第13章 世界王者

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左手の時計をチラリと見た葉月は単語カードをカバンにしまい、立ち上がった。

上目使いに追うサチコは羨ましそうに言った。


「又、今日も待ち合わせ?」

「ウン・・・」


少し、はにかみながら葉月は答えた。


※※※※※※※※※※※※※※※


最初の試技を待つ明は、胸の十字架のペンダントを強く握りしめた。


「オバさんに教えてもらって私がビーズで作ったの・・・。

 私だと思って、一緒に連れていって・・・」


明はペンダントの感触を確かめると、目をつぶり大きく深呼吸した後、助走に入っていった。

合宿の成果であろうか、以前よりもたくましくリズミカルになったフォームでトップスピードにのると、ポールをしならせ明は宙に舞った。

 

なんなく、5m70cmをクリアした。


歓声が沸き上がる中、正子は喜ぶ葉月の薬指にしている指輪が目にとまった。

作ったばかりの新作を、明が無造作に金を置いて持っていった物であった。


葉月の指先によく似合っている。

 

(あいつめぇ・・・左手の薬指にさせるなんて。

 やるじゃん・・・)


明の後、次々と他の選手の試技が行なわれていた。


今日は世界記録保持者のポポロフが出場するとあって、棒高跳びは注目されていた。

TVのアナウンサーはポポロフが登場するまで、何とか盛り上げようと声をはりあげている。 


「やりました、日本の工藤。

 若干18歳の高校生でありながら、

 さすが日本記録保持者であります。


 見事に5m70cmをクリアしました。

 余裕がありましたね、山根さん・・・?」


「ええ、いいですよ。

 すごくリラックスしてます。

 これは期待できるかもしれませんよ・・・」

 

明の他には社会人と大学生が一人ずつ出場していたが、5m65cmをクリアした後、二人とも5m75cmを失敗して早々と競技を終了していた。

TV局のスタッフは何とかポポロフが登場するまで日本選手にがんばって欲しかったが、今の日本のレベルではあまり高望みもできないのであった。


「昔はオリンピックでメダルを争ったんですけどねえー、

 山根さん・・・」


「そーですね、

 あの時の感動をもう一度味わいたいものです」 


ドイツの選手が5m85cmを跳ぶと、明も同じ高さを一回でクリアした。

今日は身体の切れがいいと思った。


ペンダントを握りしめる事で驚く程、澄み切った気持ちになれた。

クリアするバーが、ものすごく低く見える。


その時、場内から大歓声がわきあがった。

ポポロフが、ウォーミングアップに登場したのである。


観衆に向かってにこやかに手を振り、日本風にお辞儀をすると拍手が巻き起こった。 

それに集中力を削がれたのか、スウェーデンの選手が3回めの5m90cmを失敗した。


「さあ、ここまで健闘しております日本の工藤ですが、

 いよいよ自ら持つ日本記録を5cm更新する5m90cmに挑みます。

 ここまで残っているのは5人です。

 何とか3位以内に入ってメダルを取って欲しいですね?」


さすがにポポロフを目の前で見て圧倒されたのか、明は中々助走のタイミングがとれない。

タイムオーバーになりそうで無理にスタートしたジャンプは、バーを弾いて失敗に終わってしまった。


場内のため息と合わせるように葉月と正子も肩をおとした。

2回目もタイミングが合わず、これも跳べなかった。


「さあ、日本の工藤。

 ここまで快調に記録を伸ばしてきましたが、

 やはりポポロフの重圧なのか1、2回ともタイミングが合わず

 失敗に終わっています。

 後がありません・・・」


TVのアナウンサーの声が、後ろに座っている二人組のポータブルTVから聞こえてくる。

 

「やっぱり、だめだなー・・・日本は」


「そうだけど、まー・・・良くやった方じゃないか?


 その内みんな消えて、ポポロフがいつも通りに

 6mを一発で跳んで優勝を決めた後、

 又、世界記録を1cm伸ばしてクリアするんだろ・・・?


 何でも世界記録を塗り替える度に

 スポンサーからボーナスが出るんで、

 小出しに1cmずつアップしているらしいぜ・・・」


「かーっ、そんな奴に勝てねーよなー・・・」 


その会話を聞いていた葉月は頭に血が登り、思わず立ち上がって叫んでいた。


「がんばれ、明ぁー。

 6m、跳んじゃえっー・・・」


可愛い天使の声援に周りの観客はドッと受けて、拍手が巻き起こった。


明はその声の方向を見ると、力いっぱいペンダントを握りしめた。

その痛さに、ようやく目が覚めたように大きく深呼吸した後、助走に入った。


見違える程キビキビしたストロークに、一瞬、ポポロフが明を目で追った。

ポールが溝にはまる音がしたかと思うと、明は宙に舞い上がりカクテル光線を遮るようにして、ポポロフの視界から消えた。


次の瞬間、場内からわれんばかりの大歓声が巻き起こった。


明がウェイティングエリアに戻ってくると、ポポロフがポンと肩を叩き、何かつぶやくとスタート地点に歩いていった。


「グッ、ジャンプ・・・」


場内は割れんばかりの拍手が巻き起こった。

ポポロフが跳ぶのである。


一気にバーの高さを6mまで上げて今日、最初の試技に挑む。

明はまだ肩に残る余韻に浸りながら、スーパースターを見つめていた。


汗が止まり鳥肌がたっている。 


大歓声に手を振り、答えたポポロフはシーンと静まり返る競技場のフィールドを美しいストライドで助走した。


まるでスローモーションのように正確に男は鳥になった。


何一つ無駄のない完璧なフォームで難なくクリアすると、クッションに身をゆだね、余裕の表情で観衆に手を振った。

ウェイティングサークルに戻ってウェアを着たポポロフは、再び明の肩を軽く叩くと、白い歯をこぼして言った。


「グッ、ラック・・・」


二度にわたり日本人にリアクションを送るポポロフに、ムッとしたキューバの選手は明をすごい目つきで睨み付けると、スタート地点に向かった。


「さあ、残るはあと二人。

 日本の工藤はすでに3位以内を決め、メダルを確定しています。

 山根さん、これはすごい事ですね?」


「ええ、大快挙です。

 5m90cmは今季の世界歴代5位の成績です。

 工藤君はまだ高校生ですから将来が非常に楽しみですね」


キューバの選手は手を高く上げ、自ら拍手をして観客にアピールしている。

場内はそれに合わせて拍手のリズムができた。


そのリズムに合わせるようにして助走を開始すると、すぐトップスピードにのって褐色の肌が宙に舞った。

一瞬クリアしたかのように見えたバーが、かすかに揺れて落ちていった。


クッションに拳を叩き付けてくやしがっている。


明の番がやってきた。

観衆は大歓声で若き勇者をむかえた。


ゆっくりスタート地点に立つと、明は又ペンダントを強く握り空を見上げた。

静寂が場内を支配している。


(父さん・・・6mだ。遂に来たんだ・・・)


明は一瞬、母と葉月の方を見たあと助走に入っていった。

静まりかえる競技場のフィールドを、明のスパイクの音だけが響く。


それに合わせるように、葉月の鼓動も大きくなっている。

ポールをつく音がした。


白いユニホームが宙に舞う。

ポールが折れんばかりにしなる。

 

太い両足が一直線に空に向かっていく。

母は胸にかけたロケットを握りしめている。

 

夫の写真が入っている。


(あなた・・・見てて下さいね・・・)

 

今、明は空を飛んでいる。

父の顔が見えた気がする。


幼い頃、よく両手を広げて明が走って来るのを迎えてくれた、あの笑顔が・・・。

明はそれに飛び込むように身体を預けた。


もう、バーの事は忘れていた。

確かに今、空を飛んでいると思った。

 

(父さん・・・飛んだよ、オレ・・・)

 

一瞬の事であるのに長く感じた。

時が吸い込まれていく。


空気が流れる音が聞こえてくる。

明の身体がゆっくりクッションにうまると、場内に大歓声が巻き起こった。


バーは、かすかに揺れながらも止まっている。

ポールがゆっくり倒れていった。


(父さん・・・やったよ)


父が笑った気がした。

又、やさしく頭を撫でてくれたらな・・・と思った。


アナウンサーは暫く何を言ってよいかわからず、口を開けたままバーを見ている。

そして、やっと我に返ると涙をうっすら溜めて叫んでいた。

 

「やりました、6mです・・・。

 6mなんですっ・・・。

 日本の工藤・・・遂に・・・」


解説者も声が出せず涙ぐんでいる。


長い間沈滞していた日本のかつてのお家芸だった競技が、今やっと世界の舞台に返り咲いたのである。


葉月は正子に抱きつき泣いている。

正子も胸のロケットを握りしめながら、うれしい涙を流している。


上気した顔で戻る明に今度は何も言わず、ポポロフはジッと鋭い視線を投げつけた。

それはライバルを見る目であった。


その後キューバの選手は明の気迫に押されたのか元気なく、2回目3回目と失敗した。 

明の2位が確定したのである。


場内は騒然となっている。

まさかと思った展開になっている。


わずか18歳の少年が、世界の巨人相手に堂々の勝負を挑んでいるのだ。

 

ポポロフはもうファンサービスをする事もなく、スタートすると6m5cmを一回でクリアした。

ため息と拍手で包まれた競技場の中を明はスタートしていった。


気おくれする事のないフォームで飛び出した身体は、無情にもバーにわずかに触って落としてしまった。

2回目も同じく、ほんのわずかの差で落ちた。


葉月と正子が固唾を飲んで見守る中、3回目の助走に入った。

もう、太ももがパンパンになっている。


ポポロフと違って何度もジャンプしているからだ。

誰からともなく手拍子がおこり割れんばかりの拍手の中、明はトップスピードに入った。


ポールが突き刺さった瞬間、明の身体が宙に舞う。

 

明は今・・・鳥になった。

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