第19話

「日中に来た時と印象が随分変わるな。よくこんなところに家なんて建てる気になったもんだ」

 俺は黒々とした竹林を見上げると、今にも飲み込まれそうな迫力で圧倒される。既に日は落ち、辺りは静まり返っている。竹林に囲まれた焼け落ちた美奈の家は一層暗く、なんともいえない不気味さをかもし出していた。

 風が吹くたび竹の葉のさざめきが四方八方から響いてくる。友人の家で5・1chスピーカーを体感した時のことを思い出した。映画だとこのあたりで女の絹を裂くような悲鳴が聞こえてくるところだ。

「美奈の両親がこの土地を購入した当時、大規模な土地開発の事業計画が持ち上がっていた。先を見越してこの土地を買ったんだろう」

 田村は竹林から視線を外し、ゆっくりと辺りを見回す。

「でも、その計画は頓挫とんざした」

「バブルの崩壊で不動産会社が倒産したからな」

「結局、残ったのはこの竹林だけってことか」

 田村は答えることなく、県道の方へすたすたと歩いていく。そしてガードレールが無残な形に歪んでいる場所で立ち止まった。事故現場だ。道路には未だに砕け散ったプラスチック片が残っている。

 俺も事故現場に歩み寄り、腰をかがめる。歪んだガードレールにシルバーの塗料がこびりついていた。

 そう言えば、山口の車の修理は終わったのだろうかとふと頭を過ぎった。他の捜査員の話では、車に飛び出してきたのが男だと知った山口は飛び跳ねんばかりに驚いたらしい。俺はその光景を想像し、思わず口許がゆるんだ。

 田村を見ると今度は街灯を見上げている。塗料がげ落ちびだらけの古びた街灯。桜花台のものとは大違いだ。どうせならここの街灯も新しく換えればよかったのに。

「暗いな」

 田村がぽつりと呟く。

 何を今更、と思ったが俺も街灯を見上げる。街灯は俺たちの足元まで届くか届かないかくらいの薄暗い仄かな光を放っていた。よく見るとカバーが黒く汚れている。

「予算がないのか? でもこれはないよな」

 住宅街の方に目をやると、二〇メートル近くある竹のせいで月明かりが届かない暗闇の中に、等間隔に置かれた街灯の薄暗い明かりが、ぼうっと宙に浮いていた。そこに竹の葉のさざめきが響き渡り、どこか別の世界へ繋がっているような怪しさがあった。

「はぁ」思わず声が漏れた。「ここを水島はいつも歩いて帰っていたのか?」

 俺には無理だ。街灯の薄暗い明かりが逆に恐ろしい。

「いつもは自転車だったんだろ」

「あ、そっか。自転車盗まれたんだっけ? いや、それでも怖いって」

 この道を水島が独りで歩く姿を想像し、身震いする。か弱そうに見えて、かなりきもわっているじゃないか。

「水島、ね」

 隣に立つ田村はそう呟いて黙り込んだ。

「どうかしたか?」

 田村は顎をさすりながら何か考え込んでいる。

 沈黙が流れ、ざわざわと竹の葉のさざめきが辺りを支配する。押し迫ってくるような竹の葉のざわめきに俺の心は乱れる。水島がなんだと言うのだ。

「おい」

 返事を促すように声をかけると、田村は俺を一瞥いちべつする。

「事件よりも前に美和はあの家を出ていたんじゃないか?」

「はぁ?!」

 急に何を言い出すんだ。水島のことを考えていたんじゃないのか。呆れる俺を尻目に田村は、「そうなると美和には犯行は不可能だ」と続けた。

「解るように言ってくれ。言っとくが俺はお前の頭の中をのぞくことはできんぞ」

「タクシーやレンタカーを使った形跡はないし、この十年誰とも連絡を取っていなかった美和に共犯者がいたとは思えない。なのに、ここまで美和の足取りが掴めないのはおかしいだろ」

「それならそれで鉄道会社の監視カメラに彼女の姿が残っているはずじゃないか。それとも歩いて出ていった、とでも……ん? いや、待てよ」

 鉄道会社の監視カメラの映像の保存期間は一週間だ。もし、それ以前に美和が鉄道を利用していれば――

「あの水島の証言、か」

 俺は田村が言わんとしていることを理解した。

「一週間以上も前に理由は判らないが美和は家を出ていた。だから美奈はふさぎこんでいたんじゃないか?」

「そうか、確かに辻褄つじつまは合うな。でも、それならどうして美和は名乗り出てこないんだ?」

「係わり合いたくないのかもな」

 田村は素っ気なく言った。

「……美奈が殺されたのにか?」

「修復不可能なほど二人の間に亀裂が入っていたのかもしれない」

「そんな……」

 俺は絶句する。いつから二人の間にそんな深い溝ができてしまったのか。

「血が繋がっていても解り合えないことだってあるさ」田村はそう言い捨て、「前に言っていたお前の推論。あながち間違ってはいなかったのかもしれないな」

 俺たちは無言のまま無残に歪んだガードレールを見つめた。

「戻ろう」

「……ああ」

 俺は主人あるじを失った家を一瞥し、ゆっくりと歩き出した。


 篠原に報告を終えて席に戻ると若林が、「遅かったな」と声をかけてきた。どうも俺たちの帰りを待っていたようだ。何かあったのだろうか。俺はコートを椅子にかけながら、「ちょっと現場に寄ってたんで」と答えると若林がいぶかしそうな顔をした。

「現場に?」

「はい」

「……そうか。なぁ、会議が終わったらちょっといいか?」

「いいですけど」

 篠原たちが正面の席に移動するのが見えた。篠原は俺たちを見て咳払いをする。捜査会議が始まるようだ。

「じゃあ、あとでな」

 若林はいそいそと自分の席に戻っていった。

「何かあったのかな?」

 田村は我関せずといった感じで「さぁな」と答えた。

 捜査会議が始まり、各捜査員から捜査状況が報告されていく。依然、美和の行方が掴めないでいる捜査本部内はピリピリとした張りつめた空気が漂っていた。篠原たちも厳しい表情を崩さない。結局、なんの進展もなく二時間ほどで会議は終了した。

「若さん」

 俺が若林に声をかけると彼は軽く片手を上げた。

「じゃあ、私も失礼するわ。望月くんたちもお疲れさま」

 そう言って、若林の隣に座っていた里見が立ち上がった。少し顔色が悪い。連日の捜査で疲れが出たのだろう。

「お疲れさまです」

 俺が言うと里見はニコリと微笑んだ。

「どうして現場に行ったんだ?」

 里見を見送る俺に若林が訊いてきた。

「少し時間があったんで日の暮れた現場を見ておこうと思って」

「ふぅん」若林は少し考え込んでから、「修平たちは水島のことどう思う?」

 若林の意図が解らず、俺と田村は顔を見合わせ、「どうって……今のところはなんとも」と答えた。「そうか」と再び考え込む若林に俺は慌てた。

「若さん、まさか……こ、恋心が芽生えたなんて言わないで下さいよ」

「あのな」

 若林が呆れ顔になる。

「じゃあ、どうしたっていうんですか? いつもの若さんらしくないですよ」

 若林は困ったように前髪を掻き上げ、「いや、修平たちの意見が聞きたくてさ。今日まで聞き込みをした限りでは水島が嘘をついているとは思えなくてね。……しかも懐かれたみたいで困ってる」と肩をすくめてみせた。

「懐かれちゃったんですか?」

「滲み出る人徳のせいかな」

「滲み出てますかね」

「溢れんばかりに」

「……じゃあ、そういうことにしておきます」

「おっ前、可愛くないぞ」

 若林が俺の首に腕を回し、締め技をかけてきた。

「ぐえっ」

「水島に何かあるんですか?」

 もがく俺を助けることなく田村は若林に尋ねた。俺の首に技をかけたまま「まぁね」と若林は溜め息をつく。ちょっと、二人とも俺のこと忘れてないか。

「若さん……苦しい」

「あ、悪い悪い」若林は俺の首から腕を放すと、「馨が水島を逮捕しろって訴えてるのは知ってるよな? 今日、課長のところに部長から連絡が入ったようなんだ。『殺人犯を放置しているというのは本当なのか?』ってさ」

「それって」

「ああ。弁護士の田上の人脈は大したもんだよ」

 若林は大きな溜め息を漏らした。

 県警本部長と田上は同じ東大法学部出身で友人同士なのだそうだ。その本部長から刑事部長に連絡が入ったようだ。現場から離れたところで交されたやり取りに俺は眉をひそめる。

「で、課長はなんて説明をしたんですか?」

「ありのままを。他に言いようがないしな」

「ですよね」

「まぁ、そういうこともあって修平たちの意見を聞きたかったんだ」

「そうですか」

 釈然としないものを感じるが、そうまでするほど馨は美奈の死を悲しんでいるのかもしれない。気丈な振る舞いをしているだけで、自分の水島への仕打ちが美奈を死なせてしまった、と。

「馨は何故そこまで水島親子を毛嫌いするんですか?」

 田村が尋ねた。俺とは別の見方をしているようだ。

「彼女自身、亡くなった旦那の女癖の悪さにかなり苦労したらしい。それが原因で夫婦仲も冷え切っていたようだ。それでだろうな。自分たちの存在自体が許せないようだ、と水島も言っていた。――だからといって、それとこれとは別の話だ。混同されては困る」

 静かな口調ではあるが、怒気を帯びた声で若林は言った。

 そうなのだろうか。彼女の中に美奈に対する想いは本当にないのか。血の繋がった唯一の家族なのに。それよりも水島への憎しみの方が大きかったとでもいうのだろうか。

 俺は、神妙しんみょうな面持ちで考え込む若林を見つめた。

 馨や水島については、これまで聞き込みをしてきた若林の方が俺たちよりも詳しいのだから、わざわざ俺たちに意見を求める必要はないはずだ。ましてや俺たちは、馨と顔を合わせたことも言葉を交わしたこともないのだ。

 田村に視線を向けると、彼は頷いた。

「あの、若さん。実は、俺たちも水島が犯人ではないかと考えているんです」

 俺がそう告げると若林は怪訝けげんな顔をした。

「修平、何を」

「まだ推測の域を出ていないので黙っていました。すみません」

「そんなことはどうでもいい。何故、そう思うんだ?」

 俺が口を開きかけた時、「おい、そこの御三家! そんなとこで第二会議開いてないでこっちにこい!」と篠原の怒りを含んだ低い声が飛んできた。見ると、陣内や藤堂たちも興味深そうに俺たちを眺めている。聞いていたのか。

「望月、詳しく話せ」

 篠原に促され、俺は美和が既に家を出ていたのではないかという推論を始めに説明した。

「水島を疑っているのに奴の証言を鵜呑みにするのか?」

 都合が良過ぎないか、と篠原は言いたげだ。

「証言のすべてを嘘で取り繕うのは難しいと思います。真実を話しながら嘘を織り交ぜていく方が楽ですし、齟齬そごをきたす危険も少なくてすみます。水島にとって好都合だったからこそ、最初にそのことを警察で証言したんじゃないでしょうか?」

 篠原は頷き、「それで?」と続きを促した。

「水島が家を飛び出した時には、まだ美奈は生きていたのではないかと考えました。美奈と口論したか何かで水島は家を飛び出し、そこで山口の車と接触しそうになった。慌てて身を隠した水島は、誰もいなくなるのを待っている間に冷静になり、事故処理が終わったあとで美奈の家に戻った。しかし、そこでまたいさかいが起き、思わず近くにあったブロンズ像で美奈を殺害してしまった」

 篠原たちがじっと俺を見ている。口を切ったのは陣内だ。

「じゃあ凶器は、まだ水島の手許にあると?」

「夜のうちに処分したのではないかと考えています。凶器を手許に置いておくのは危険ですから。ブロンズ像をタオルか何かで包み、袋に入れてしまえば誰にも怪しまれることはありません。東郷町の辺りは古い民家が立ち並ぶ閑静な住宅街です。まして今の時期であれば深夜にうろついていても人と出くわすことは、そうそうないはずです。ただ、凶器を持ち出した理由は判りません。あと火災についても」

「しかし彼は翌朝、アパートで住人に見られているぞ」

 笹島が半信半疑な様子で尋ねた。

「はい。、です。アパートから出てきた姿ではありません。彼が翌朝にアパートの近くを通ったところを住人に見られたとも考えられます」

「……しかし事故処理をした警官は不審者の姿はなかったと言っていたじゃないか」

 笹島はまだ納得がいかない様子だ。

「捜査本部に戻る前に現場に寄ってみたのですが、予想以上に現場周辺は暗く、竹林の中に隠れてしまうとよっぽど注意して見ない限り、人がいるかどうかの判断はつかないのではないかと感じました。それに事故当時は、ただの物損事故として扱われていたのでそれほど周囲に気を配っていたとは思えません。何か形跡が残っていないか、今夜、確認しに行くつもりでした」

「あ、俺も行く」

 若林は了解を得るように篠原の方に顔を向ける。

「行ってこい。どんな些細なことでもかまわん、何か見つけてこい。――それとな」篠原が俺たちを睨みつける。「そういう話は会議が始まる前に言え! 今日の会議が無駄になっただろーが!」

「すみませんでした」

 火災に関しても凶器を持ち出した理由についても納得させられるような説明ができないのに、無責任な発言はできなかった。

「皆ピリピリして気が立ってる中、下手なこと言えないよな。だから今夜、現場に行こうとしていたんだろう?」

 藤堂が助け船を出してくれた。俺はすかさず頷く。

「藤さん、甘やかすなよ」篠原は渋い顔をする。「さっさと行ってこい!」

「はいっ」

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