第2話 入学式
4月6日。午前7時45分。
アパート、「グリーンハイツ」。
その202号室の寝室で、一人の青年が寝息を立てていた。
青年の手首に巻かれた白い腕輪から、甲高いアラームが鳴る。
ピピピピピ――。
白い腕輪の表面に、動作中を示す赤い光が点滅する。
実の所、セットしたアラームは7時30分に鳴るものだった。
今回鳴っているアラームは、5分毎に鳴るスヌーズ機能のアラーム。
今の時刻は午前7時45分。これは3回目のスヌーズである。
そして、3回目のスヌーズで覚醒に至らない場合――。
ヂヂィッ!
「――ぅわぁっ!?」
頭の奥深くで、電流が流れるような音と感触。
強制的な覚醒を促され、青年はベッドを飛び起きた。
これが、この時代の一般的な風景である。
脳内マイクロチップ「インプラント・サーキット」を埋めこむ事が、基本的人権になろうという時代。
世界人口の9割以上がインプラントを脳に埋め、機械と深くコミュニケートできるようになった。
あらゆる機械は人間をIDで識別でき、あらゆる電気信号が人間の五感を再現させるに足る世界。
この時世の中で標準的な携帯端末――手首に巻かれた「スマート・リング」、通称「スマリ」が、青年の脳内マイクロチップに覚醒信号を送ったのだ。
今や、青年の目には眠気というものが一切存在しない。
しかし、強制的に起こされる事への不快感は確かにある。
舌打ちと共に、青年は渋々ながら納得した。
「……そうか。今日は入学式か」
不快感は確かだが、遅刻よりはずっとマシだ。
予定よりも15分遅れた為、青年は急いで身支度を整える。
寝間着から制服に着替え、髪を梳かし、歯を磨き、朝食は摂らない。
慌ただしく準備をする中、青年は出かける間際にリビングへ向かった。
リビングには、一人用のテーブルと、一つだけの椅子。
そして、5台にもなるタワー型PCの山。
その機械の山脈に向けて、青年が声を入力した。
「
機械から生えたマイクが、青年の
『スタンバイ移行しました』
スピーカーが機械音声を奏で、青年はその声を受けて玄関に向かう。
一般人ならば、日常生活における機械はスマート・リング一つで事足りる。
しかし青年は、日常生活でない場面において必要であるからこそ、「
今はまだ必要の時ではないが――。
「行ってきます」
習慣として身についた言葉を発言し、青年が玄関を出る。
その返事には期待していなかったが、それは横手から返ってきた。
「おう、行ってらっしゃい」
「え――?」
青年から、形にならない声が口から突いて出る。
振り向く。
自室の玄関のすぐ横に、ゴミ袋を抱えた男がいた。
これまで何度か顔を合わせている男に、青年が答える。
「……ああ、おはようございます、大家さん」
「おはよう、
「はい、お気遣いありがとうございます」
言って去ろうとする青年――
「気がついてないじゃないか」
「……何がですか?」
大家の男は懐から白いカードキーを取り出すと、零一の玄関扉にカードキーをかざす。
玄関扉からガチャリ、と施錠の音が鳴った。大家のマスター・カードキーが鍵を閉めたのだ。
それで、零一が己の不備――鍵を閉め忘れた事に気づいた。
「すみません、鍵を忘れてました」
「ああ、だから気をつけてくれよ。
零一くんは、鍵アプリは持ってるよな?」
「大丈夫です」
零一はスマリをなぞると、電子カードキーの
大家の男はそれを見て安堵し、零一に向かって手を振った。
「じゃあ、今度こそだ。遅刻しないようにな」
「はい。ありがとうございました」
零一はアパートの敷地を抜け、歩道を足早に歩き出した。
* * *
体育館に並べられた椅子に、新入生たちが座っている。
体育館に吊り下がっている横断幕には「
新入生は皆一様におろしたての制服に袖を通し、手首には白い腕輪、
その中で、
舞台の壇上を真っ直ぐに見つめ、入学式最後の行事である、校長の祝辞が終わるのを待つ。
「――それでは、皆さん。恥じる事のないよう、清く正しい高校生活を送ってください。
以上を持ちまして、第86回
パチパチパチパチ……。
校長が一礼と共に舞台の袖へと
緊張が解け、新入生の中には隣の友人に話しかける者もいた。ざわめきが大きくならぬ内に、舞台の横に立っていた男性教師がマイクを取る。
「えー、静かに。入学式は終わりましたが、まだ少し説明があります」
ピピピピピッ……。
男性教師の言葉と共に、新入生のスマリから一斉に通知音が鳴り響いた。
「なに?」
「なんだ?」
「地震?」
あちこちで新入生たちが腕輪をいじり、その通知音の正体を調べようとする。
そして調べるまでもなく、男性教師が説明を切り出した。
「今、皆さんのスマリに通知が行っているかと思います。
それは『
このアプリは、出席管理や授業の振り返り、緊急時の連絡など、高校生活を送る上で必要なアプリです」
言われて、
表面をなぞると、空中に
そのディスプレイに「
零一が「許可する」のボタンに指を合わせようとしたその時、彼のスマリから警告が発せられた。
『「
零一のスマリから危険性の根拠がつらつらと読み上げられ、隣にいた女子生徒が不安がって脅えた。
「え、なに……?」
「なんか危険とか言ってるんだけど……」
不安の波が伝播していく様子を、男性教師が察知した。
男性教師は波の中心である零一へと近寄り、彼に呼びかける。
「どうしたんだ、一体?」
零一はスマリを見せるように掲げ、恐縮した面持ちで述べた。
「
固有名称を一般名称に言い換え、零一がスマリの
危険性を表す、一面英語のメッセージ。専門用語も混じるその英字の羅列に、男性教師が首を傾げた。
「そのセキュリティアプリっていうのは、どこの会社のだい?」
「えっと……すみません、覚えていないです」
「大手とかの会社で出されていないのなら、ちょっと誤動作してるかもしれないね。
このアプリはもう何年も運用しているけど、悪用されたとかトラブルとかは一件も寄せられていないから。ちゃんと安全なものだよ」
「そう、ですか……」
「これまで起こらなかった」という実績は、「これからも起こらない」という保証ではない。
男性教師の説得にも釈然としない零一。
そんな零一に対して男性教師は、「手間をかける必要がある、繊細な生徒」として対応を切り替え、零一の肩をポンと叩いた。
「それなら、この場はひとまずインストールしなくていいから。
その代わり、出席の報告や授業のスケジュールとかは、都度自分から担任の先生に連絡を取る事。いいね?」
「……はい」
その妥協案に、零一が
「よし!」
その返答で「解決」と判断した男性教師は、零一から離れ、マイクで改めて説明する。
「――えー、このアプリは、高校生活を支えてくれるアプリです。
もう何年とこの
男性教師の説明に、周囲の新入生からクスクスと苦笑が漏れる。
「えー、何あの男子。顔知らないんだけど」
「確か、東京から引っ越してきた人でしょ?」
「都会から来た人は、意識も高いんだねー」
「…………」
零一は気恥ずかしさを覚えるものの、改めてスマリからの警告を眺める。
生命兆候、脳波の読み取り。
管理者領域への書きこみ。
周辺端末への自己複製。
視覚情報の共有。
レベル2以下の交友情報の送信。パブリック記憶1週間以内のアクセス権。ヘルリックス運動神経の1分以内の操作――。
高校生活を送る上で必要のないそれらの権限を要求するアプリに対して、やはり零一はインストールをする気にはならなかった。
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