#80 有菜、単身異世界に向かう

 有菜はひとり、夕暮れの校舎にいた。遠くでひぐらしが鳴いている。

 異世界にいこう。もっとあの世界を知ろう。そう強く願って、有菜は園芸部の活動場所にやってきた。

 異世界に行きたい。

 最初は異世界というものがなんなのかすら知らなかった。沙野に説明してもらって、どうにか理解できた、というてい。魔物にもびっくりしたし食生活の貧しさにも驚いた。

 でもあの世界で泉の水を飲んだときの驚きは、忘れられない。

「異世界!」

 有菜は一言そう言ってため息をついた。異世界にはもう行けないのだろうか。もうあちらは夜なのだろうか。

 部外者が面白がっているだけかもしれない。

 だとしても、行かねばならない。自分が納得するために。


 しばらくそこに立ち尽くしていると、なにやら空気の匂いが変わった。真っ暗だ。野球部が練習する灯りもない。なにより寒い。

「うおおおおおおん……」

 なにやら不気味な唸り声が聞こえてきた。やっぱり異世界だ。そして端的に言ってピンチ。

 闇に慣れた目で見ると、向こうからオークが2体、ずんずくずんずくと近寄ってきていた。有菜は弾けるように走り出し礼拝所に向かう。

 中ではクライヴが武具の手入れをしていた。

「……アリナさん? どうしたんだい? こんな時間に、しかも一人で」

「あたしは、」

 有菜はそこまで言って、膝から崩れ落ちた。

「大丈夫かい? 顔色が悪いよ?」

「あたしは、この世界を見捨てたくないんです!」

「落ち着いて。ゆっくり息をして」

「先輩に、こっちの世界はいずれ行けなくなるから忘れろって言われて。忘れられるわけがないじゃないですか、生まれて初めて人のためになにかできたんですから」

「うん……確かに君たちはいずれこの世界には来られなくなる。それは決まっていることだ。だからって一人で夜遅くに来ちゃいけない」

「でも。なにか行動を起こすならいまだ、って思ったんです。部活のみんなには水車小屋が出来たら諦めよう、って言われました。でもそんなの、一歩進んだだけじゃないですか」

 有菜は袖口で涙を拭きながら、思ったことをぽこぽこと話した。

「わたしはこの世界のひとたちが、ちゃんと豊かにならなきゃ納得できないんです。どうすればいいと思いますか?」

 有菜の質問を聞き、クライヴは少し考えて、

「豊かになる、の基準によるんじゃないのかい?」と答えた。

「豊かになる、の基準」

「そう。都では養豚が盛んになって、いまじゃ王陛下も毎晩豚肉を召し上がっている。これで十分豊かになったと言えるんじゃないのかい?」

「……」

 思わず黙ってしまった。確かにそれは、最初に建てた目標を達成している。

「まあ、今晩はもう遅いから泊まっていくといい。相変わらず寒くて寝具のショボい宿坊でガチガチのゴキゴキになりながら寝ることになるわけだけど。そうだ、晩御飯は食べたかい?」

 石井さんのオムライスを食べてからなにも食べていない。クライヴはなにか魔物の肉を下処理をしていたらしい鍋から、魔物の肉を取り出して料理し始めた。

「それ、なんですか?」

「火炎草。前にも食べさせたことがあったよね。これは酢で煮るとおいしくなることがわかったんだ。正解の食べ方、ってやつだね」

 というわけで火炎草の肉を酢で煮たやつを、麺とさらに煮た料理が出てきた。辛いのだろうか。恐る恐るフォークで巻き取って食べる。酸辣湯麺の味だ。これなら食べられる。

「おいしいですね」

「私たちも私たちなりに、この世界の文明を進めようとしているんだ。それで納得してもらえないかな」

「……もうちょっとだけ、こっちにいたいです」

「分かった。いまはクオンキの収穫で忙しいから、それを手伝ってくれないかな」

「クオンキ。わかりました」


 クライヴは穏やかに、この世界の文明が進歩し始めていると言っていた。それで納得しろとも言われた。

 もしかしたら心配するのは迷惑で失礼なのかもしれない。

 寒い宿坊で手をさすりながら、有菜はそんなことを考えていた。

 でも、この目でこの世界が豊かになるのを見なければ、納得がいかないというのが正直な気持ちだ。

 どうしよう。

 有菜は手にはあーっと息をかけた。

 いろいろと考えつづけたせいか、さっぱり眠れなくなってしまった。ポケットからスマホを取り出す。高校に入学したときに買ってもらったものだ。古くなって電池の減りが早い。異世界は寒いのでますます電池が減っていく。

 メッセージがきた。母親だ。

「また先輩のお家?」

「まあそんなところ」と返信する。

「気をつけて帰ってきなさいよ」と返信があって、それからスマホは鳴らなかった。

 有菜はどうにかこうにか、2、3時間の睡眠を得ることができた。


 全身ゴチゴチで目が覚めて、まず礼拝所を出る。泉の水を一口飲むと、体の寒さが失せた。

「……よし」

 制服を着たまま、クオンキの収穫を手伝う。真っ赤に熟したクオンキは、ヘタからいい匂いがする。

 クオンキの収穫はどんどん進んでいく。成長を促すために摘み取った青い実は漬物にするそうだ。どんな味がするんだろう。有菜は、その日一日ビックリするほど働いた。

 午後、園芸部のみんなは来るかな、と有菜は思っていたが、誰も来なかった。腕時計を見る。秒針がすごい勢いで回っている。

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