第2章 Vアイドル、Cherry-Hatchet
第6話 鎮火
アパート、「グリーンハイツ」。
住宅街のど真ん中に建設された普通のアパート。
築20年。1LDK、風呂トイレ別。一人暮らしの若者をターゲットとして建てられた、本当に普通のアパート。
そのグリーンハイツの大家――
「……クククク……ハッハハハハハッ!」
自身のアパートの入居者にして、目にかけるべき子供――
夕方の住宅街。その真っ只中で。
零一の入居している部屋は火事で半焼。
消防車のサイレンこそ鳴れど、その笑い声は完全には搔き消されず。
第三者の村雲の目からすれば、零一の哄笑は「苦労して引っ越してきた一国一城の部屋が焼けて、心のバランスが崩れ笑うしかなくなった」としか見れなかった。
どうする。村雲清36歳。精神的な苦境に立たされた繊細な子供の心に、果たして踏み入っていいのだろうか。いやしかし、子供の異常行動を無視しては観察責任の道義にもとる。だが、どうやって話を切り出せば――。
「ハッハハハ――……あ。」
ようやく、零一が村雲の存在に気づいたらしい。
青年は哄笑を途切れさせ、こちらに振り向く。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙。
こほん、と村雲が咳払いし、覚悟を決めて話し出した。
「や、やあ……零一くん。その……災難、だったな」
「あ、いえ……俺は、大丈夫です」
「…………」
「…………」
沈黙。
事の深刻さを受け止めた零一の表情が、段々と曇っていく。
火事の責任。原因が過失であろうとも、出火場所は間違いなく零一の部屋である。
つまりは、零一がアパートに損害を与えた。
現実的な観点からすれば、出火させた零一は加害者であり、大家の村雲は被害者であった。
先程まで哄笑を上げていたとは思えないほど、零一の空気が重く沈む。
それは村雲から見ても明らかだった。
「――すみません、大家さん。本当に申し訳ないです」
深々と、零一が頭を下げる。
声色に沈痛な色を滲ませ、零一はただ精一杯に謝罪した。
「――――」
村雲は、言葉を失った。
入学式を終え、帰宅したばかりの子供が、
過失の出火で住処を失った状態で、自分に対して詫びている。
その痛々しさに耐え切れず、村雲はなるべく傷をつけないよう零一を励ました。
「――いや、大丈夫だ。顔を上げてくれ。
オレもキミも、火災保険に入ってる。オレは部屋の修繕費は充分に入るだろうし、きっとキミも、焼けた家財についてある程度は保証されるハズだ。
金銭的な問題は、少なくともオレは大丈夫だ。
だから、な? あんまり自分を責めるんじゃない」
その言葉に、ようやく零一が顔を上げる。
眉尻を下げ、罪悪感に
「……けど、俺のせいで、他のアパートの人たちにも迷惑をかけました」
励まされた零一自身、納得がいっていない顔だ。
――この件をそのままにすれば、零一は後まで引きずるだろう。
ならばどうするべきか。村雲は数十秒の逡巡に入る。
その逡巡の結果、村雲は零一に提案した。
「……これからオレは、そのアパートの人たちに、火事の詳細を伝えて回る仕事がある。
零一くん。もし、キミがアパートの全員に謝りたいって思っているんだったら、その仕事を一緒について回ってみるか?
ただ、これは別に断ってもいい。やってる内に辛くなったのなら、途中で止めてもいい。どうだ?」
アパートの住民たち全員に、謝罪して回る。
村雲の提案に、零一は即座に首肯した。
「はい。是非、そうさせて下さい」
* * *
火事の連絡回りは、30分ほどで済んだ。
アパートの住民に対し、まず村雲が火事の説明をし、その後に火事を起こした張本人として零一が謝罪する。
零一が頭を下げ、
ただ――。
「――クソガキが! せっかく夜勤で仮眠取ってたっていうのに、ボヤ騒ぎで叩き起こしやがって!」
とある一人の男性住民は、零一をひたすらに責め抜いた。
それに対して、零一はただ頭を下げる。反論もせず、ただひたすらに、
「すみません」
「申し訳ないです」
「今後は、このような事がないようにします」
と、男性住民からの非難を受け止めていた。
「…………」
正直、村雲はそれで零一が音を上げると思っていた。
「……次の方に会いましょう、村雲さん」
だが、その男性住民の非難責めに遭っても、謝罪回りを止めようとはしなかった。
透明な腕で喉を絞められるような苦しい表情を浮かべても、その意志は折れず。
そして、最後の住民への連絡と謝罪を終えた頃には、すっかり夜中になっていた。
一息ついた村雲が、零一の肩を叩いた。
「――お疲れさん」
細く長い息を吐いて、零一が首を振って恐縮する。
「いえ。大家さんこそ、お疲れ様です。わざわざありがとうございました」
「村雲、でいい。大家っていう立場以外にも、まあ、色々と関わるコトになるからさ」
火事の説明の際に携えていた書類を折りたたみ、村雲が零一と向かい合う。
「零一くん、しばらくはキミの部屋は修繕で使えなくなる。
その間、どこに住むかって話なんだが……108号室、そこにしばらく住んでくれないか?」
住処を失った零一に、新たな部屋の割り当て。
その言葉に、深々と零一が頭を下げた。
「ありがとうございます。ご厚意、すごくありがたいです」
零一の言葉に、ばつが悪いように村雲が頭を掻く。
「ただ、その……そこ、事故物件になってる」
「……事故物件?」
オウム返しに問う零一に、村雲が説明した。
「ああ、事故物件。そこで人が死んだ事がある。
病死で、自殺とか他殺とかそういう訳じゃないんだが……まあ、その後に借りた人曰く、『出る』そうだ」
「…………」
事故物件。
『出る』部屋と言われるのは、いわゆる幽霊、お化け、怪奇現象である。
「……………………」
零一はしばし考えこんだ後、勇気を振り絞って村雲に言う。
「大家さん……いや、村雲さん……度々、迷惑をかけて本当に申し訳ないとは思うんですが……」
「ん? 何だ?」
青ざめた零一が、冷や汗を拭いながら村雲に頼みこむ。
「……できる限りの家事はするので、村雲さんの部屋に住まわせてくれませんか」
* * *
107号室。村雲の部屋。
夕飯は冷凍食品のチャーハン。外装には「B型栄養食・夕食用」の認定証が書かれた、一般的な食事内容。
それを2人分。電子レンジで温められたチャーハンを食卓に置き、零一と村雲がレンゲを手に手に食べ始める。
「じゃあ、この食器洗いは俺がやります」
「ああ、頼んだ」
零一はしばらくの間、村雲の部屋に居候する事になった。
居候する間の食器洗いや風呂掃除、ゴミ出しは零一が行う。
零一は、買い出しや部屋の掃除も、と申し入れたのだが、学業に支障が出てはいけないと村雲が抑えこんだ。
湯気立つチャーハンを掻きこみ、男二人がテーブルを挟んで向かい合う。
「…………」
「…………」
食事の間、全くの無言。
互いに互い、ほんの数日の付き合いである。
それで会話が弾む事もなく、黙々とチャーハンを消費する。
息苦しい沈黙に耐え切れず、村雲が切り出した。
「……その、配信見ててもいいか?」
「はい。俺の事は気にしなくて大丈夫です」
「そうか。じゃあ遠慮なく――」
言って、村雲がスマート・リングを操作し始める。
かつてテレビジョンが食事中の娯楽として楽しまれていたように、今はヴェインの生配信や編集動画をその後継として楽しむ人間は多い。
配信サイトのトップページが表示される。
現実空間に映像が投影され、目にしたのは――。
『――はぁーい! 木こりさんたちー、こんばんはちぇっとー!
今日もみんなの可愛い桜ちゃん!
テーブルの中央に表示されたのは、3Dモデリングされた、女性アイドルらしき人物の生配信。
「あっ、これっ、違っ」
慌てた村雲が、適当なサムネイルをタップする。
当たり障りのないバラエティ配信に切り替え、必死に誤魔化した。
「いやその、単に、オススメに上ってきただけで! 別にその、さっきのアイドルのファンじゃなくて、その、」
「……いや、気にしなくて大丈夫ですよ。本当に」
零一がそうフォローする。
零一は優しい人間であった。先程の配信の右上に「チャンネル登録済み」の文字が表示されていた事は指摘しないし、チャットの送信履歴に「チェリハのくしゃみ助かる」という5万円の投げ銭チャットがあった事も見て見ぬ振りをする。
そして、零一はかなり優しい人間であった。
「さっきの配信、見させて下さい」
「え? チェリハの――いや、さっきのアイドルの?」
「はい。まあ、興味が惹かれたので」
「そ、そうか……!」
村雲の表情が途端に明るくなり、すぐさま表示を先程の生配信に切り替える。
自分の好きなものを「興味がある」と言われ、村雲は機嫌を良くしたようだ。
『みんなー! 今日はわたし、
桜の意匠を取り入れた衣装を着た、美少女のアバターが、満面の笑顔で呼びかけた。
ステージの上に立つ彼女を取り囲む、サイリウムの海。ライブ映像の横にあるチャット欄は、滝のように更新される。
同時接続数は1万人。零一は配信者について長じてはいないが、その数が多い事は容易に察せられた。
「……この
自分が「見たい」と言い出した手前、興味があるように装う必要がある。
零一からの質問に、村雲は上機嫌に答えた。
「そうだな。一応、
「
チーターとの戦いに明け暮れている零一にとって、その平穏な単語は聞き馴染みがなかった。
村雲は、零一のオウム返しを受け止める。
「名前の通り、マインド・ヴェインで活躍するアイドルの事だな。
このライブも、ヴェイン内の武道館で開催されてる。
今ヴェインにログインすれば、彼女のライブに参加できるはずだ」
「……なら村雲さんは、本当ならヴェインで見たかったんじゃないですか?」
その言葉に、気恥ずかしげに村雲が頭を掻いた。
「いやあ、オレは古い人間でさ。実は『インプラント』がないんだ」
脳内マイクロチップ、「インプラントサーキット」。
9割以上の人間がインプラント所有者ではあるが、体質・宗教・疑念等の理由により、少数の人間はインプラントを拒否している。
デリケートな問題に触れてしまったと思い、零一が目を伏せた。
「あの……すみません」
「別に、気にする事はない。
何ならオレもホントなら、ヴェイン上で生の
「そうですか……それは残念ですね」
零一がディスプレイを見つめた。
『――入学シーズンだね! わたしの高校は2日後が入学式なんだけど、コメントでも今日から新入生って人は多いねー!
わたしも心機一転、新曲を練習してたから、このライブで初披露を――』
自身と同年齢の少女が、配信先の視聴者に向けて快活な笑顔を向けている。
「…………」
2日後に入学式、という事は同じ高校の生徒ではないのだろう。
零一は無関心を保ち、別世界の人間を見る目でディスプレイを眺める。
明るく、一片の辛苦も見せない朗らかな笑顔も。
桜色の愛らしい衣装、
何もかもが、自身からかけ離れた、充足した遠い世界の存在。
何の関係もない、決して交わる事のない高嶺の花だと――。
* * *
仮想上の熱気が、3Dモデリングの武道館を震わせる。
マインド・ヴェイン上の東京都千代田区北の丸公園2-3。ゲーム内通貨の1億
その中で一人、
「――新曲を練習してたので、このライブで初披露をします!
それでは新曲、『桜咲く坂咲き盛れ』ですっ!」
武道館内の観客が、消費アイテムであるサイリウムを振り、光の海が波打つ。
アップテンポなイントロが流れ始め、非実体マイクの設定を静かに切って
「萌ゆるは緑、湧けよ水。生命輪廻の流れを巡れ。
詠唱と共に、スキルを唱える。
クラス:
継続回復の効果は微々たるもので、実戦において役に立つものではない。
「歌で味方を癒やす」というクラス:
戦闘中ではない以上、観客の誰一人として回復の必要はない。
それでも、彼女は必要とする。
自分自身が
イントロがAメロへと移る直前、非実体マイクの設定を再度オンにして、
凛として透き通った歌が、無意味に思える回復効果と共にヴェインの武道館に響き渡った。
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