第18話

 昨日の朝のことだ。家の様子を確認する為に彼女の家の前を通った時、ゴミ出しに出ていたキミに「おはようさん。新しく越してみえたの?」と声をかけられたのだ。猪又はいきなりのことに驚き、「ええ、まぁ」と答えるのが精一杯だった。訊けば、毎朝この道を通る人の顔を覚えているらしい。そしてそのまま彼女に見送られ、猪又はそそくさとその場から離れた。

 そんなこともあり、今朝も同じ時間に猪又はキミの家の前を通ることにした。思いがけず加賀の話をキミから聞くことができたのだが、彼女に対して後ろめたい気持ちもあった。自分は加賀の身柄を確保する為にここにいる。もしかしたら、彼女の目の前で加賀の身柄を確保することになるかもしれない。 それを思うと気が重くなる。

 猪又は少し離れた場所に止めてある車に乗り込み、助手席のシートに深くもたれ掛かった。かじかんだ両手を擦り合わせながら、ほうきで玄関を掃いているキミを不安げにうかがう。この寒さの中、心臓は大丈夫なのだろうか。発作でも起きたら大変だ。

「あんたもマメだね」

 呆れ顔の夏目がホットの缶コーヒーを手渡してきた。

「サンキュ」猪又は缶コーヒーを受け取りながら、「加賀の話が出た。ここ数日、奴は家には来ていないそうだ」

 夏目は冷めた眼差しでキミの姿を目で追いながら「へぇ」と興味なさそうに答えた。昨日からこの調子だ。

「機嫌悪いな」

「ふん。お前はなんとも思わないのか? 二課のあたしらがなんで張り込みにつかなきゃいけないんだよ」

 夏目が苛つきながら吐き捨てた。

 他の二課の連中は詐欺容疑で加賀の逮捕状を取るべく、裏づけ捜査に奔走していた。自分たちだけが張り込みに回されたのだ。

「そりゃ、お前」

 猪又は顔をしかめる。

 初日の捜査会議で夏目は、加賀が自殺を図る可能性を考慮し、逮捕状を取って指名手配するべきだとデスク陣に進言しんげんした。

 しかし凶器からは指紋が拭い取られ、会社の出入り口に設置してある監視カメラの画像に加賀の姿は映っていなかった。一階男子トイレの窓の鍵がひとつだけ開いていたことから、どうやらそこから逃げたと思われる。

 現時点で加賀の犯行を裏づける物証はなく、詐欺容疑でも寺田の遺書だけで逮捕状を取るのは難しい、と二階堂が言うと夏目は「加賀に死なれたらどう責任を取るんだ!」と言ってのけたのだ。

 だから干された。

「あれは、まずいだろ」

 猪又は額に手を当て、溜め息をついた。夏目はギロリと猪又を睨みつける。

「本当のことを言ったまでだ。もたもたしてる間に加賀が自殺したらどうする」

「お前の言いたいことは解る。だが捜査には手順がある。加賀が犯人であると揺るぎない確証がなければ逮捕状は請求できないことはお前だって知ってるだろ?」

 夏目を諭すように猪又は言う。

「加賀は逃亡した。十分じゃないか」

「物証がない」

「そんなのあとから見つければいいだろ。加賀を捕まえて自白させればいい」

 猪又は、馬鹿なことを言うな、という目で夏目を睨みつける。彼女はひるまない。

「じゃあ、加賀が死んでもいいのか?!」

「そんなことは言ってないだろ」

「言ってるじゃないか! 規則、規則って――人の命とどっちが大事なんだ!」

 夏目の言葉にカッとなり、「だから、みんな駆けずり回って捜してんだろーが! もっと仲間を信用しろ!」と怒鳴り声を張り上げた。車の外にまで響き渡るような怒声に夏目は呆気に取られている。猪又は咳払いをし、声のトーンを落とす。

「悪い。――なぁ、夏目。もう少し周りの奴らを信じようや。俺たち警察は特高とっこうじゃない。法律の上に成り立っている社会の中の一部に過ぎないんだ。誰だって加賀に死んで欲しくはないと思っている。もちろん、二階堂警部もだ」

「ふん」

 夏目は鼻を鳴らし、視線をキミに戻した。

 猪又はネクタイの結び目に指をかけ、子供を背負った若い母親と楽しそうに話しているキミに目を据える。時折、キミが優しげな笑顔で子供の寝顔を覗き込む姿に、猪又はネクタイを緩めながら目を細めた。

「……大体さ、わざわざ市内の身内の家になんか逃げ込むか? あたしなら、すぐにでも遠くに逃げるけどな」

 夏目が沈黙を破るように言った。

 そうだろうか。逃亡中の容疑者にとって最大の逃げ場は身内だ。不安と恐怖の中に置かれた加賀にとってキミは一番の逃げ場になるのではないか。それを夏目に話すと「あたしだったら絶対に会いに行かない」と即答された。大好きな祖母に犯罪者となった自分を見せたくない、と親子を見送り玄関脇の花壇の掃除を始めたキミをまっすぐ見つめながら夏目が言った。

 猪又は遠い日の懐かしい情景を思い出す。そこには祖母がいた。どんな時でも優しい笑顔で猪又を見守り、味方でいてくれた祖母。

 ――夏目は強い。もし自分が加賀だったら会いに来てしまうかもしれない。最後の別れをする為に。そして、ゆるしを請う為に。

「猪又さ、あんまり深入りしないほうがいいよ」

 猪又の胸の内を読み取ったかのように夏目が言った。猪又はドキリとする。

「してねぇよ」

 思わず乱暴に答えると、夏目は「ならいいけど」と素っ気なく言い、そのまま黙り込んだ。

 車内に沈黙が流れる。猪又は缶コーヒーを飲みながら、キミを見つめる夏目を盗み見た。

 一課の里見の女性的な顔立ちとは違い、夏目は中性的な顔立ちをしている。髪を男みたいに短くし、黒いパンツスーツに白いシャツ、黒いネクタイが彼女のいつものスタイルだ。

 歯に衣着せぬ物言いで同僚や上司とよく衝突していた夏目のお守役として半年前、運悪く異動してきた自分はコンビを組まされたようなものだった。

 短気な性格が原因で篠原班を追い出された――とみんなは言うが絶対田村が追い出したに決まっている――自分よりも夏目の方がひと足もふた足も早く暴走するものだから、こっちは逆に冷静になり彼女を諭す側に回るハメになる。周りの目論見通り、彼女の〈お守役〉が定着しつつあった。こんな女もいるのか、と初めの頃は舌を巻いたものだ。

 猪又はフロントガラスの先にある、雲ひとつない冬空に視線を移す。眼前に広がる澄み渡る青空。夏目のようだ、とふと思う。

 夏目は遠慮も建前も関係なく、人からどう思われるかなど意識することもなく、自分の意見を率直に口に出す。直接的過ぎるその言葉に傷つく人間も少なからずいる。そして夏目自身、傷つくことが多々あった。

 それでも彼女はその姿勢を貫き続ける。それはきっと刑事という仕事に誇りを持っているから。迷いがないからなのだろう。

 最近は、夏目とコンビを組めたことを自分にとってよかったことだと猪又は思い始めていた。

「あのクソ二階堂っ。だからって、なんで張り込みに回すんだよ!」

 夏目が悪態をつきながら指の関節をボキボキと鳴らした。

 猪又は大きく溜め息をつき、掃除を終わらせ家に入っていくキミの小さなうしろ姿を見送った。

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