第20話

「ほいっ」

 顔をマフラーに埋めた夏目が車に乗り込むと弁当の入ったコンビニ袋を手渡してきた。受け取った弁当を太ももの上に置くと弁当の熱がじんわりと肌に伝わってきた。

「あー、寒かった」

 夏目はマフラーを後部席に放り投げ、ネクタイを緩めると手を擦り合わせて弁当を広げた。牛丼の美味そうな匂いが車内に広がる。猪又もたまらなくなり、自分の唐揚げ弁当の蓋を開ける。立ち上がる湯気と唐揚げの美味そうな匂いに喉を鳴らした。

「お前は帰ってよかったんだぞ」

 そう言いながら、目は箸でつまみ上げた唐揚げを追っていた。

「女扱いするな!」

 夏目が箸の先を猪又に向けた。行儀悪いな。

 捜査会議を終え、夏目と交代する為にやって来た二課の同僚の田原たはらを、今と同じセリフを言って彼女は追い返した。

「女だろ」

「女の前に、あたしは刑事だ」

 そう言って、夏目は牛丼を美味そうに頬張る。

「逆だ。刑事の前にお前は女だろ」

 呆れながら言うと夏目に睨まれた。女であることにコンプレックスでもあるのだろうか。唐揚げを頬張りながら、「お前の親父って刑事か?」と夏目に尋ねてみた。

「銀行員だ」

 夏目は素っ気なく答える。

「なんだ。じゃあ、雄々おおしくあれ、とでも育てられたのか?」

「はっ、古臭い。女だからとか男だからとかっていう奴、あたし大嫌いなんだ。だからお前も、あたしのことを女だと思うなよ」

 夏目は箸を上下に揺らしながら先を猪又に向けた。

「思ってねぇよ。あと、箸で人を指すな」

「細かい男だな」

「男とか女とかって言う奴、嫌いなんじゃなかったか?」

 猪又が意地悪く笑うと夏目は口を尖らせた。

 弁当も食べ終え、時計の針が午後十時を過ぎた頃、キミの家の電気がすべて消えた。昨日とほぼ同じ。キミは毎日同じサイクルで生活を送っているようだった。

 朝は七時に玄関の掃き掃除をする。九時過ぎに洗濯物を干し、十時頃に庭と玄関脇の花壇に水やりをしてから、午後一時に買い物に出かける。この時期は心臓に負担がかかる為ほとんど家から出ないと言っていた。他には金曜日の午前中に病院へ薬をもらいに行くくらいだ。

「この寒さの中、加賀が野宿でもしてたら凍死だな」

 夏目は気怠そうに髪を掻き上げ、シートに深く腰を落とした。猪又は顔をしかめる。

「縁起でもないこと言うなよ」

「それか、あたしらが先に倒れるかどっちかだ」夏目は煙草をくわえる。「悪い、吸っていいか?」

「どうぞ」

 煙草を吸わない猪又に遠慮していた彼女も、この寒さの中での長時間に及ぶ張り込みでさすがにストレスが溜まっているようだ。彼女は煙草をくわえたまま器用に話す。

「これだけ時間が経ってるのに見つからないってことは、県外に逃亡したと考えていいんじゃないか? リスクを冒して市内に潜伏せんぷくする理由はないだろ」

 猪又は何も言わずに黙っていた。夏目は冷めた目で猪又を見る。

「お前、まだここに加賀が現れると思ってるのか?」

 そう言って、夏目は煙草をくわえた唇の隙間から煙を吐き出した。

「まぁな。追いつめられた容疑者が行き着く先はやっぱり家族だと思う」

「迷惑な話だな」夏目はうんざりしたように吐き捨てた。「自分はそれで楽になるかもしれないが家族はどうなる? 世間から白い眼で見られ、同じように罪の意識を背負うハメになる家族はどうすれば救われるんだ? 自分だけ楽になろうなんて卑怯だ」

「……俺たち警察や弁護士から事件の概要を聞くよりも、本人から真実を聞いた方が家族だって事実を受け入れ、前に進むことができるんじゃないか?」

「都合のいい話だな。それが本当に真実かどうか判らないじゃないか」

「そうだな、嘘かもしれない。でもそれは容疑者の良心なのかもしれない。家族を傷つけない為の」

 したり顔で事件について語るコメンテーター。憔悴しょうすいする家族へのフラッシュの嵐。執拗しつように質問を続ける記者たち。携帯カメラで惨状さんじょうを撮影する他人。笑顔の野次馬。氾濫はんらんする情報。非難。誹謗中傷ひぼうちゅうしょう

 そこに真実はなく、綺麗事きれいごとの正義が加害者家族だけでなく、被害者家族をもズタズタに傷つける。

 ――キミは耐えられるだろうか。

 キミの体と精神が壊れはしないか、それが心配だった。彼女からあの優しい笑顔を奪うことだけはしてほしくない。それだけは、絶対――。

 夏目は電気の消えたキミの家に視線を向けたまま、ずっと無表情で黙っている。そして煙草を灰皿に押し込むと、非難するような鋭い視線を猪又に向けた。

「随分と容疑者の肩を持つじゃないか。被害者をないがしろにするのか? 大切な家族を奪われた遺族の気持ちを考えたことがあるのか?!」

「誤解するな。俺は容疑者の肩を持つつもりは更々さらさらない。憎むべき犯罪者に一片いっぺんの恩情も同情もいだきはしない。だが家族は別だ。お前だってそうだろう?」

 猪又が睨み据える夏目を見返す。どれほどの間そうしていただろう。夏目は表情をわずかに緩め、ホッとしたように息をついた。

「そうか、安心した」

「そりゃ、どうも」

「悪かったな」

「いつものことだろ」

 猪又の言葉に夏目が渋い顔をする。ふん、と鼻を鳴らし煙草をくわえる。

「……そういや、お前の仲間も吸わないな」

 夏目が煙草に火をつけながら言った。

「仲間? ああ、望月はずっとテニスをしていたから吸わなかったみたいだし、若さんは臭くなるから嫌だって前に言ってた」

「お前は?」

 夏目が煙草を指で挟み取り、口から煙を吐き出しながら横目で見てきた。

「俺か? 飯が不味くなるから吸わん」

「ふーん。ストレスとかなさそうだな、お前」

「失礼な」

 お前が言うな、お前が。

「じゃあ、田村は?」

 間髪入れずに「なんでアイツが俺の仲間なんだよ! ふざけんな」と大きな声を上げると夏目は愉快そうに笑った。

「相変わらずだな、お前。一課にいる時から仲悪かったよな」

「ふん、ほっとけ。アイツの話なんかするな。不愉快だ」

「はいはい。面白いな、お前」

 面白くねぇよ。満足そうに煙草をふかす夏目をじろりと睨み、猪又は話題を変えることにする。

「詐欺の捜査、難航してるみたいだな」

 これまでの捜査で、中区なかく以外にも瑞穂区みずほく千種区ちくさくに住む複数の個人投資家が被害に遭っていることが判明した。彼らは投資話が嘘だったと知るや否や、すぐさま所轄の警察署に被害届けを提出した。

 これに伴い、瑞穂警察署、千種警察署との共同捜査本部態勢に切り替えることとなった。

「予想はしてたけどな。被害金額も多額だし、個人的に流用した形跡や他企業への貸し付けも行っていたようだ。捜査の長期化は避けられないだろうな」

 紫煙しえんをくゆらせながら夏目は言った。

 猪又もできれば早く詐欺捜査に加わりたいと思っていた。ただでさえ詐欺事件の裏づけ捜査は時間がかかるものなのだ。その上、自分たちの穴もある。二課の同僚たちにかなりの負担がかかっているはずだ。夏目には気にするだろうから言わないが。

 ――昔の自分なら言っていたはずだ。そして夏目をなじっていただろう。随分と変わったもんだな、と猪又は苦笑いを浮かべる。

「なんだ?」

 夏目がいぶかしそうに見てきた。

「なんでもない」

「変な奴」

「知ってる」猪又は缶コーヒーのプルタブを開けながら、「にしても、大池は国外逃亡。加賀も行方不明。極めつけが詐欺の中心にいたと思われる寺田の死だ。最悪な展開だな。加賀の身柄確保でこの局面を打開できればいいけど」

「奴がどこまで深く係わっていたかによるな」

 煙草をくわえながら素っ気なく夏目が言う。

「そうだな」

 コーヒーを飲み干し、猪又は窓の外に視線を投げる。

 夜のとばりに包まれて寝静まる街。この街のどこかに加賀はいる。そう信じたい。キミの為に。

 猪又は加賀に対して同情などしていない。自業自得だと思っている。ただ、キミが不憫ふびんで仕方がなかった。彼女の加賀を語る嬉しそうな顔を思い出すと彼に対して憤りを覚える。目先の欲に目がくらんで大切なものを踏みにじった加賀。猪又には、それが一番赦せなかった。

「それにしても、寒いな」

 夏目が両腕をさすりながら呟いた。

「カイロいるか?」

 背中に貼ってあるカイロを剥がして差し出すと夏目が吹き出した。

「なんだよ」

「いや、いいのか?」

 カイロを受け取りながら夏目は遠慮がちに言う。

「男と女じゃ体のつくりが違うんだよ。平気だ」

「……なんか、しゃくさわるな」

 不満げな夏目に猪又は溜め息をついた。

「そこは譲っとけ。それに俺とお前じゃ、ガタイだって随分違うだろーが」

 夏目は「そりゃそーだ」と笑い、カイロを両手で包み込んだ。

「やっぱり、お前いいな」

「なんだよ、急に」

 カイロぐらいで褒められるとは思わなかった。そんなに寒かったのだろうか。

「今まで組んだ奴らなんてさ、車で張り込みすると抱きついてきたり、温めてあげようか? なんて気色悪いこと言ってきたりで散々だった。まぁ、ボコッたけど」

 夏目は心底嫌そうな顔で吐き捨てた。

「マジか? 最悪だな」

「だろ? 猪又はあたしのこと女として見てないだろ?」

「当たり前だ。見ろと言われても無理だ」

 大きく頷くと「ムカつくな」と睨まれた。どうすりゃいいんだ。猪又は口をへの字に曲げる。

 でも、そういうことか。そんなことがあれば、女として扱われることに敏感になるのも仕方ないか。それを考えると男所帯の刑事部で女が仕事をするのも大変なんだな。

「お前のさ、喧嘩っ早いところとか、がさつなところとか、口が悪いところとか含めて」

 そこまで言ったところで「殴るぞ」と凄まれた。

「最後まで聞けよ。同志として見てるんだよ、俺は」

 猪又のその言葉に夏目は満足そうな表情を浮かべる。

「戦友ってことだな」

「違う、同志だ」猪又は溜め息をつき、「つーかなんだよ、戦友って」

「同じだろ」

「全然違う。それに、なんかお前が言うとリアルなんだよ」

 猪又はシートにもたれ掛かり、額に手を当て首を振った。

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