第9章 夕暮れ

列車がC駅に着いて、葉月が北口の階段を降りていくと下の自転車置場の方から忍び笑いと話し声が聞こえてきた。


「ダメだったら・・・。

 もう、葉月にも同じことしてるんでしょ?」


かおるの声であった。


階段の手すり越しにそっと覗くと、制服姿のかおるの手がGパンにTシャツ姿の男の背中で動いている。


「バカヤロウ、

 お前がけしかけたんだろ・・・?」 


「だってヒロヤったら、

 だんだんマジになってんだもん。

 ちょっと、からかうだけって言ったのにぃ」


かおるが最後まで言わない内に、男は唇をふさいだ。

かおるから顔を離した男は、笑いをかみ殺すように言った。


「そんな都合のいい注文なんか聞けねーよ。

 俺は欲しいもんは、手に入れる主義なんだ」


「ずるーい。

 でもマジになっちゃヤダよぉ・・・。

 ヒロヤは私だけのもんなんだからね」


「でも、いいのかよ・・・。

 お前のダチだろ?」

 

かおるは男の肩にアゴを乗せて言った。


「そーだよ。

 葉月は私のかわいいダチ・・・。


 ウフ、本当・・かわいいの・・・。

 女の私から見ても食べちゃいたいぐらい。


 だから思いっきりイジメたいんだ・・・。


 今はまだヒロヤに有頂天にさせといて、

 その後で私とヒロヤの仲を見せつけてやるの。


 それでもゴタゴタ言うのなら、

 みんなで、まわしちゃって

 言うこと聞かすわ・・・。


 それで、その後私のペットにするの・・・」


「悪い女だなあ、お前・・・」

「ヒロヤ程じゃないよ・・・」


かおるはそう言うと、男の唇をむさぼるように求めていった。


葉月は震える足を引き摺るようにして、階段をやっとのことで昇ると、フラフラした足取りで南口の改札に出た。


そして慎重に後ろを振り返るとタクシーに乗り込み、自分の家を告げた。


葉月は真っ青な顔で、じっと前を見ている。

頭の中は混乱して、爆発寸前になっている。


(かおる、ペットってどういう事・・?

 ヒロヤさん、私の事からかってたのね。


 わからない。

 何がなんだか・・・もう・・・)


家にたどり着くと飛び込むようにして自分の部屋に入り、ベットにうつ伏せになり葉月は泣いた。


枕に顔をかぶせ、押し殺すように声を震わせ号泣している。


何でも良かった。


自分の今の混乱した心を、涙の海で洗い流したかった。

そう・・・涙は乙女達に与えられたこの世でもっともか弱く、もっとも強い武器なのだ。


泣くことで次々と変わっていける。

さなぎが蝶になるように・・・。


それは、神が与えた一番の贈り物なのかもしれない。


そんな事に気づかぬ葉月であったが、とにかく身体中の水分が全て流れてしまうかのように泣き続けた。

枕の冷さたにようやく気づく頃、葉月はゆっくり身体を起こして机の上の鏡を見た。


まぶたを赤く腫らした少女が写っている。

でも、以前感じたイヤな顔ではなかった。


葉月は白い歯を見せて微笑んでみた。 

幸せそうな少女がそこにいた。


小さく伸びをすると、階段を降りて浴室へ向かった。


熱いシャワーの雨が全身を包む。

涙で洗い流した心にしみ込むように、熱さが包み込んでいく。


からっぽになった心に、明の顔が浮かぶ。

さっき泣いた原因となった人達は誰だったのだろう。


何も思い出せない。

そんな事は、どうでもいいと思った。


今は、明の笑顔が心地良い。

 ドライヤーで髪を乾かす葉月を、鏡は写している。


見違えるほど肌の艶も良く、生気を取り戻した顔は自分でも美しいと思った。

リビングに行くと、父が庭の縁側で爪を切っていた。


猫背になって丸めている体が、ひどく小さく思えた。

明の大きな背中を見た後だからであろうか。


葉月は、ふいに心の奥底から込み上げてくるものがあった。

ゆっくり父に近づき、背中にもたれるようにして言った。


「パパ・・・」


ため息のような娘の声に、少し驚いて爪を切る手を止めた父であったが、娘の温もりを背中で心地良く感じると再び手を動かしている。 


「あら、めずらしいわね・・・」


母が微笑みながらはいってきた。

葉月は白い歯を見せると、右手を伸ばして言った。


「ねえ・・・ママもきて・・・」


母は葉月に手をあずけると、父との間に娘を挟むようにして座った。

父の爪を切る音が、パチンパチンと断続的にゆっくり聞こえる。


時折り住宅街を走る車の音と、少し早いセミの声が庭に響いている。

葉月は、今度は母の肩にもたれている。


母は何も言わず、久しぶりに抱く娘のきれいな黒髪を撫でている。


いつの間にか、大人びた娘を見てため息をついた。

心地良い時間が三人を包む。


今、葉月は明の母の言葉を思い出していた。


(ハーちゃん、贅沢よ・・・。

 いるじゃない・・・。

 そばにいてくれる人が・・・)

 

本当にそうだと思った。


今こうして父と母に挟まれていると、赤ん坊になったようで何もかもゆだねて漂っていられる幸せを感じる。

 

「ママ、色々心配かけてごめんなさい」


葉月は、母の炊事で荒れた手を見つめながら呟いた。

母はずっと娘の髪を撫で続けている。

 

「私、もう大丈夫。わかったの・・・。

 自分が何が好きで、何がしたいか。

 だから・・・」

 

又、涙がこぼれてきた。

さっき、あれ程泣いたというのに。


ただ、それは幸せを確かめる最後の涙であるかのように、一雫だけこぼれて母の手にふりかかった。

母はその涙の感触を確かめるように、葉月の顔をのぞき込んだ。


「そう・・・。

 私もこの頃ちょっと口うるさかったわね。


 でも、早いものね・・・。

 葉月もそんな事言うようになったんだ。


 ねえ、パパ・・・?」


とっくに爪を切り終わっていた父だったが、立ち上がると大きく伸びをした。


「今夜は、久しぶりに外に食べに行くか?」

そう言うと、妻と娘を見た。


二人は、うれしそうに父を見上げている。

夏の夕暮れが、二人の頬を赤く染めている。

 

久しぶりの三人の夕暮れであった。

 

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