですね」

 ふと見ると、田村がメモを取る手を止めて俺を見ている。結城もベッドの上で呆気にとられていた。

「え、何? 俺、変なこと言った? いや、あの、ほら前に付き合ってた子が天使が好きでさ」

 慌てる俺を見て、結城が小さく肩を揺らして笑った。

「結城さん、笑わないで下さいよ。傷にひびきますよ」

「お前が悪いんだろ」

 すかさず田村の容赦ようしゃない言葉が返ってきた。俺が何をした。

「女の子は天使が好きなんだな」結城が何か納得するように呟いた。「でも、そうか。奴は天使を名乗っていた訳じゃなかったんだな。――神になったつもりだったのか」

 結城は口許を引き締め、天井をじっと見据みすえる。やがて顔を歪め小さく首を振った。うかがい知ることのできない彼の内面。彼は今も闘っているのか。

「そのMichael、他のサイトは利用していないんだろうか?」

 田村の言葉に結城の顔からサッと血の気が引いた。思わず俺も愕然がくぜんとする。

「……まさか、他のサイトでも?」

 ネット上にある無数のインターネットコミュニティ。もしMichaelが他でも同じ行為をしているのだとしたら――

「結城さん。俺たち、本部に報告に戻ります。時間取らせてしまってすみませんでした。ゆっくり休んで下さい」

 病室から出ようとする俺たちに、充血した目を大きく見開きながら結城が叫んだ。

「いいか、深入りはするな! 奴の言葉に耳を傾けるな! でないと、俺と同じ道を歩むことになるぞ!」

 両手首に巻かれた包帯、ベッドに横たわり苦痛に顔を歪める結城の姿が、その言葉に重みを与える。俺たちは言葉を失くしたまま頷くと病室から出た。廊下には家族の姿はなく、そのまま俺たちは歩き出す。

「田村、お前どう思う?」

 信じがたい話である。結城の姿を目の当たりにしても初めは信じられなかった。だが彼の話を聞き、彼から伝わるMichaelへの恐怖に、もしかしたら、と思い始めていた。

「課長に報告するのに苦労するだろうな」と田村。

 そんなことは訊いてない。確かにそうだが――

「どうせお前、何も言わねぇじゃねぇか」

「だから、お前が」

 しれっと田村が答える。あんまりな言い草だ。吐息をつき、周りに目を向けると医師や看護師が忙しなく病室を行き来している。

 整形外科のベッドが空いていなかった為、結城は外科病棟の個室に入っていた。ナースステーションの前を通るとナースコールがいくつも鳴っている中、数人の看護師が慌ただしく作業をこなしていた。――ここも戦場だな。

「だが結城さんの話が事実だとしても、Michaelの書き込みから犯罪をうながしていることを証明できると思うか?」

 周りに聞こえないように声のトーンを落として言うと、田村はまっすぐ前を見据えたまま「無理だな」と言い切った。

 今まさにMichaelがネット上で誰かに囁きかけているかもしれないと想像し、俺は思わず眉をひそめる。

 地獄へ導く天使、か。

 自らが神になろうとし、地上へと堕とされた神に最も寵愛を受けた天使――ルシフェル。再び神にならんとしているのか。自分を地上に堕としたミカエルの名をかたり。

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