第31話

 二月二十五日。事件発生から十一日目の朝を迎えた。

 午前六時を少し過ぎた辺りから刑事部にちらほらと人の姿が増えてきた。捜査一課長である小林も既に出勤しており、机で新聞を読んでいる。このあと捜査本部に向かうようだ。

 外は、雨は上がっているが空には灰色の厚い雲が覆っていた。いつまた雨が降り出してもおかしくない空模様だ。いつ降るか、いつ降るかとビクビクするくらいならはじめから雨が降っていた方がまだいい。

 重いまぶたこすりながらコーヒーを淹れていると、バタバタと廊下を走る音が聞こえてきた。「なんだ?」と部屋の入口に目を向けると、刑総課けいそうかの佐竹が血相を変えて飛び込んできた。そして小林の姿を確認すると、佐竹は一目散に駆け寄っていった。

「どうした、佐竹」

 緊迫した様子の佐竹に小林は読んでいた新聞から顔を上げる。

「とんでもないことに……結城が自殺を図りました」

 佐竹の言葉に、俺は思わず持っていたコーヒーカップを落としかけた。小林は乱暴に新聞を机に置くと、「容体ようだいは?」と佐竹に尋ねた。

「今朝方、意識が戻ったと結城の奥さんから連絡がありました」

「そうか、それは何よりだ」

 小林が安堵あんどの表情を浮かべる。俺もひとまず胸を撫で下ろす。自殺を図った理由は判らないが助かってよかった。ホッとしながらも、何故そのことを一課長である小林にしらせに来たのかが気になった。室内にいる他の連中も、そのことが気になっているようで佐竹に視線を注いでいる。……田村、起きろ。

 興奮気味の佐竹は小林の机に両手をついて身を乗り出した。

「結城は殺されかけたんです!」そう叫ぶと佐竹は頭を抱え、「あの時、俺が止めていれば……こんなことにはならなかったのに!」

 佐竹から発せられた「殺されかけた」という言葉に田村がむっくりと上体を起こした。起きてたんかい。

「佐竹、落ち着け。詳しく話すんだ」

 小林は立ち上がり、興奮する佐竹の肩を掴んだ。

 一九〇もの上背うわぜいのある小林。しかも刑事部の中でも一、二を争うほどの強面こわもての小林に射竦いすくめるように見下ろされ、ハッとしたように佐竹は顔を強張らせる。まるで蛇に睨まれた蛙のように佐竹は大人しくなった。

「取り乱してしまい、すみませんでした」

「いったい、何があったんだ?」

 落ち着きを取り戻した佐竹は呼吸を整えると小林を見上げ、結城が集めたデータの複数の容疑者の書き込みに同じ男からのコメントがついていたこと、そして結城がその男に興味を持ち、接触する為に書き込みをしてやり取りをしていたことを伝えた。これにはさすがの小林も困惑し、「そんな馬鹿な話があるか!」と語気を荒げた。

 俺は急いで席に戻り、南区の事件の捜査資料を取り出す。双葉慎吾と男のやり取りの内容が書かれたページを広げると横から田村が覗き込んできた。

 慎吾の気持ちをみ取るような男のコメント。その男に信頼を寄せていることを窺わせる慎吾の書き込み。それが何ページにもわたって続いていた。

 俺は再び佐竹に顔を向ける。

「私たちも始めはそう思いました。奴のコメントに不審な点はなかったですし、すべて同じサイト内でのやり取りだったので偶然だと片づけていたんです。六日前、結城本人から少しの間休ませてほしいと連絡があって以来、ずっと休み続けていたのを気にはなってましたが、まさかこんな……昨夜、奥さんから結城が自殺を図ったと電話があったんです。病院に駆けつけた時に、結城が四日前からずっと部屋に引きこもっていたことを聞かされました」

 小林は眉間みけんしわを寄せたまま、佐竹の話を聞いていた。いつの間にか周りに集まっていた連中も信じられないといった様子で佐竹を眺めている。

「本当に、そいつが原因なのか?」

「はい、私はそう思っています。奥さんの話では、奴とパソコンでやり取りを始めた二週間ほど前から結城は自室にこもるようになり、完全に部屋に引きこもってからはドア越しに声をかける奥さんに、あの結城が暴言を吐いて部屋に近寄らせなかったそうです。昨夜は、声をかけても反応がないことに不安になった息子さんがドアを壊して部屋に入り、両手首を包丁で傷つけて倒れている結城を発見したそうです。すぐに救急車で病院へ搬送したので一命をとりとめたそうですが、あと少し発見が遅ければ危なかったそうです。――そして机の上には、滅茶苦茶に破壊されたパソコンが置いてあったと」

 小林は眉をひそめる。そして俺たちに顔を向け、「南区の事件は篠原班が担当だったな。お前たち、結城から詳しく話を訊いてきてくれ。篠原には俺から言っておく。俺は本部に残るから報告に戻ってこい。いいな」と言った。

「はい」

 俺たちは佐竹から結城の運ばれた病院を教えてもらい、部屋を出る。どうもおかしな展開になってきた。やはり今日も厄日なのだろうか。

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