第22話 影隠す善意

 快晴で温められた春の風が、グラウンドの砂塵を纏いながら地表を滑る。

 体育祭の前という事で、午前中の三限目と四限目が丸々体育の時間割となっていた。


 零一れいいちたち高校一年生のクラスが全員グラウンドに集合し、体育座りや胡坐あぐら、長座や横座りと、思い思いに生徒が座って待機している。


 三限目を告げるチャイムが鳴ると共に、体育担当の男性教師が朝礼台に上がる。

 男性教師がスマート・リングスマリに向かって発言すると、グラウンド各所に設置されているトランペットスピーカーから、男性教師の声が拡散された。


『皆さん、こんにちは。

 本日は合同授業という事で、5月の体育祭に向けての準備や練習となります。

 三限目はリレー走者を決める為に100m走を、四限目は競技毎に分かれて練習を行います。水分補給は忘れないように。

 それでは、怪我の予防の為、準備運動から参りましょう』


 クリーム色にせた四角いトランペットスピーカーが、ラジオ体操第一の音楽を流し始めた。

 約3分間の軽い運動の後、零一を含めた体育祭実行委員が100m走の白線を引き、各レーンのスタートラインに各クラスの生徒たちが出席番号順に並ぶ。


 ホイッスルの音が鳴れば先頭にいる生徒たちが走り出す。刻々と自分の番が迫る中、夜桜よざくらが静かに脈拍を早くしていた。

 そこに、ライン引きをグラウンドの端に置いてきた零一が列に戻ってくる。

 自分の場所を見失い、辺りを見回す零一に、夜桜が手を挙げて位置を示した。


遊木ゆうきさん、ここだよー」


 夜桜の声に気づいた零一が、1組の列の間を縫って2組の列に合流する。

 夜桜が一歩だけ後ずさり、生じた隙間に零一が割りこむ。


「ありがとう。ちょっと迷っていた」


 零一の手を見ると、石灰の粉がまだらに付着していた。


「どういたしまして。ライン引きお疲れ様。

 わたし足遅いから、リレーの選手には多分選ばれないけど、みんなの目の前で走らされると思うと緊張でドキドキするね」

「俺もだな。……いや、緊張する方じゃなく、足が遅いという点で同じだ」

「へえ、緊張しないんだ。

 じゃあ遊木さんにお手本見せて貰おうっと」


 夜桜が冗談を口にすると、零一が軽く笑む。

 そうしている内に、零一が列の最前に押し出され、クラウチングスタートの姿勢を取る。


 競技としての厳密さが求められていない100m走である。加速の為に蹴りつけるスターティングブロックはない。

 代わりに、クラウチングスタートの姿勢を取る生徒の足裏に、列の一つ後ろの生徒が靴の側面を押し当て、それでブロックの代用としていた。


 夜桜が零一の両足の裏に、自身の運動靴を当てる。

 零一の体温が伝わるような距離に接近し、男子の体重を足に感じる。夜桜の鼓動に緊張とは違う拍動が混じった。


「位置について、よーい――」


 ピィーッ!


 開始を告げるホイッスルが鳴り響き、夜桜の足に零一の反動が重くのしかかった。

 零一が100m走のレーンに飛び出す。

 夜桜の目が、零一の背を追った。


 レーンの数は四つ。零一を含む男子生徒2名と、女子生徒2名が走る。

 当初は横一列に並んでいた四人だったが、すぐに零一ではない男子生徒が突出し始める。

 次に同列に並んだのは女子生徒2名。そしてその後を零一が追う形になった。


 零一本人が言っていた通り、彼の足は遅かった。

 夜桜の想像では、遅いとは言っても男子生徒として見れば遅い程度に留まるかと思っていた。しかし、実像はそれに留まらない。


 女子生徒と零一との距離がどんどんと離されていく。

 手足こそ早く動かそうとする努力は見て取れる。それだけだ。走り方のフォームの基礎がてんでなってなく、関節が接着剤になっているかのようにガチガチだった。

 先頭を走る男子生徒がゴールのラインを超えた時、零一は75m近辺でそのフォームが崩れる。


 ずべらっ!


 空回っていた右足が左足に絡まり、零一が盛大にすっ転ぶ。

 その姿を見ていた一年生のほぼ全員から笑い声が漏れ、夜桜が共感性羞恥心に赤くなる。


 しかし、その零一の滑稽な姿を見た夜桜は、己にかかるプレッシャーがなくなっていくのを感じた。彼に対する申し訳なさを抱えながらも、夜桜もまたクラウチングスタートを取る。


 零一が起き上がり、顔をうつむかせながらゴールラインを超える。既にゴールしていた生徒たちから迎えるような拍手が起こった。

 その様子を見送った体育教師が、苦笑いしつつホイッスルを構える。


「位置について、よーい」


 ピィーッ!


 今度は夜桜が走り出す。

 併走する他3人の生徒に追いつけず、彼らの姿が遠ざかっていく。それでも零一のぼろぼろの勇姿を見た後だと、悔しいや恥ずかしいといった感情が湧き出てこない。

 足に意識を集中する。両足が絡まないように走らせる。転ばないように、右足左足を交互に出し、夜桜は無事にゴールを迎える事ができた。


 走り終えた生徒たちが並ぶ列に、夜桜が合流する。石灰の白色と土埃の灰色に染まった零一が、夜桜に声をかける。


「転ばなくてよかった。丁度いい『お手本』がいたからな」


 零一が自虐のジョークを飛ばし、夜桜が苦笑した。


「遊木さんには悪いけど、転んでる所を見て緊張がほぐれちゃった」

「別にいい。恰好悪い所を見られるのは慣れてる」


 頬についた土を拭いながら、零一が嗤った。

 一年生全員分の100m走が終わり、グラウンドにアナウンスが流れる。


『実行委員は、朝礼台前に集合して下さい。

 それ以外の生徒は体育倉庫に向かい、参加する競技の道具を搬出はんしゅつして下さい』

「……あ、じゃあまた別れる感じだね」

「そうだな。それじゃあ、また」


 アナウンスに従い、零一が場を離れ、夜桜が体育倉庫に向かう。

 意欲の高い生徒が主となり、道具の搬出に携わる。惰性で体育倉庫に足を向けた生徒の多くが、手伝う余白もなくただ見守るだけであった。


 実際、夜桜も搬出されていく玉入れの籠やハードルを見送ってばかりである。そんな彼女の暇を見透かし、夜桜の背後から伸びた手が、肩をポンと叩いた。


「わっ!」


 驚いた夜桜が後ろを振り向く。


「やー、夜桜さん」


 軽い口調で呼びかけるのは、同じクラスの女子生徒、青井真凛あおいまりんだった。


「遊木くん、盛大にすっ転んだねー」

「まあ、そうだね。でもとっても頑張ってたよね」


 零一の沽券を保つ為、夜桜が「頑張り」という角度からフォローする。

 真凛もまた、零一の名誉に関して言及した。


「そうそう。遊木くんはかなりいい人だよね。

 率先して人助けするし、クラス交流会でみんなと仲良くなるし」


 しかし、零一について褒める事が、真凛の思惑ではなかったらしい。

 彼女は声を潜め、本題らしきものを切り出した。


「でもさ、遊木くんってちょっとヘンじゃない?」

「変……?」


 言われて、夜桜の脳裏に先日の出来事が蘇る。

 一緒に帰宅した時の事。知り合いとは思えないどこかの家の住民に、何かを訊き出しているような場面。


 それは夜桜の胸に引っかかっていた異変。それでも真凛に訊ねられるまでは忘れていた、わずかな異変である。

 平穏を保つ為、夜桜はやんわりと真凛の言説を否定する。


「それは、まあ、十人十色っていうものだし。

 わたしも変なところがあれば、遊木さんも周りの人と変わっているところはあるんじゃないかな?」


 夜桜の平凡な返答を受け、真凛は好奇心を露わにしニヤリと口角を上げた。


「夜桜さんは見てないだろうけど、クラス交流会の芋里いもざと鍾乳洞の遊木くんはそりゃ凄かったよー。青い壁の女の話とか、みんな大爆笑してたもん。

 でもさ、遊木くんって普段大人しい感じじゃん。その二面性とかはさ、普段よく話してる夜桜さんは感じたりしないの?」

「いや、そんなには――」


 グイグイと迫る真凛。押し負けて口ごもる夜桜。

 その間に、男子生徒が割って入ってきた。


「零一くんは! そんな、変わってはないと思う!」

「うわあっ!?」「なにっ!?」


 いきなり大声が乱入してきて、真凛と夜桜が同時に声を上げる。

 二人の間に声を挟んだのは、クラスメイトの男子生徒、しまつくすだった。


「――あ、ゴメン、いきなり大声を上げて。

 でも、零一くんは、ちょっと変わってるってだけで、他の人と特別違うって訳じゃないよ」


 擁護する島に、真凛の好奇心の向き先が変わる。


「『他の人と特別違わない』って言えるんなら、島くんは遊木くんの事をかなり知ってそうだね~」

「まあ、そうだね。一回プライベートで会った事があって、それで長い事話し合ったりしたからね」

「へえ、それってなに?」


 真凛に促され、島が思案を巡らせつつ話した。


五堂岳ごどうたけで植樹のボランティアに参加したんだけど、そこで偶然零一くんと会ったんだよね。

 それで一緒に木を植えながら、学校の事とか、ゲームの事とか、生活の事とか話してたんだ。

 話を通じてさ、零一くんは真面目な性格の普通の人だと感じたよ」


 島の実感に、真凛が反駁はんばくする。


「普段はそうだけどさ。じゃあ鍾乳洞の時のめちゃくちゃ口が回る零一くんは一体なにって話になるじゃん。

 島くんも目撃したでしょ? アカペラで美声を披露する零一くんの姿をさ」


 反駁を食らい、島の目が泳ぐ。


「それは多分……ちょっとハメを外しちゃっただけなんじゃないかな?

 ともかく、零一くんを怪しむようなことは、本人も傷つくだろうし辞めた方がいいよ」

「怪しむっていうか、気になるってだけだよ。

 夜桜さんも、遊木くんについて気になってる事ってあるでしょ?」


 いきなり真凛からキラーパスが飛んできて、夜桜が虚を衝かれる。


「えっ」

「いや、あくまでも個性程度に収まるくらいのものでしょ。ねえ、夜桜さん」


 島からも会話のボールを投げられ、主導権を握らされた夜桜は狼狽する。


 真凛に同調して「零一は変な所がある」と言うのは、心にやましい。

 かといって、島に同意して「零一は普通の人だ」と言うには、心に引っかかりがある。


 夜桜の惑いがそのまま瞳孔に移り、あちらこちらに視線が向く。

 揺れる視界の中。体育祭用のテントを設営している実行委員たちの姿が、遠くに見える。

 その中にはくだんの零一の姿もあり、同じ実行委員の女子である高坂こうさかと共にテントのパイプを組んでいる所だった。


「遊木さんは――」


 先の言葉を言いよどむ夜桜の目に、一瞬の出来事が映った。


 零一と高坂が組み上げたパイプを立て、テントの骨組みが出来上がる。

 高坂がパイプから手を離すと、取り付けが甘かったのか、頭上から屋根部分のパイプが落下してきた。


「――ッ!」


 遠くから、風に掻き消された叫び声が聞こえ――。


 ギキィィィン!


 崩壊したパイプが互いに擦れ合う甲高い音が響き、遅れて大衆の悲鳴が湧き上がった。

 砂埃が事故現場の様子を隠し、夜桜の目がその先に釘付けになる。


「……何か起こったの?」


 奇妙そうに首を伸ばす真凛。


「誰か……何かの下敷きになったみたいだ!」


 耳を澄まして悲鳴を聞き取った島。

 島と幾人かの生徒たちがグラウンドへと駆け出した。


「あ……!」


 夜桜も島の後を追い、体育倉庫からグラウンドへと通じる道を走る。

 現場に来てみれば、既に野次馬でごった返していた。横一列に展開されていた体育祭用のテントの一張ひとはりが倒壊して、あたりに鉄パイプと部品が散乱していた。


「大丈夫!?」


 島が野次馬の群れから抜け出し、重なり合った鉄パイプを除け、屋根の布を剥ぐ。

 布を剥いだ先には、気を失っている様子の高坂と、彼女を庇うように折り重なり、頭から血を流している零一がいた。


「起きられるなら起きて! 返事して欲しい!」


 島が両者の肩を叩き、安否を確認する。

 先に目を覚ましたのは、零一に庇われていた高坂だった。


「ア、アタシは大丈夫。だけど……零一クンが大丈夫じゃないかも」

「それって、やっぱり頭を打って……」

「うん……頭に鉄パイプが落下してきたみたいだから……」


 言って高坂が不安げに零一を一瞥する。


「ちょっと待ってて、今助けるから……!」


 島が高坂の腕を取って引き抜こうとするが、その行動を高坂が留める。


「待って! アタシの上に零一クンが倒れてるから、アタシだけ引き抜こうとしたら零一クンの頭が揺れちゃう。

 頭を強く打った人は、あんまり揺さぶっちゃいけないって聞いたから……先に零一クンを優先して!」

「わ、分かった。……保健室の先生呼びに行ってくる!」


 島がその場から離脱し、野次馬の中にいた夜桜に呼びかけた。


「零一くんのことを見守ってて。もし誰か零一くんを揺すろうとしたら、止めるようにして」

「うん……分かった」


 夜桜が了承し、島は頷いた後、走り去る。

 現場に夜桜が一歩踏み出し、高坂に呼びかけた。


「遊木さん、頭をパイプで打ったんだね?」

「うん、そう。アタシがちゃんと固定してないばっかりに……どうしよう、血もかなり出てるよね」


 高坂の心配げな発言の通り、零一の頭からはダラダラと血が流れ、その下にいる高坂の体操服にまで届いていた。

 夜桜が懐からハンカチを取り出すと、零一の頭の出血部に押し当てる。


「……どうしよう、こんなことになっちゃって……アタシのせいで……」


 高坂が自責の念に囚われる。


「…………」


 その姿を見た夜桜が、彼女の心配を払拭すべく笑いかけた。


「安心して。遊木さんは元気になるよ」

「え……?」


 確信を持って夜桜が呼びかける。


「わたし、ちょっとだけ医療について詳しいの。

 遊木さんの様子を見る限りでは、そんなに深い怪我じゃないと思うよ」

「そうなの……?」


 なおも高坂が不安に顔を曇らせると、夜桜が未来を口にする。


「ほら、今に目覚めてくれるから――」


 そう言って、夜桜がみつに唱え始めた。


「……闇に差せ光芒こうぼう励起れいきせよ命脈の熱」


 唱えるのは、Hatchetハチェットがとあるbotボットへと送った祝福の言葉。


「汝の瞑目めいもく方今ほうこんあらず――」


 夜桜が零一の頭に当てたハンカチに、緑色の光と温もりが生じる。


「――大聖歌セイント・チャント


 クラス:吟遊詩人バードの上級回復スキル。

 対象のHPを全回復する。


 ここは現実世界。

 しかし、現界蝕者ファルシフィエルは現実においても、詠唱を唱える事によってスキルを発現させる事ができるのだ。

 一日のうち、下級スキルならば3回、中級スキルならば2回、上級スキルならば1回まで。ヴェインの世界から離れた現実世界では、その行使には制約が課されている。


 この日唯一の使用権を消費して、夜桜は零一に上級スキルによる治癒を施したのだった。


 ハンカチの血が見る間に固まり、青ざめた顔には血色が戻り、零一の目がゆっくりと開く。


「……無事……無事か? 高坂さん……」


 まだ状況をつかめていない零一が、気を失う前に庇った相手を確認する。

 そして、零一は自分の下に当の高坂がいる事に気づくと、バッと立ち上がり身を引いた。


「ご、ごめん!」


 謝りながら、零一が高坂に手を差し伸べる。


「零一クン……!」


 高坂はしばし呆然とした後、くすりと笑ってその手を取った。


「こっちの方がゴメンだよ。

 でも……良かった。まさか夜桜さんの言った通り、零一クンがちゃんと目覚めてくれるなんて」

「夜桜さんが……」


 零一が、自身の後頭部に手を回した。

 鉄パイプが直撃してきた箇所である。零一がその箇所に当てられたハンカチをつまんで視界に収める。

 そのハンカチが夜桜のものだと察し、零一が彼女に顔を向けた。


「ありがとう。看病してくれたんだな……」

「看病っていうほどじゃないよ。ただ、止血しただけ」


 己の手柄を矮小に留め、夜桜が首を振った。


「そのせいで、ハンカチを汚してしまって悪いな……後で洗って返す」

「何も悪いことはないよ。

 遊木さんは高坂さんを庇ったんでしょ? だったらとっても良いことでしょ!」


 夜桜が笑いかけ、零一も微笑した。

 場が和む中、緊迫感を保って二人が乱入してくる。


「――先生! こっちにその男子が!」

「大丈夫ですか!? 今手当てを――」


 養護教諭を伴って、島が零一の元に辿り着く。

 慌てた様子の二人を見て、零一が呼びかけた。


「その……悪いなもり。わざわざ保健室まで呼びに行ったのか」

しまだよ。島尽しまつくす

「うーん……やっぱり頭を打ってるのかもしれませんね」


 零一が養護教諭に診察される中、夜桜の肩を叩く人物が一人。

 振り返るまでもなくその人物を特定すると、夜桜が彼女に呼びかける。


「ねぇ、青井さん」

「うん、分かってるよ、夜桜さん」


 肩を叩いた青井真凛が、夜桜に答えを返す。


「遊木くんが変わってるか変わってないかはどうでもいいくらい、『良い人』っていうのは変わりないよね」


 真凛が得た答えに、夜桜が首肯した。


「うん。だからさ、あんまり詮索するのも失礼だと思うよ」

「だよね。かなりヤボなことしちゃったな」


 女子生徒二人が並んで、一人の男子生徒への見解を一致させる。

 零一の素性の追及が打ち止めになり、彼の平穏は保たれる事となった。

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