第12話
カウンター席と丸テーブルの席がひとつあるだけの店内。他に余計なものは一切なく、漆喰の壁にはアンティークの壁かけ時計が静かに時を刻む。ここは酒とジャズを楽しむ為の場所。
店のドアを開けると、ビル・エヴァンスのブルー・イン・グリーンがふわりと俺たちの体を包み込んだ。この瞬間が
ポートレイト・イン・ジャズというピアノ・トリオ・アルバムに収められている曲で、マスターの愛蔵品のひとつである。
「マスター、こんばんは」
俺が声をかけるとマスターは穏やかな笑顔で俺たちを迎えた。カウンターに座ると俺の前にジントニック、田村の前には烏龍ハイが置かれる。
初めて俺がOMBRAGEに来たのは、交番勤務についたばかりの頃だった。慣れない仕事の毎日で疲れきっていた俺が、ふらりと立ち寄ったのが始まり。ぼんやりとしながら聞くともなしに店内に流れていた曲を聴いていると、ふいに涙が零れ落ちた。驚く俺にマスターが、「カムレイン・オア・カムシャイン」と告げた。なんのことか解らず訊き返すと曲の名前だと言う。そして「名曲は、ただ耳に入るだけでも人の心を打つものです」とも言った。
リズムを生み出す力強いタッチの演奏がジャズの特性だと勝手に思い込んでいたが、ここで聴いたビル・エヴァンスは違った。ガラス細工のような繊細で美しいタッチから生み出される透明感あるピアノ・サウンド。
かのマイルス・デイヴィスは、ビル・エヴァンスの演奏をこう表現したという。
――ビルの演奏には、いかにもピアノという感じの、静かな炎のようなものがあった。
それ以来、俺はここの常連となり上質な音楽を聴いて英気を養ってきた。一課に配属になってからは田村を連れてここに来るようになっていた。
「お前どう思う?」
「まだ、よく判らない」
グラスを傾けながら澄まし顔で答える田村に、俺は意地悪く笑う。
「佐伯美奈とお前って似てるよな」
田村が
「人付き合いが苦手なところ」俺は唇に指を当て、「いや、お前より重症かも。ほら彼女、医者だけでなく歯医者にもかかってなかっただろ? だから遺体の確認にも手間取ってたじゃねぇか。結局、わずかに炭化を免れた腹部に事故の時の手術痕が残ってて美奈と断定されたけどさ。ここまでくると人嫌いも徹底してるって感じだよな。医者嫌いでもあるのかな?」
「お前じゃあるまいし」
「別に俺は嫌いじゃねぇよ。医者は」
「医者は、な」
「うっせ」
「彼女の場合、医者嫌いっていうよりPTSDだったんじゃないか?」
烏龍ハイをひと口飲むと田村は素っ気なく言った。
「PTSD? 確か、心的外傷後ストレス障害だっけ?」
「居眠り運転のトラックが佐伯夫妻と美奈の乗った車に突っ込み、両親は即死。後部席に乗っていた美奈も意識不明の重体で病院に搬送されたらしいな」
「病院は……彼女にとって禁忌の場所だった、てことか」
俺は閉口する。
何故、気づかなかったのか。両親を失い、自らも生死をさまようほどの重傷を負ったのだ。彼女の心に大きな傷として残らない訳がない。
「陸上競技会に出場する美和のところに向かう途中での事故だったそうだが」田村が抑揚のない声で言うと横目で俺を見た。「お前が落ち込んでどうする」
「別に。落ち込んでねぇよ。――事件のこと話そうぜ」俺は話題を
「判断は難しいだろうな」
火災班が調べたところ、石油ストーブになんらかの細工をした形跡は見られなかった。だが、火事なんて起こそうと思えばどうとでも起こすことはできる。カーテンの近くに少しだけ石油ストーブを移動させればいいだけなのだから。
「だよな。どっちにしろ燃えてしまったのは痛い。すべて灰になっちまった」
ふと耳を澄ますと、ビル・エヴァンスの代表作であるワルツ・フォー・デビーが流れていた。美しいメロディを紡ぎ出すピアノ・サウンドに耳を傾けていると、最期の瞬間まで演奏をし続けたビル・エヴァンスの姿と美奈が重なった。
左耳だけとはいえ、ピアニストである美奈が聴力を失ったことで受けた衝撃がどれほどのものだったか――俺には解らない。簡単に解るとも言って欲しくないだろう。それでもピアノを弾き続けた。それほど彼女にとって大切なものだったのだろう。
「火災が故意だとすると、その理由はなんだ?」
田村が突然、問いかけた。
「あ?」
「火をつけた理由だよ」
「普通に考えれば、指紋や証拠を隠滅する為だよな?」俺は田村の方に顔を向け、「その場合、水島や美奈の家に出入りしていた人間は除外されるな」
「まぁな。普段から家に出入りしていたんだから指紋や毛髪があってもおかしくはないからな」
「アリバイ工作の為、でもないよな。今のところ関係者全員にアリバイはないし。逆にこんな時間帯にアリバイがあるほうが怪しい。とすると指紋が残っていたらすぐに疑われてしまうような人物、か? ――そうなると美和ってことになるよな。帰国のタイミングも良過ぎるし」
「そうとは限らない。前科のある人間が自分の素性を隠す為に放火したのかもしれない」
「そっか、流しの可能性も残ってたな。――じゃあ窃盗の前科のある人間を」
俺の言葉に被せるように田村が、「窃盗目的とは限らないじゃないか。被害者は独り暮らしの女性だ。それに県内の前科者だけとは限らない。これで対象者の範囲がさらに広がったな」と意地悪く言った。
「……お前が広げたんじゃねぇか」
俺が軽く睨みつけると、田村はそれを無視して話を続ける。
「もしくは、関係者の中に火を放ってすべてを焼き尽くそうと思うほど美奈を恨んでいる人間がいたのかもしれない」
「えらい恨まれようだな。人付き合いのほとんどない美奈に恨みを抱く人間か。いるのか、そんな奴。……くそ、放火から事件について考えても先にいけないか」頬杖をつきながらグラスを見つめていると、ふいにあることが閃いた。「――なぁ、美奈はまだ死んでいなかったとしたら?」
田村は、グラスを口に運ぶ手を止めた。
「どういうことだ?」
「だからさ、水島が家を飛び出した時にはまだ美奈は生きていたとしたら?」
田村は無言で俺の顔を見る。続けろということか。
俺はジントニックをひと口飲み、「美奈と
田村は目を細め、興味深そうに「それで?」と尋ねた。
「怒りの治まらない水島は、近くに、例えば竹林の中にでも隠れて事故処理が終わるのを待った。そして再び美奈の家に戻って彼女を殺した。その後、アパートに戻ったとは考えられないか?」
我ながらいい線ついてるんじゃないか? 田村を見ると彼は顎を撫でながら考え込んでいた。どうだ、何も言い返せまい。ニンマリとしながらグラスに手をかけると田村が口を開いた。
「一時の激情がそんなに持続するだろうか? しかも車と接触しそうになったショックもあるだろうし、事故処理をする警察官の姿も見ているはずだぞ」
田村の反論に俺は渋い顔をする。そうくるか。それでも負けじと応戦する。
「じゃあ、美奈に謝りに家に戻ったのかもしれない。そこで再び口論になった」
「それなら隠れる必要がないだろ」
「山口に見つかるのが怖くて隠れたのかもしれない。高そうなBMWがグシャッとなってて
「だったら普通は逃げ帰らないか? 謝るのは翌日でもできる」
田村の言葉に俺は短く
「それに火災の件はどう説明するんだ?」
「偶然」
「都合がいいな。じゃあ凶器のブロンズ像はどうして持ち出した?」
それは考えてなかった。
「そりゃあ……指紋、は拭き取ればいいもんなぁ」
「凶器を手許に置くことのリスクがどれほどのものかお前だって解っているはずだ。現場周辺を捜索したがブロンズ像は見つかっていない。もし水島が持ち出したのなら、まだ隠し持っている可能性が高い。車も持っていない彼に遠くへ捨てに行く時間はなかったし、いつ帰ってくるか判らないアパートの住人もいるしな。そして彼は今朝、緑署に来ている。警察の目が光る中、捨てに行く機会はもうないぞ」
お前はあれか。ことごとく俺の考えを
「持ち出した理由なんて……犯人にしか判んねぇって。あーっ、くそ! いい線いってると思ったのに」
俺はカウンターに倒れ込む。その振動でグラスから水滴が流れ落ちた。
「残念だったな」
「目が笑ってるぞ、このやろ。――あ、でもさ。そうなると水島は容疑者から外れるな」
俺は顔だけ持ち上げ、田村の方を見る。田村はいつもの無表情で「どうかな」と答えた。
「だって今の話だと水島はブロンズ像を持ち出してはいないってことだろ? てことは、彼は美奈を殺していないってことじゃないか」
「持ち出したかもしれない。手許に置くリスクを負ってでも凶器であるブロンズ像を持ち出さなければいけない理由があったとすれば、な」
俺は顔を
「じゃあ、俺の説だってまだ捨てきれないじゃねぇか。なんか頭痛くなってきた」
「まだ捜査は始まったばかりだ。焦っても仕方がない」
田村はひと息つくと烏龍ハイを飲み干した。
俺はカウンターから起き上がり、「なぁ、美奈はどんなピアニストだったんだ?」と田村に尋ねた。彼女がどんな音楽を奏でていたのか、ずっと気になっていた。
「芸大時代はリストを得意としていたらしい。技術重視の演奏をしていたようで、その超絶技巧に評価が与えられていたみたいだな。聴力を失ってからの彼女は繊細で詩情溢れる演奏をするようになり、芸大時代以上の評価を得ていた」
失ったものより大きなものを彼女は手に入れたということか。
「……聴いてみたいな」
「ありますよ」
思わぬところから声がかかった。マスターだ。
「実はファンなんです。お聴きになりますか?」
そう言って、マスターは静かに微笑んだ。
グラスを片手に目を閉じ、店内に静かに響き渡るピアノの音に耳を傾ける。無駄のないシンプルな演奏。それでいて
何曲か聞き終えた時、突然、今までの演奏とは打って変わって嵐のような不協和音が始まった。驚いて目を開けると、マスターは短く「My Way」と言った。それが曲の名前、そしてアルバムの最後の曲なのだそうだ。
馨に自由を奪われ、あげく何者かに命までも奪われた美奈。それは彼女へのあまりに理不尽な現実を表すかのような絶望的で混沌とした曲だった。
胸が締め付けられる思いで聴いていると、微かではあるが不協和音の中に音の繋がりを感じた。小さな音の粒の繋がりが、少しずつ広がりを増していく。そしていつしか、心を揺り動かすほどの心地よい音楽へと変化していった。俺は全身の毛が逆立ち、身震いした。
――ああ、美奈は闘っていたのか。
そう思った途端に目頭が熱くなり、俺は唇を噛み締めた。
馨にがんじがらめに縛りつけられ、自由を奪われていても美奈は諦めてはいなかった。あがき続けていたのだ。だからこそ、この曲があるのだろう。
隣の田村を見ると目を閉じたまま音楽に耳を傾けている。開きかけた口を閉じた時、マスターが穏やかな声で「私は好きですよ。彼女の音楽」と言った。
「俺も。――俺も好きです」
俺はそう言うと静かに目を閉じ、彼女のピアノに耳を傾けた。
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