第8話 bot

 入学式の翌日。

 朝のホームルームで女子生徒が倒れた件をそこそこに済ませ、田質でんしち高校は本格的な授業に移行した。

 公式アプリを経由しての教材データをダウンロード。公式アプリをインストールしていない零一れいいち夜桜よざくらには、文書ファイルとしてエクスポートされた教材が配信された。


 数学、現文、地理、化学。4限に渡る授業を済ませ、12時半には昼休みを告げるチャイムが鳴った。


「――はい。それではこれから50分間の昼休憩です。

 昼休みは、食堂なりお弁当なり、それぞれで昼ごはんを食べて自由に過ごしてください。

 ただし、5時間目が始まる5分前には着席している事。

 それでは、解散!」


 担任の女性教師の号令で、教室内が一斉に歓声を上げる。


「あーやっと休みだー!」

「食堂行く?」

「一緒にお弁当食べよー」


 生徒たちが昼休みの予定を口にする中、夜桜も立ち上がって隣席の零一に一言告げた。


「わたし、食堂に行ってくるね」

「ああ」


 夜桜は鞄を持って教室から出る。


 午前中の施設案内で、夜桜は食堂の場所を分かっている。


 だが、夜桜は宣言した食堂とは反対の方向へと足を向ける。

 向かうのは、案内の時点で目星をつけていた、誰もいない空き教室。


 人のいない空間を求め、夜桜は真っ直ぐに進む。

 空き教室の扉をノックし、誰もいない事を確認して入室する。


 空き教室の中には、机と椅子が全て隅に追いやられ、広い空間が確保されていた。

 その中で夜桜はスマリを掲げ、命令文を囁く。


「オープン・ザ・ヴェイン」


 VRMMORPG「マインド・ヴェイン」へ接続する為の祝詞のりと

 その祝詞のりとを受信したスマート・リングは、夜桜の脳内に埋めこまれたマイクロチップ「インプラント・サーキット」にコマンドを打ちこむ。


 インプラントとの連携承認。睡眠物質の分泌。五感再現機能のチェック。ネットワークへの通信開始――。


 そしてヴェインに完全潜入フルダイブする為の全ての準備が完了する。

 わずか0.2秒間だけの睡眠状態スリープから、夜桜は再覚醒リブートした。


 目を開ければ、相も変らぬ田質高校の空き教室。

 一方の夜桜の姿は、現実世界とは一変していた。


 小さい身長に小さい胸であった、気弱な夜桜は。

 やや高い背丈に豊満な胸、快活な笑顔が似合う美少女へと変貌していた。


 桜のモチーフが散りばめられた衣装を見れば、多くの人々がその名を呼ぶ。

 ヴェインの中でも屈指の有名人である、Cherryチェリー-Hatchetハチェットのアバターである。


「持ち物、確認」


 夜桜/Hatchetハチェットは、すぐに所有物インベントリウィンドウを開いた。

 所有物インベントリのアイテムの中から、お目当てである虹色の靄を閉じこめたガラス瓶を引き抜く。


 平坦なウィンドウからガラス瓶がオブジェクト化し、Hatchetハチェットは手に握られたそのガラス瓶を割った。


 パキン。


 ガラス瓶の中に閉じこめられていた虹色の靄が、彼女の体を包み始める。

 不可視の蜃気楼インビシブル・ミラージュという名のアイテムであり、「使用者の姿を消す」効果を持つ。

 有名人であるHatchetハチェットにとって、周囲に気づかれる事なく散策できる便利なアイテムだった。


 とはいえ、姿を消すのみである。

 足音を鳴らせば誰かに聞かれ、通行人にぶつかれば所在を知らせる事になり、攻撃を受ければダメージを受ける仕様となっている。


 透明なHatchetハチェットは空き教室のドアを開き、周囲の人間に悟られないよう行動を開始する。


 抜き足、差し足で廊下を歩き、時折通るプレイヤーを避け、校舎中央にある階段へと向かう。


 田質町自体が過疎エリアである事が幸いだった。田質高校でログインをするプレイヤーはそれなりにいるが、ほとんどのプレイヤーはすぐにプレイ人口の多い東京エリアに転送する。

 目的地に着くまでに通り過ぎたプレイヤーは、わずか5人程度だった。


 Hatchetハチェットが階段を昇り、目指すのは屋上。

 昨日は焼けていた屋上の扉。それが今日は焼け跡一つなく佇んでいる。


 ヴェインのマップオブジェクトが破損した場合、1時間で修復される。これは正常な動作である。

 しかし、Hatchetハチェットは別の箇所で違和感を覚えた。


「……ない」


 ヴェインでは、プレイヤーの周囲10m以内で起こった、過去24時間のログが表示される「ログウィンドウ」というチャット欄タブがある。

 昨日は確かに焼け焦げていた扉。そのオブジェクトへ放たれたはずの火炎属性の魔法スキルのログが、何一つとして残されていない。


 念のために、扉を抜けて屋上へと足を踏み入れるが、ログウィンドウは真っ白なままだ。


「……ふう」


 屋上の電子の風に吹かれ、Hatchetハチェットは旋風にため息を乗せる。


 ログを調べたのは、昨日この学校に襲撃をかけたプレイヤーが誰なのかを知る為。

 ログには「誰が」「誰に対して」「何のスキルを使用したのか」が記載される。

 その「誰が」と「誰に対して」が分かれば、女子生徒を襲ってきたプレイヤーを通報できるのだが――。


 そのログを抹消された以上、分かる事は一つだけ。

 昨日の女子生徒襲撃事件には、データを改竄できるプレイヤーが関わっているという事だ。


 そんな恐ろしい人間が身近にいる可能性を考え、Hatchetハチェットは気分が沈む。

 仮に自分が標的になったとすれば、チートやハッキング、ありとあらゆる手段で自分を殺害プレイヤー・キルしようとするだろうし、まともにVヴェインアイドルとしての活動はできなくなるだろう。


 いや、それどころか、もし誰の助けも呼べない状態で殺害プレイヤー・キルされたとしたら――。



 ゲーム上の殺害プレイヤー・キルではなく、現実の死。

 Hatchetハチェットが震え上がる。

 もし、高度なハッキング技術を持つ事件の犯人――それこそもしかすれば噂のZilchジルチがここにいたとすれば、透明化アイテムで偽装しているだけのHatchetハチェットなど、簡単に見つけられるだろう。


 もう用事は済んだ。犯人が現場に戻ってくるかもしれない。早くここから出よう。


「クローズ・ザ――」


 ヴェインから離脱する為の命令文を紡ごうとした時、単調な命令文が耳に入った。


『オープン・ザ・ヴェイン』


 屋上に響く、機械音声の命令文。

 それと共に、屋上で新たなアバターが出現する。


 白いTシャツを着て、紺色のジーンズを穿いた男性アバター。


 ――何?


 明らかな初期アバターのプレイヤーに、Hatchetハチェットいぶかしむ。

 彼女はそのプレイヤーにフォーカスを合わせ、公開データを参照する。


 O3c2kxdl-F3k0ad1p。明らかなランダム生成の名前を持ち、プレイヤーレベルは1。

 ここで、Hatchetハチェットの疑念は確信に変わる。


 間違いなく、botボットだった。


 botボット。MMORPGのみならず、ネット接続を要求されるゲームで散見される癌。

 コンピュータが操作するプレイヤーであり、その目的の多くは不正にゲーム資産を増やす事。

 ひたすらモンスターを狩る、採集を行う、ダンジョンを潜る……等、24時間疲れも知らずにゲームをプレイするのがbotボットである。

 その膨大な試行回数の結果、単純にゲーム内通貨であるGゲインを増やしたり、レアアイテムのドロップを狙う。


 そうして増やしたゲーム資産を、コンピュータのオーナーが悪用する。

 ゲーム資産を第三者に現金で売りつける、非公式の「リアルマネートレード」が最たる悪用先だろう。


 ゲームといえど、その内部ではリアルな経済活動が脈打っている。

 その経済活動の中で、大量にGゲインやレアアイテムを量産されては、不健全なインフレーションが起きてしまう。

 こうしたbotボットは重大な規約違反であった。


 Hatchetハチェットはプレイヤーの公開データから「通報」の項目を選び、ヴェインの運営にbotボットの存在を知らせる。

 一連の動作は全く正しく、一般プレイヤーとしてあるべき操作だった。


 だが――。


『通報検知。サーチ開始』

「――!」


 通報されたbotボットが、無感情に警告を発する。

 通報されたかどうかなど、その対象となったプレイヤーは本来分からないはずだ。でなければ、通報したプレイヤーに報復行為を犯す輩が多発する。


 本来知る事のできない通報が検知できるのであれば。

 このbotボットの主は、チートやハッキング等の不正行為の常習犯である。


「クローズ・ザ・ヴェイン!」


 透明な姿のまま、周囲に聞こえる音量でログアウトの命令を唱えるHatchetハチェット

 誰かに聞かれようが構わない。チーターやハッカーが相手では分が悪い。規約を遵守し、チートを使わず、情報技術的に無防備なHatchetハチェットは彼らの格好の餌だ。


 ログアウトを意味する言霊は――Hatchetハチェットのシステムから拒否された。


『エラーです。このエリアではログアウトできません』

「なっ――!」


 このエラー文は聞いた事がある。

 PvP対人戦エリア等の、不都合な途中ログアウトを防ぐエリアで発せられるエラーである。

 だが、ここはただの一般エリアであり、このようなエラーは本来起こり得ない。


 そして、起こり得ないはずのエラーを起こしている張本人が降臨した。


「――おお。まさかまさか。

 姿を隠した鼠が、ワタシの作品を通報したと思ったら、その鼠は麗しき歌姫だったとは」


 テレポートの演出と共に、その男が現れた。

 芝居がかった声に、道化師の服装。

 その姿の通りに、公開データに示されたクラスは道化師トリックスター。妨害や罠等の搦め手を得意とするクラスである。


 ――パチン。


 道化師が指を鳴らすと、自動ハッキングによりHatchetハチェットの透明化が剥がされる。

 露わになったHatchetハチェットの姿に、道化師が深々と一礼した。


「どうも、Mademoiselleマドモアゼル。その可憐なお姿を隠すのは実にもったいない。

 さて、さて。これも何かの縁でしょう。どうか、ワタシと一緒に踊っていただけませんかな?」

「……悪いけど、突発コラボはお断りよ!」


 Hatchetハチェットが啖呵を切りながら、道化師と距離を取る。


 彼女のハッキング技術はからっきしだが、聞きかじりの知識は備えている。

 チーターやハッカーと言えど、その尺度は基本的にヴェインというゲームに押しこめられるのだ。

 あらゆる制約を超え、相手のHPを直接0に書き換える事はほぼ不可能。

 奴らはより干渉の容易い値――自分のステータスやスキルの威力を、何十何百というバグや改竄によってかさ増しする事により、他害を行うのだ。


 つまりは、ハッキング技術がある相手だとしても、ある程度ヴェインというゲームでの定石が効く。

 相手はクラス:トリックスター。攻撃手法は近距離戦と、罠を使用した設置技。

 トリックスターの近距離スキルが届く3m以内に近づかず、そして相手が存在していた場所――罠を設置し得る場所を避けるように動けば、そもそも攻撃は当たらない。


 Hatchetハチェットの回避行動に、道化師が拍手した。


「なるほど、なるほど。

 流石、ヴェインのアイドルにして、屈指の有力プレイヤーのお嬢さん。

 ワタシのクラスの特性を知っておいでで、堅実な行動をお取りになられる」


 道化師は糸を引くように指を曲げると、そのジェスチャー入力にbotボットが反応した。


『戦闘モードに移行します』


 botボットが口々にモードの移行を宣言すると、所有物インベントリウィンドウから初期装備の弓を取り出した。

 botボットHatchetハチェットに向かって弓をつがえ、スキルを発動する。


麻痺の一射パラライズ・シュート


 クラス:アーチャー初級遠距離攻撃スキル。

 対象に対して麻痺毒の矢を射る。命中した際、ダメージと共に一定確率で麻痺を付与する。


「なぁに、それ?」


 初期ステータスから放たれる矢に、Hatchetハチェットは回避動作もせずに見つめる。

 レベル1と、レベルMAX100との衝突。ダメージ計算に移りもせず、99%の回避判定が立ちはだかった。

 矢はHatchetハチェットの横をすり抜け、Hatchetハチェットが道化師に呆れる。


「それで、わたしを倒そうっていうの?

 そんなんじゃ、一日経っても当たらないわよ!」

「ああ、ああ。そうでございますね。

 たった一匹のbotボットじゃあ、アナタに傷一つも負わせられない」


 道化師は大仰に嘆いてみせるが、その表情に悲しみはない。


「ですがね、100回のうち99回当たらないという事は――」


 糸を手繰り寄せるようなジェスチャーと共に、道化師の周囲の空間が歪んだ。


 ――ギュインギュインギュインギュインギュイン。


 一斉に、光の粒子と共にログイン演出が発生する。


『オープン・ザ・ヴェイン』『オープン・ザ・ヴェイン』『オープン・ザ・ヴェイン』『オープン・ザ・ヴェイン』『オープン・ザ・ヴェイン』

「なっ――!」


 Hatchetハチェットが驚愕の声を上げた。


 何十という、ログインの文言が輪唱する。

 いずれも初期アバター。レベル1のクラス:アーチャー。ランダムな名前を当てはめられた、botボットの大群。


 そのbotボットの大群を従えて、道化師が嗤う。


「1000回試せば、まず当たるという事ですよ」

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