第5話
それからというもの、オスカーの指導が始まった。
端的に言えば、この男の指導は鬼である。
イリカ語もスギン語も理解はあるが、文章を書くことが不得手である己に、オスカーは徹底的に語学をたたき込んだ。
発音にやや訛りがあることを矯正されることはなかったが、子供の字のように拙い筆跡を正されるのは、流石に音を上げそうになる。
路地裏で生活するようになってから、文字を書くなどろくすっぽうなかった。自分の名前は問題ないが、そもそも勉学という文化的行為など、生きるか死ぬかの瀬戸際では必要が無かったのだ。
「くそ、なんでこんな……!」
「アレックス。そこは綴りが違う」
「分かってる、わか、分かっています!」
矯正させられているのは、文字だけではない。
言葉遣いもだ。
長年、世の中を斜に見てきたツケなのだろうか。お綺麗な言葉遣いに寒気すら覚える事を、オスカーは鼻で笑って一蹴した。
「それは子供の考えだ。時と場所、そして使い方を覚えなさい。君の歳は、今、いくつだ? 恥ずかしいとは思わないのか」
呆れさえ滲ませる声音に、ぐうの音も出せずに従うしかない。
オスカーは厳しい。そして恐ろしく強かった。
リースギン国の王族も一目置く、軍部最高司令官という肩書きは伊達ではない。何度も反発して、その度に容赦なく叩き飛ばされた。腕に覚えはある方だったが、まるで赤子の手をひねるように、簡単に捻じ伏せられてしまう。
最初のうちはあまりの衝撃に、自分がいかに矮小なゴロツキ風情であったかを突きつけられ、心臓が竦み上がるような心地だった。
幸い、ケイトに対しても容赦はなく、──むしろ実子であるからこそ、さらに過酷であるような──憮然とした態度をとっているので、それだけは溜飲も下がるというものだ。
◇ ◇ ◇
「……疲れた……」
ベランダの手すりにもたれ、咥えた煙草の紫煙をくゆらせながら、小さくぼやく。
先ほど叩かれた背中が、まだ痺れるように痛み、自然と眉間に皺がよった。
「アレックスが、もっと素直になればいいんですよ」
背後から明るい声が発せられ、面倒さを隠さず肩越しに振り返る。
視線の先で、鼻歌交じりに流行歌をくちずさむジャンネが、細い腕に洗濯かごを抱えて入ってくる。手際よくハンガーへ衣類を通しながら、ベランダを横切る物干し竿に吊していく様子を、ぼんやり眺めては溜め息を吐き出した。
「……お前は気楽でいいな、ジャンネ」
「人生は気楽が一番ですよ」
スワロイヤ領で過ごすうちに、ジャンネとはずいぶん打ち解けた。一方的に親愛の情を抱かれた、とも言える。疲労困憊の己には
「雇われの身だから、そんなことを言えるんだろう。良かったじゃねーか、オスカー総統に金で買われなくて」
嫌味交じりに吐き捨てれば、洗濯物を干し終えたジャンネが、興味深そうな目を向けてくる。
そして洗濯かごを両腕に抱え、隣に並ぶと、じっと横顔を見つめてきた。
「今日はご機嫌ですねぇ、アレックス」
「ああ?」
何をどうやってそんな話になった。
怪訝な顔を向ければ、彼女は朗らかに笑って、長い前髪を緩やかに横へすき流す。
「だっていつも、私が話しかけても、ほとんど無言じゃないですか」
身に覚えしかなく、反論できずに閉口した。ジャンネは洗濯かごを足下に置き、こちらと同じように、ベランダの手すりに両腕を乗せる。
「……わたしも、アレックスと似たようなものですよ。フィールマン様が雇って下さらなければ、どこへも行けないんです」
柔らかな光彩を放つ瞳が、手入れの行き届いた庭を見つめていた。彼女に倣い視線を向けた先では、季節の草花が空へ向かって伸び、大輪の花を咲かせている。
ジャンネの叔母だというスーゼアが、丹精込めて管理している庭園なのだと、いつだかケイトが話していた。
「アレックスは、バベル王国の事は、知っていますか?」
突如振られた話題に、息を詰めてジャンネに双眸を戻した。
バベル王国は、リースギン国とタイリッカ国の前身である。
三百年程前、もともと二国は一つの大国であった。しかし内部紛争があり、王家派の東部と、貴族院派の西部に分かれた事が原因で、歴史から名を消すこととなった国である。
今では同盟国同士、手を取り合って歩んでいる国なので、にわかに信じがたい所もあるが、平民の間でも広く浸透した話だった。
「わたしの先祖は、移民なんです。バベル王国は当時、山脈と海に囲まれた要塞国だったそうなんですが、広く移民を受け入れていたそうですよ。豊かな暮らしを求めてやってきた移民に対し、賢王バベルはその采配で、末永い幸福を約束してくれたんですって」
「……賢王だなんて、言っていいのか。平民の間でも愚王だと言われている奴を」
思わず口を挟めば、彼女は目を瞬かせ、一度、口を閉ざす。
内部紛争の発端は、バベル王の不倫だという。読んだことはないが、正室を蔑ろにし妾にばかり気をとられ、政治に疎かな男だったと、二カ国の歴史書では記されているらしい。
女に身を滅ぼした愚者だというのが、民衆の総意だったのだと。
ジャンネの目が、不思議な感情を宿しながら、こちらに向いた。
「アレックスは、本当にそう思いますか?」
「…………」
「わたしたち移民は、賢王バベルを尊敬し、彼こそが真の王であったと……そう
「……それが、フィールマン総統に対する、恩義に繋がっていると?」
「そうなんです。フィールマン様の一族は、バベル王の意思を受け継いでいるんですよ」
スワロイヤ領は辺境を守護する土地として、国外からの移住者を受け入れやすい設備が、整っているのだという。
ケイトが女侯爵として執務を引き継いだ後も、それは変わらず……否、更に意欲的に取り組まれているのだと、ジャンネは微笑んだ。
「素敵な方々でしょう? いずれ、あなたにも分かるときがくるわ」
柔らかく目尻を下げながら、まるで年端もいかぬ子供を相手取るかのように、こちらの頭を軽く撫でる。驚いて腕を振り払えば、彼女は気分を害した様子もなく、破顔して首を傾けた。
「フィールマン様は、見込みのない人には、厳しく接したりしない方ですよ。あなたは期待されているの、自信をもって、アレックス」
「……意味が分からん。買われた男の、何を期待しようってんだ」
買われたを強調して言えば、ジャンネは何てことはないと、首を振る。
「アレックスだから期待してるんでしょう。そこに、あなたがどんな経緯でケイトお嬢様のところへ来たかは、関係ないんですよ」
何を気にする事があるのだと、半ば笑い飛ばすようにも聞こえる彼女の言葉が、空気を振動させて耳に届いた。
虚を突かれて固まった己の前から、ジャンネは洗濯カゴを抱え直し、ベランダを出て行ってしまう。
取り残された己の背に、暖かな太陽光が注いで、影を揺らす。片手で顔を覆い吐き出した息ですら、少しだけ揺れて、無性に腹立たしかった。
オスカーが期待するのはアレックスだからだと、ジャンネは当然のように言う。お気楽な思考だ。さすが人生を楽しんでいる道楽者だと、言い切るだけのことはある。
そう心で蔑んで、鼻で笑い飛ばしたいのに、口角はピクリとも上向かない。
どこともつかない一点を見つめて、静かに唇を引き結んだ。
胸に湧き上がる思いが、切ないほど暖かな光に似ていると、今はまだ認めてしまいたくなかった。
認めてしまえばいずれ足場を失うことを、否が応でも理解しているから。
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