うちなびく

相沢

うちなびく

……今日も、いる。

 午後四時半、エスカレーターを上がった先にある灰色のホーム。そのホームの、線路を挟んだ向こう側に、セーラー服を着た彼女は今日も立っている。分厚い参考書を読んでいる姿から想像するに、彼女も高校受験を控えた同級生だろうか。そのような想像だけが三年間僕の頭の中で膨らみ続けている。

 しかし想像が想像の域を出ることは一度たりともなかった。ホームに立っている彼女はいつだって軽くうつむいているか読書をしているかのどちらかで、誰かと話している姿など見たことがない。故に彼女がどんな人物なのか知ることは叶わなかった。そうしたまま高校受験が二日後に迫り、僕の中学校生活は終わろうとしている。ただ一つの未練を残したままで。

 きっと来月からは彼女を目にすることは無いのだろう。高校生になったら恐らくここを利用する学生は自分一人になってしまう。ふと出た溜息をかき消すように、自分のいる乗り場へと普通電車が滑りこんでくる。プラットホームに止まった無機質な電車、その光景にほのかな生活感を付け加える群衆、そしてその中に含まれている自分もその電車に乗り込む。座った席から彼女の姿が見えるのは偶然であろうか。そんなことを考えているうちにホームの景色は後ろへゆっくりと流れていき、彼女の姿もついに見えなくなってしまった。



 春が来た。高校の初登校日を終え、中学生のときと同じようにエスカレーターで上へと昇っている昼下がり。ホームへ上がると、意図せず向かいのホームへ目がいってしまう。

 だがセーラー服を着ている彼女はいない。しかし小さく溜息をつこうとした瞬間、僕は目を見開いた。彼女は確かにそこにいた。自分と同じ高校の、少し地味なブレザー姿で、定位置ともいうべき時刻表の横に、彼女はうつむき加減で一人立っていた。

 自分でもよく分からない感情が湧き上がってくる。本当ならば嬉しいはずなのに、その気持ちが素直に出てこない。混乱が僕の身体を硬直させている。それをやわらげるために僕は自動販売機へ手を伸ばす。五百ミリリットルのミルクティーを買った。ちょうど何も停まっていないホームに、がしゃん、という音が響き渡る。急いで口を潤そうと自販機からそれを取り出すと、向かいのホームで彼女がこちらを見ているのに気がついた。初めて彼女と目が合った。彼女は僕に向けて少しの微笑みを見せた。僕は思わず息をのむ。

 初めてしっかりと見た彼女の顔の、微笑みで少し細くなった目から多くは読み取れなかったが、この駅を利用している同級生がいるとわかり、安心したような、そんな表情に思えた。自惚れかもしれない。そうとわかっていても今度は素直に嬉しいと感じることができた。

 しかし彼女の微笑みに、僕はどう反応したらいいのか分からず、必死に思考を巡らせていた。心臓の音がまわりに聞こえていないか心配になる。しかしそんな心配も、一瞬で思考の渦の中へ消えていった。

 そのとき、目の前では彼女が手を胸の高さまで上げこちらへ小さく手を振っていた。今度こそ僕の身体は完全に硬直した。たぶん今、自分の顔は真っ赤になっている。鏡は無いがそれは確信できた。僕の顔を見た彼女の顔は一瞬怪訝な表情になったあと、一気にほころんだ。

 この数舜で彼女の様々な表情を見ることができた僕はたまらなく嬉しい反面、この時間が早く過ぎてほしいと願ってやまなかった。

 その刹那、二人の間を下りの特急電車が猛スピードで駆け抜けた。何か固いものでがんと叩かれたようにして身体の硬直がとけ、一気に全身から力が抜けていった。

 特急が過ぎたとき、彼女の姿はそこから消えていた。彼女がどこに行ったか気になるとかいう感情は不思議と浮かんでこない。ただ、あのときに何も反応できなかったことへの後悔と、少しの不安、そして明日会えた時になにか話してみようという思いが合わさって、ぼんやりと僕の心を包んでいた。

 先ほど買ったミルクティーの蓋を開ける。一口飲みこむと、優しい甘さが体全体へ広がっていった。蓋を閉めるのと同時に、無機質な電車がホームへ入ってくる。いつもと変わらない景色のはずだが、車両が押してくる空気だけは、少し違う匂いがした。少し苦くて、だけど暖かい――――


春の匂いだ


 目をつむってもう一度ミルクティーを飲み、ゆっくりと目を開ける。目の前の風景が少しだけ鮮やかになった気がした。

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うちなびく 相沢 @AisawaRokuto

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