第26話
捜査本部のある中警察署に向かう車中で、猪又の隣に座る加賀は「ばあちゃんが、俺のばあちゃんでよかった」と呟いた。そして膝の上に置いた両手をじっと見つめたまま、事件当夜の出来事を語り出した。
「入社当時から目をかけてくれた寺田部長の言葉は、俺にとって死の宣告そのものでした」
――この件は、すべてお前たち二人がやったことにしてくれ。
突然、そう切り出された。最も信頼し、尊敬していた人であり、この詐欺の話を自分に持ちかけてきた寺田からの裏切りとも言えるこの言葉に加賀は頭がまっ白になり、ただ立ち尽くしていたと言う。
加賀はきつく組んだ手を震わせながら、「俺は訳が解らなくて、どういうことなのか部長に問いつめました」
寺田は加賀にゆっくりと近づきながら、薄笑いを浮かべた。普段の寺田らしくない品のない笑みに加賀は一歩後ずさった。
――
そこで初めて、加賀は自分の置かれた状況を把握したのだと言う。寺田は自分を殺し、すべての罪を自分に着せるつもりなのだ。だから、こんな夜に会議室に自分を呼び出したのだ、と。
「俺は自首しましょうと言ったんです。何も殺人を犯すことはないって!」
加賀は悲鳴に近い声を張り上げると頭を抱えた。
「寺田は遺書を用意していた。お前が自殺したように見せかける為に」
猪又がそう言うと加賀は
「尊敬、していたのにっ……」
後ずさる加賀に
――すまない、加賀。私が甘かったんだ。大池がこんなことをするなんて思ってもみなかった。これしかもう方法がないんだ。このまま屋上に上がり、君にはそこから飛び降りてもらう。大丈夫、すべてを記した君の署名入りの遺書も用意してあるから。
「部長は本気でした」
寺田の
狂ってる――加賀はそう思ったと言う。
誰もが
「死にたくなかった。死ぬのは怖い。納得もできなかった。できるはずがない! だってそうでしょう? 俺だって家族はいる! なのに、あんな勝手なことっ」加賀は
加賀は苦しそうに顔を歪め、両手をじっと見つめた。彼の瞳には両手にこびりついた寺田の血が見えているのかもしれない。両手につく何かを
そんな加賀の様子を、両隣りに座る猪又と一課の捜査員は無言で見つめた。
寺田は苦痛に顔を歪め、体を折り曲げて床に倒れ込んだ。そして床の上で体を丸めて
動かなくなった寺田の腹部から血が流れ出てきたのを見て、これが現実であると理解するとともに地獄の入口が目の前に口を開けたように感じたと加賀は言った。
「俺は怖くて包丁を投げ捨てました。もう駄目だ、と思いました。もう俺の人生は終わった、と。――世話になっていた部長の誘いを断るなんてできなかった。断れば会社にもいられなくなると思った。だから……それなのにどうして……人を、殺してしまうなんて」
「道を少しでも
猪又は
「……ばあちゃんの顔を見てから死のうと思ったんです」
加賀が震える声で呟いた。
「それで逃げたのか」
加賀は頷く。
「包丁についた指紋を
「それなら、どうして遺書を処分しなかったんだ?」
「遺書のことは、忘れてました」
運転席の夏目が、「アホだな」と吐き捨てた。
「本当に」
加賀が小さく呟く。
「今までどこにいたんだ?」
「海外赴任している友人のマンションです。鍵を預かっていたので」
現場であるビルから五〇〇メートルほどのところにあるマンションに加賀はいたと言う。これにはさすがに驚いた。隣に座る一課の捜査員は
気持ちは解る。ここ数日、
「どうして、その足で宮川さんの家に行かなかったんだ?」
キミに会いたいが為に逃走したと言う加賀。それなのに、何故キミの
「……行きました。防犯カメラに姿が映らないように住宅街を走り抜けて、ばあちゃんの家の前まで。あんなに走ったのは学生時代以来でした」そして加賀は目を伏せ、「でも呼び鈴を押せなかった」
「どうして?」
「呼び鈴を押そうとした時、シャツの袖口についていた部長の血に気づいたんです。部長を刺した時の感触が
加賀から
「――馬鹿だ、お前は」
猪又は車窓を流れる景色に視線を移した。そして、病室でのやりとりを振り返るように目を閉じた。
部屋の中央に置かれたベッドに横になり、穏やかな笑顔を浮かべたキミは「猪又さん、ありがとう」と言って頭を少し前に
「無事でよかったです」
猪又はぎこちない笑顔をキミに向けた。
病室の外では、夏目が駆けつけた一課の捜査員たちに事情を説明しているところだった。
キミには、自分が警察官であることをまだ伝えていない。加賀が捕まれば事実を知ることになるが、それはもっと体調が落ち着いた時に
「しばらく入院だって。今、母さんがこっちに向かってるから明日には会えるよ。早く元気になってな。もう無理しちゃだめだよ、ばあちゃん」
ベッド脇のパイプ椅子に座った加賀がキミに優しく声をかけた。キミは手を伸ばし、加賀の頬にそっと手を当てた。
「ゆき、体壊しとらんか? こんなにやつれて。ちゃんとご飯食べとる?」
心配そうなキミに加賀は
「ばあちゃん、早よぅようなってゆきに美味いもんぎょうさん作ったるからな」
「う、ん」
「どうした? ゆき」
「ばあちゃんが……助かってよかった、って」
「何言ってるんだよ!」加賀が勢いよく顔を上げた。「これからも元気で長生きしてくれなきゃ……駄目だって」
「泣くな、ゆき。ありがとね」
キミの嬉しそうな笑顔に加賀は
「ゆき、無理せんでええんだよ」キミはベッドに伏せて泣く加賀の頭を優しく撫でながら、「辛いことがあったんなら少し休めばいい。今まで頑張ってきたんだから。前みたいに笑えるようになるまで休んだらいい。――だから、無理せんでええよ」
加賀は顔を上げ、何度も頷きながらキミの手にすがりついた。猪又はそんな二人の様子を黙って眺めていた。遠い記憶の中の祖母を思い出しながら。
「ゆき。ばあちゃんはいつでも、お前の味方だよ」
これまでに見たことのないほど優しい笑顔で、キミは加賀の頭を撫で続けた。
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