第8章 スローモーション

バスケットをひざにかかえて、列車の窓の外の風景を見ながら葉月は複雑な思いでいた。


今、明に会いに行こうとている。


今朝、かおるに電話してツーリングに行くのを断ると、案の定、責めるようにして言われた。 


「チョットー、何よそれ・・・。

 約束破る気?

 ヒロヤ達だって待っているのに・・・」


ヒロヤの事を口に出されると、心が反応してしまう。

それでも、なんとか許してもらえた。


葉月は窓ガラスに顔を押し当てると、小さくため息をついた。

今更ながら、自分の最近の行動にあきれている。


何か理由もないものに反発して、ヒロヤ達と付き合い始めてバイクに乗ったり、夜遅くまで遊んだりして・・・。 

そうかと思うと、こうして明に会いに行ったりしている。


自分はヒロヤの事が好きなのうかと考えてみた。

ルックスも良く、意外と優しいところがある。


今一番、関心のある男である。

ただ、付き合っていると楽しいのだが、やはり疲れる気がする。


自分とは全然違う世界にいる気がするのと速度というのか、生きる時間が違う気がする。


そう、バイクと自転車のように。

道にきれいな花を見つけても、バイクなら気がつかず追い越してしまうような。


そんな曖昧だが、微かな違いを感じている。

明とは、ほんの少し言葉を交わしただけなのに、もうずっと会っているような気がした。


明の母の話だと、土曜日はいつも午前中、学校で練習しているそうだ。

もし、いなくても仕方がないし、行くだけ行ってみようと思った。


列車がK駅に着くと、胸をドキドキさせながら、いつもの登校する道を歩いた。

明の学校は葉月の女子校と同じ方向で、海のそばにあった。


夏が本格的に始まり、梅雨の合間に見せた太陽がギラギラとアスファルトの道を照りつけている。

校門を過ぎると、明が走っているのがすぐわかった。


駅からの道を歩いただけで、もう葉月は汗をぐっしょりかいており、制服のブラウスは透けて下着がうっすら見えている。

この暑さの中を、明は棒高跳び用のポールをかかえて黙々と走っている。


太陽に照らされたグラウンドは白くまぶしく光り、陽炎が揺れて境界にある林の緑がぼやけて見える。

そのグリーンのキャンパスに、逞しい明の身体が躍動している。


太いももをキビキビと高く上げ、踵がおしりに当たりそうに跳ね上げるストライドは素人の葉月にも美しいフォームだと思えた。


同じ練習を何度も繰り返している。 


(あんなに長いポールを持って・・・)


声をかけたかったが邪魔をするのがためらわれる程、迫力のある練習に葉月は圧倒されていた。

何か清らかなものを見ているようで、黙って眺めることにした。


夏の容赦ない日差しが、コンクリートの段に照り返されている。

座っているだけでも汗ばんでくる。


それでも葉月は、何か安らぎのようなものを感じていた。

 明の母と店の中で泣いて以来、心の底に溜まっていたドロドロとしたものが、少しずつ流れていく気がした。


うまくは言えないが勉強の事や、父や母、友達。

それら全ての歯車がようやく合いだしたような、ゆっくりではあるが少しずつ葉月は生気を取り戻していった。

 

ヒロヤ達とは相変わらず付き合ってはいたが、前ほど自分を壊したいと思わなくなり、徐々にであるがはツーリングも断るようにしている。


だがヒロヤに対しての感情はむず痒く残っており、時折思い出しているのだった。

 

そんな自分が不思議でしょうがなかった。


あんなに引っ込み思案だった自分が、二人の男のことを思っている。

明の事はただの幼なじみと思っていたのに、こうして眺めていると懐かしさと共に安らぎを全身に感じてしまう。


自分の心もこの陽炎のように、ゆらゆらと揺れているように思われるのだった。


ひととおり練習メニューが終わったのだろうか。


高跳び用のクッションに寝転ぶようにして休んでいた明がタオルで顔を拭き、手に何か粉のようなものを付けてポールを持つとバーから離れていった。


息を呑んで見ているとスタート位置に立った明はゆっくりと助走をはじめ、太い足を高々と上げて美しいストライドで加速していった。


ポールを持つ腕の筋肉の筋が、遠くからもはっきりわかる。

明の髪が走る風を受けて、逆立つようになびいている。 


一瞬ポールを溝に突き刺したと思うと、ムチのようにしなった。


大きい明の身体を折れそうになりながら支えると、じれったくなるような速度でゆっくりと持ち上げていく。

タイミングを合わせて明の足が跳ね上がると、ポールが一直線に伸びる。


それと並行に逆立ちするように身体をまっすぐにすると、スローモーションを見ているように際どくバーを、身体が擦り抜けていった。

クッションがホットケーキのようにくぼんだかと思うと、明の身体が跳ね上がった。


ポールは主人の手を離れ、自分一人で立っているかのように数秒の間バーの手前で静止したあと倒れていった。


十数秒の出来事なのに、まるで一本の映画を見た後のように感動が葉月の身体を包んでいた。

こんなに暑いのに、鳥肌がたっている。


明はペガサスのように宙を舞っていた。


陸上の事は、まして棒高跳び等はTVでも観たことがなかったが、これ程美しいものとは思ってもみなかった。

スピード、パワー、タイミング、そして体操競技のような柔らかさ。


何か、全てのスポーツの要素が結集しているみたいな気がする。 

もうヒロヤのことなど頭の中から消し飛んでしまい、思わず立ち上がって見とれていた。 


バーをクリアした快感にひたりながら、明は空を眺めていた。

今まで何万回と空に写した天使の顔をなぞっている。


今までの天使の顔は、10歳の少女の顔であった。

成長した彼女は、まだはっきりと顔を形作れない。


2回しか会っていないからだ。

もどかしさにイラ立ちつつも、ホコリくさいクッションの中で大きく息を吸った。


この街に葉月はいるのだ。

2回も会えたのだ。


10歳の時、父が死んで母の実家のある静岡に転校していった。


仲が良かったとはいえ、恥ずかしさも手伝ったのか別段特別の約束をするでもなく、離れ離れになってしまった。

 

それでも、ずっと心の中から消える事はなかった。


年賀状や手紙ぐらい書けばよかったのだが、気恥ずかしさに出しそびれてしまった事と、想い出を壊したくない思いで今まできてしまった。


しかし、時が経てば経つほど想いは強くなっていった。

母にK市に行く事を告げられ、そこの学校に葉月が通っていると聞かされた時、胸が弾むような気がした。


再会して17歳になった葉月を初めて見た時、自分の天使をやっと見つけたと思ったのだ。


だが、葉月は不良達に連れ去られて行った。


母に葉月の携帯の番号を渡されたが、何か今まで大切にしていたものが壊れてしまいそうで電話出来なかった。


猛烈にせつなかった。


男が促すバイクにまたがった天使が遠ざかって行く時、胸が張り裂けそうになった。


その後、狂ったように練習した。


身体をクタクタになるまでいじめ抜いて、泥のように眠った。

昨日、再び葉月と会って、ものすごくうれしかったのだが逃げるように去ってしまった。


バカだった。

もう一度会いたいと思った。


会って、何でもいいから話がしたかった。

声が聞きたかった。


少し大人びてしまった声は、それでも明にとっては天使の歌声であった。


(俺の・・・エンジェル・・・)


明は目をつぶり大きく伸びをすると、もう一度チャレンジしようと目を開いて驚いた。

 

その天使が、立っていた。


青空と入道雲を切り取るように、逆さまに微笑んでいる。

夢かと思ったが、可愛い声を聞いてようやく実感した。


「よかった・・・。

 中々、起きてこないからケガでも

 したのかと心配しちゃった・・・」


バスケットを持つ手を後ろ手に組んで、少し身体を曲げてのぞき込むようにして見ている。 


いたずらっぽく笑った瞳はキラキラ輝いている。

明は照れたように白い歯をこぼした。

 

「本当に、来てくれたんだ・・・?」

「迷惑・・・だった?」


澄んだ瞳に、汗がドッと噴き出してきた。


「いや・・・うれしいよ。」

やっとそこまで言うと、明はポールを取りに行った。


男の大きな背中を見つめながら、葉月はクスッと笑いをかみしめた。


「よかった。嫌われてるのかと思った・・・」

 天使の言葉に振り向いた明は焦って言った。

 

「そ、そんな事・・・」


「だって、全然電話してくれないし。

 昨日だって・・・」


葉月はクッションの上に身を投げ出すようにして座ると、頬を膨らませた。

明はポールを肩にかついで、天使の前まで歩いてきた。

 

「な、何時から・・・・来てたの?」

明がはぐらかすように言った。


「うーんと。1時間ぐらい前かしら?」


「そんなに・・・。

 声かければ良かったのに・・・・。」


「ううん。

 だって明君、一生懸命なんだもん。


 邪魔するの悪くって・・・。

 でもカッコ良かったよ、すっごく・・・。


 棒高跳び、好きになっちゃった」


天使にそう言われて、明はうれしかった。


素直に白い歯をこぼす明に、葉月は思った。


(この笑顔だわ・・・・。


 そう・・・思い出した。

 ずっと好きだったの・・・・。


 安心・・・できるんだ)  


葉月は明を見上げるようにして言った。


「ネエ、もしよかったらお昼にしない?

 サンドイッチ作ってきたの・・・」


「スッゲー・・・。

 腹ぺこだったんだ」


二人は中庭の植え込みに腰をかけて、葉月のバスケットを開けた。


ラップに包まれたサンドイッチは、色とりどりのラインをきれいに見せて並んでいた。

チーズの黄色、レタスの緑、ハムの赤、ブルーベリーの紫・・・。


その下から小さなポットを取り出し、蓋に冷たいジュースを注いだ。


「ハイ、どうぞ・・・」


明は夢のような幸福感を味わっていた。

天使に手渡されたアップルジュースは、心地よく喉を潤した。


ずっと離れ離れでいた葉月と、こうして並んで座っている。

美しく成長した女の子は想像していたよりも変わっていず、幼い頃と同じように優しい笑顔を見せている。


葉月も逞しい若者に成長した明を、眩しそうに見つめている。


「どう・・・おいしい・・・?」


明はサンドイッチを喉に詰まらせて、ジュースで流し込むとうれしそうに言った。


「うん、最高」


無邪気な笑顔を見て、葉月はクスッと笑った。

 

「明君、食いしん坊だったもんね・・・」


何年も離れていたのに、もう幼い頃と同じように会話ができている。


葉月は不思議であった。


今までどんな男の子としゃべっても、こんなに自然に会話した事がなかったのに。

ヒロヤとも視線は交わすのだが、かおるのように気軽に話したことはなかった。


それなのに明といると、自分の気持ちが素直に言えるのだった。

何よりも身体が大きいせいもあるのだろうか、どっしりとした感じがすごく心を安心させてくれる。


そばにいてくれるだけで、暖かいような幸せな気持ちがした。 


「ハーちゃんは今日、電車・・・?」


明の言葉に、葉月は少しギクッとして顔を強ばらせた。


そう言えば、この間会った時はヒロヤと一緒だったのだ。

何か締めつけられるような想いが、葉月の胸をおそった。


「うん、そう・・・」


「じゃ、駅まで送っていくよ。

 着替えてくるから、ここで待ってて・・・」


そう言うと、明は校舎の中に入っていった。


(何も、聞かないんだ・・・)


ヒロヤの事を聞かれたらどう答えていいかわからなかったのだが、明は何も聞かずにいてくれた。


そんな明がうれしく、暖かく感じられた。


悪く言えば鈍感なのだが、幼い頃からそんな風に見守ってくれたような気がする。

少し気を抜くと、すぐイジメられたりする子供同士の中にあって、明はどっしりとしていた。


そんな彼が転校してから、無意識のうちにイジメに対する怯えを心の底に持つようになってしまったのだろう。

この頃から笑顔が少しずつではあるが、消えていったような気がする。 


心地よい暖かさに包まれながら、葉月は明を待っていた。

こんなに安らかな気持ちになったのは、何年ぶりであろうか。


「お待たせ・・・」


学生ズボンとカッターシャツに着替えた明が、自転車をひいてやってきた。


二人は時を惜しむように、ゆっくり駅までの道を歩いていった。

葉月がハンカチで額の汗を拭いているのを見ると、明はおずおずと言った。


「良かったら・・・乗るかい?」


「いいの?・・・うれしい」


葉月は両足を揃えるようにして荷台に座ると、サドルの下の金具に片手をそえた。

もう片方の手はバスケットを持っている。


バイクではないので、恐くはなかった。

明はゆっくりとこぎだすと、自転車はすべるように発進した。


明の背中はカッターシャツ越しに見ても、筋肉で盛り上がっていた。

ヒロヤの背中など、これに比べれば子供みたいなものに感じられた。 


明の汗の匂いがする。


ヒロヤと違ってコロンなどつけておらず、男の健康そうな匂いが鼻をくすぐる。

葉月は、この匂いが嫌いではなかった。


懐かしいような、安らぎを与えてくれる男の匂いであった。

自転車の風景は、何てのんびりしているのだろう。


バイクと違って風景は溶けていく事もなく、草花の一つ一つがはっきり見える。


海のそばの学校で廻りは花畑や田んぼなので、海岸線や蝶チョウなど色々なものが目に飛び込んでくる。


風も丁度いいそよ風で目をつぶる事もなく、その風景を楽しめる。

時折交わす明との会話も心地よく、葉月はこのツーリングを心から楽しんでいた。


明の背中に、天使の温もりが感じられる。

心地よい美しい声が、耳に響いてくる。


いつもの駅までの道が美しく、短く感じられる。

明は幸せであった。


夏の厳しい日差しでさえ、二人を包んでくれるようで気持ちよかった。

時折、振返る明に白い歯をこぼす天使に、もう気も狂わんばかりに恋をしてしまった。


そう・・・葉月を好きだと思った。


バカげた事かもしれないが、今ようやく気づいたのである。

幼心に持ち続けていた憧れは何だったのか、よくわからなかったがこうして天使と会ってみて、改めて恋していたとわかったのである。


そう思ったら、急に顔が火照って真っ赤になってしまった。

葉月に気づかれぬように、もう振り返るのはやめて自転車を走らすのに専念することにした。


葉月の言葉に相槌を打つ以外は、しゃべれなくなった。


もう、駅が見えてきた。

短い旅であった。


「どうも、ありがとう・・・」


葉月が何かを待つように、明を見上げている。

明は少しためらったが、決心するように言った。 


「もし良かったら、明日も会えない?」

言ってすぐ、明は後悔した。


もし断られれば、せっかく実現した夢が又すぐ消えてしまうのだ。

下を向いて言葉を待っていると、葉月は小さな声で呟いた。


「いいよ・・・。どこで待ち合わせる?」


明は一瞬自分の耳を疑ったが、顔を上げると頬を赤らめた葉月が上目遣いに見ていた。


全身から汗が噴き出してくる。


「もし良かったら

 この駅の改札の前で10時に・・・。

 見せたいものがあるんだ・・・」


やっとの思いで、そう言った。


「じゃあ・・・。楽しみにしているわ。」


そう言うと葉月は、子鹿の様に駅の階段をかけ昇っていった。


白いルーズソックスが、いくつかの残像を明の目に残して消えていった。

 明は天にも昇るような気持ちで自転車をこぎだすと、一直線に家路をたどった。


葉月がホームに降りた時、丁度上りの電車が発車寸前であった。

慌てて飛び乗ると反対側のドアの窓から、走る電車と並ぶようにして走る明の自転車が見えた。


小さく手を振ってみたが、明にはわかっただろうか。


やがて電車はスピードをあげ、自転車は見えなくなってしまった。


(明君・・・。

 私、明君が好き。


 そうだわ・・・。

 私、好きだったんだ。


 ずっと前から・・・。

 今わかったわ・・・。


 これが、人を好きになるって事なのね。

 ヒロヤさんとは全然違う。

 そう・・・なんだ。)


訳もわからず、涙がこぼれてきた。


今までずっと悩み続けていたものが、明の母に会った日から徐々に崩れ消えていった。

そして懸命に走る明の姿を見て、初めてわかったのだ。


自分が求めていたものは何だったかと・・・。


(私・・・もうフラフラしない。

 強くなる・・・。

 誰のためでもない、自分自身のために)


涙が安らかに心を濡らす。


乾いていた大地が水を吸って生き返るように、葉月の心も瑞々しく生気を取り戻していくようであった。

電車は葉月をいたわるように、心地良いリズムで揺れていった。


まるで、ゆりかごのように。


小さな幸せをつかんだ少女を乗せて、電車はレールの上をすべっていく。

夏の日差しが窓に反射して、無数の光線を針のように通り過ぎる家々に跳ね返していく。


葉月と明は17歳。

夏は、ようやく本番にさしかかった。  

 

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